本日をもって世界平和が達成されてしまいました、なんてテレビが報道したら思わず信じちゃうかも知れないくらいの、うららかな日曜の昼下がり。
「うわああああああああああああああっ!」
‥‥‥には全然似つかわしくない突然の絶叫が、隣の部屋から聞こえてきた。
何だ今度は?
頭を掻きながら、寝転んでいたベッドから体を起こす。
「で、どうした?」
「‥‥‥祐一ぃ‥‥‥」
隣の部屋に踏み込んでみると、肌も服もお構いなく、全身に油性マジックで謎のボディペインティングを施した女の子が、情けない顔で俺を見上げた。
名前は沢渡真琴。それ以外は一切不詳。‥‥‥まあ、ここ水瀬家にしてみれば俺だって居候だが、隣の部屋のこの女の子も立派な居候だった。しかもこの子はさらに居候の猫まで飼っている。これで文句を言わないんだから、家主の秋子さんといい、唯一の家族である名雪といい、できてるんだか抜けてるんだかよくわからない。
「何をしてるんだお前は?」
「ぴろにね‥‥‥ぴろのベッドに名前書いてあげなきゃって思ったの‥‥‥」
中に厚くタオルが敷かれた段ボールの箱を指差す。
「うんうん」
「それでね‥‥‥ぴろ、って書こうとして‥‥‥」
「うんうん」
そこでまた、真琴は顔をくしゃくしゃにして、
「書けないの‥‥‥ぐすっ‥‥‥」
「どうしたの真琴ちゃん? 何かあった?」
また泣き出しそうになったところへ名雪がやってきた。
「ここまで入ってくるなよ名雪」
そのまま部屋の中まで入ってこようとするのを抑える。名雪は不満そうな顔をするが、猫アレルギーなんだから仕方ない。‥‥‥なんで猫アレルギーの家族がいるのに猫なんか飼わせておくんだか。
「ぴろって‥‥‥ぴろって書けないの‥‥‥」
「その箱に?」
「そうみたいだな」
「祐一、書いてあげたら?」
「あたしが書きたい‥‥‥」
真琴の表情はマジだった。
「だったら祐一、教えてあげたら?」
「‥‥‥しょうがねえな」
取り敢えず油性マジックからは手を離させて、代わりに鉛筆を持たせた。
新聞の束から折込広告を引き抜いてテーブルに広げる。
「じゃあまず、ここにぴろって書いてみろ」
「ん」
いつになく気合いの入った顔で真琴が鉛筆を握る。
「って、おいこら」
すぱん。密かに持っていたスリッパが真琴の後頭部を見事に捉えた。
「痛ああいっ」
「何でお前、そんな鉄棒握るみたいな持ち方で鉛筆握るんだよ。持ち方忘れたのか?」
「えっと‥‥‥あの‥‥‥うん」
「‥‥‥念のため聞くけど、書き順とかは憶えてるのか?」
「憶えてない、と思う」
「そんなとこからか‥‥‥俺が書けば二秒で終わるけど、それじゃ嫌なんだよな?」
「うん‥‥‥」
「わかった。鉛筆の握り方からいくからな。まず、親指と人差し指でこう‥‥‥」
やっとのことで、読む方が頑張れば「ひ」と「ろ」のように見えなくもない字が書けるようになった頃には、太陽はもうすっかり西に沈んでいた。
「後はじゃあ、さっきのペンで箱に書くだけだな」
「うん。頑張るっ」
その箱も、さっきのボディペインティング騒ぎの時に随分汚れてしまっていた。仕方ないからペンの色を変えたが、これで目立つように書けるのかどうかはちょっと謎だ。
「箱、変えた方がいいかも知れないね」
きっと同じようなことを思っていたんだろう。心配げに名雪が言う。
「でも代わりの段ボールなんて今はないだろ?」
「うん」
「だから、新しいのが見つかったら、その時はまた真琴が頑張って書けばいいよ‥‥‥っておい」
すぱん。
「だから痛いよ祐一っ」
「持ち方」
「あう‥‥‥ごめんなさい‥‥‥」
油性ペンを持ち直して、真琴が段ボール箱に向かう。
「真琴ちゃんふぁいとっ」
名雪の声援が飛ぶ。
そして‥‥‥真琴が段ボール箱に手をかけた。
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