そういえば、遠くで笛が鳴るような音は、さっきからずっと聞こえていた気がした。
カーテンが閉め切られたままの仄暗い部屋の中で、祐一は枕元の目覚まし時計のボタンを押す。こんなチャチな電球の明かりでも、暗闇に慣れた目には少し眩しい。
時計の針は午前十一時。当たり前だが、行っていれば学校は授業の真っ最中だ。
いい加減、ただ眠っているのにも飽きてきた祐一は、今日になって初めて、階下へ降りてみることにした。
笛が鳴るような音の正体はすぐにわかった。薬缶の口がぴーっと喧しく音をたてていたからだ。
とにかくコンロの火を止めて、換気扇を回してから、改めて、あたりをゆっくり見回してみる。
パスタの大皿とか興味半分で新しく買ってきたタバスコの壜とか半分くらい零れてしまった粉チーズの壜とか、昨夜そういうものが並べられていたダイニングのテーブルはすっかり片づけられていて、今はその代わりに、ティーサーバや、紅茶のリーフや、そういういろんなものが用意されていた。それは名雪を中心にして整然と順序よく並べられ、そこだけ見ているととても手慣れた印象を受ける。
一際強いミントの香りが少し意外で驚いたが、別にそれも、普段あんまり出てこないから意外に思えただけで、そこに出てくることが何かおかしいわけではない。
‥‥‥そんなことよりも、問題はその他の部分にあった。
薬缶の音はあれだけ喧しかったというのに、放っておいたら明日の朝まででもこのまま寝ていそうな感じで、肝心の名雪がそのテーブルに突っ伏して眠りこけている。あの万国目覚まし音博覧会を毎朝平然と無視してのける強靭な聴覚に薬缶ひとつで太刀打ちするのはやはり無理だったようだが、この場合はその強靭な聴覚のおかげで、整然も順序よくも手慣れた印象も台無し、なのだった。
「名雪‥‥‥名雪? なーゆーきー?」
無駄と知りつつ声をかけてみる。当たり前だが返事はない。
「ったく」
何となく、名雪の正面に腰かけて、テーブルに頬杖を突いた。まあ正面とはいっても、名雪はテーブルに伏せているから寝顔が見えるわけではなくて、祐一のいる方を向いているのは頭のつむじくらいだったが。
レースのカーテン越しに差し込んでくるやわらかな光の中で、くーくーと静かに聞こえる寝息に合わせて、穏やかに上下を繰り返す名雪の身体を見つめている。猫の顔をあしらったパジャマが肩のあたりで一緒に揺れる。猫まで一緒に眠ってるみたいだ。
見つめていたら、何だか起こすのも気の毒になって。
‥‥‥その薬缶の中身は最初は完全に熱湯だったワケだから、もしかしたら俺は結構長い間、こんな風にして名雪の側にいたのかも知れない、などと思いつつ。
大体いい具合に熱が引いた薬缶から自分で紅茶を二杯淹れながら、祐一は、名雪がこんな風に紅茶を注いで差し出す時に、多分言い添えたかったであろうこと、を想像してみた。
「ミントには整腸作用があるから、お腹の具合が悪い時にはいいんだよ」
何となく名雪を真似て呟きながら、千切ったミントの葉を浮かべて。
祐一の看病は私がしないといけないし。‥‥‥ついでのように思い出した今朝の名雪の言葉に、どっちが看病してるんだか、と苦笑混じりに突っ込みを入れて。
それから、秋子の席の背凭れにあった膝掛けを肩に掛け、自分のマグカップだけを持って、祐一はそっと二階へ上がる。
「‥‥‥それにねー‥‥‥気分もー、すっきりするんだよー‥‥‥」
付け足すように名雪が言った声が聞こえたような気がしたけど、それは本当に聞こえた声だったのかどうかは、祐一にはよくわからなかった。
|