「あれ、保奈美さん?」
玄関に出た茉理が驚いたような声をあげる。
「こんにちは茉理ちゃん。なおくん、今日はいるかな?」
訪問者は保奈美だった。
「いえ、なんか今日は天ヶ崎先輩とどこか出かけるとか言ってましたけど‥‥‥あ、もしかしてあのバカ直樹、保奈美さんと何か約束してたんですか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど。でも、アテは外れちゃった、かな」
アテが外れた割にはあまり悲しくなさそうに保奈美が笑う。
そのまま引き返そうとする保奈美を半ば強引に引き留めて、茉理は居間に上げる。
せっかくの祝日だが相変わらず両親は仕事に出たきり、直樹も美琴とデート、ちひろはちひろで何か用があるとかで、正直なところ、茉理は暇を持て余していたのだった。
「それで、アテが外れた、って何のアテだったんですか? あたしでもできるようなことだったらつきあいますよ?」
「ありがとう。でも力仕事みたいなことだから、茉理ちゃんだと難しいかも。それに、今日じゃなくても大丈夫だから、また別の日にするね」
言いながら紅茶のカップに口をつけて、
「‥‥‥ん。おいしい」
しばらく味わってから、おもむろに微笑んでみせる。
「いえいえ。先生がいいですから」
照れたように茉理は頬を掻く。ここでいう『先生』とはつまり、何日か前の保奈美のことだ。
そのまま、紅茶談義から料理の話へ。お喋りは続いていく。
続いているお喋りの切れ目とか、そういう都合には当たり前だが何の配慮もなく、保奈美のポケットでいきなり何かが鳴った。
やけに和音数が多くて音の分厚い、でもひとつひとつはチープな電子音。
「あれ。ごめんなさい、ちょっと待って」
ポケットから保奈美が取り出すの携帯電話だ。二つ折りのそれを開いて、でも耳に当てないところを見ると、電話ではなくメールが来たのだろう。
ぽちぽちといくつか操作をして、畳んだ携帯電話を保奈美がテーブルに置く。
「聞いたことない着メロでしたけど」
「ああ、これ? ええとね、『ペールギュント』。グリーグの組曲」
「もしかして、くらっしっく、ですか」
「ん。そういうの」
所謂『くらっしっく』の範疇にあるもの、であるとわかっただけで、茉理は何か苦いものでも呑み込んだような顔になる。
「うわー。あたしそういうの苦手で。凄いですね保奈美さんは」
「わたしもそんなに得意じゃないよ。あのね、今の曲はもともと、イプセンって詩人が書いた詩劇に後からつけられた曲らしいの。この間そのお話のあらすじをちょっと読んだんだけど、その前は普通の呼び出し音とか、そういうの使ってて」
「じゃあ、そのお話が気に入って、とかですか?」
「んー、気に入ったっていうか‥‥‥どうなんだろうね?」
保奈美はちょっと首を傾げた。
玄関口。ドアの向こうの空はもう暗い。
「それで保奈美さん、さっきの『ペールギュント』ってどんな話なんですか?」
「内緒」
こんこんと、ブーツの爪先をコンクリートに当てる音。
「えー? 教えてくれたっていいじゃないですかぁ」
「でもきっと、茉理ちゃんは聞いたら赦せないんじゃないかなって思うよ、ペールギュントのこと」
意外なことを保奈美は言い、茉理は眉根に皺を寄せる。何かいい話、なのではないのだろうか? 感動系とかの。
「でも、保奈美さんは好きなんでしょ?」
「んー‥‥‥どうなのかな」
「またそうやって誤魔化すー」
「ふふっ。それじゃまた明日ね、茉理ちゃん」
むくれたような茉理の顔も、閉じた扉の向こうに消えた。
好きでやってるわけないじゃない、ソルヴェイグの役なんて。
‥‥‥一瞬前まで茉理に見せていた笑顔を保ったまま、ほんの僅かな溜め息と一緒に、保奈美は何かを吐き捨てて。
それから、もう一度、ブーツの爪先でコンクリートの足元を軽く蹴った。
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