本当は、わかっている事情のすべてを書こうと思ったのですが、すべてなんて、手元の小さな便箋にはとても書き切れそうになくて。
散々悩んで、ずーっと迷って、結局‥‥‥「ごめんなさい」と「さよなら」の他には何ひとつ書けなかった便箋を、久住くんの机の中にそっと忍ばせて。
元の世界へ還ると決めた私は、大きなトランクを引き摺って、ひとりで時計塔に向かいました。
それは、このあたりに記録的な大雨が降った、ある日のこと。
時空転移装置。
ずぶ濡れの頭に被ったバスタオルの隙間から、伸ばした手をそっと硝子の筒に当てました。
僅かに映り込んだバスタオルの隙間には、何だか酷い顔をした、犯人、がいました。
こんなにずぶ濡れになっていれば泣いても誰にもわからない筈だったのに、どう見ても、ずっと泣いていたようにしか見えない自分の顔。
筒の局面に沿って歪んだその酷い顔が、早く還れと私を急かします。
のろのろと頷いて、私はぽつぽつとキーボードを叩いて。
いつからか、キーボードを叩いている私を、誰かが後ろから抱きすくめていることに気づいていました。
私と同じようにずぶ濡れのままの腕が、バスタオルに抱きしめたかたちの痕を残したのもわかりました。
でも今は、その誰かの声だけは聞きたくなくて、私は手の動きを速くしました。
外の雨音は届かない静かな部屋の中に、私のキーボードの雨音がせわしなく響いて‥‥‥でも、その雨音は、それからすぐに、止んでしまいました。
本当は、最初から本気でやっていれば、そんな風に簡単に終わってしまうような作業だったのです。
「こんなところで、ひとりで何やってるんですか」
「離してください、久住くん」
「答えてください結先生」
「‥‥‥離して」
「答えて」
絶対に離さない。久住くんの腕は、まるで私にそう言ってくれているようで。
そんなことするつもりじゃなかったのに、気づけば私は、きつく握られた久住くんの手に自分の手を添えていました。
「私は、久住くんに、こんな風に抱きしめてもらえる資格なんてないんです。‥‥‥ほら、私は、つくりものですから」
「そんなことない筈です。本当は人間だったって自分で言ってたんじゃないですか。それに、つくりものかどうかなんて俺には関係ないです。俺、結先生のこと、つくりものじゃないから好きになったとか、そんなのじゃないですから」
「それに、それに私‥‥‥私は‥‥‥久住くんをふたりにしちゃった犯人ですよ?」
「もう元に戻ってるじゃないですか。美琴はちょっと辛かったかも知れないけど」
「だって私は! 久住くんだけじゃなくて、久住くんのご両親を!」
私は久住くんのご両親をどこだかわからないところへ吹き飛ばしてしまった犯人なんですよ!
こんな私が、久住くんのこと好きでいていいわけないじゃないですか!
久住くんに好きでいてもらえるだなんて、私がそんなこと思っていいわけない!
離して!
離して久住くん!
「それで‥‥‥俺の前から勝手にいなくなろうとした言い訳は、それで終わりですか?」
穏やかに、久住くんは問いかけます。
怒ってもらえたら。取り乱してもらえたら。いっそ、殴ったりしてもらえたら。
きっと、そうして穏やかにしていられるよりも、私は気が楽だったに違いありません。
でも、穏やかに久住くんは問いかけます。
だから私は頷くしかなくて。
そして、やっぱり私は、きつく抱きしめられてしまうのです。
「もし結先生が、俺の家族のこと、本当に申し訳ないと思ってくれてるなら」
「はい」
「俺から逃げないでください。結先生が本当に俺といるのが嫌なら、つきあってることとかそういうのは仕方ないのかも知れないけど、でもここから、俺の手が届かないどこかへ、勝手にいなくなるのだけは絶対止めてください」
「でも、私は」
「そのことは、事故なんだからしょうがない、って俺は思ってます。そりゃ最初に聞かされた時はちょっと釈然としなかったし、そんなことされて全然腹も立たないなんて言えるほど、正直、人間できてません。でも俺は、百年後の人たちがどんな想いでここへ来たか、それも知ってるつもりです。時空転移装置が、百年前へ避難してくるための唯一の手段が、どれくらいの想いを背負ってるものかも知ってます‥‥‥作ったのが、実験してたのが結先生だからって、こうなったことで結先生ひとりだけを恨んだりするのは何か違うんじゃないかって、今は、そう思ってます」
「でも‥‥‥久住くんはそれでいいって言ってくれても」
ふたつに分かれた俺を元に戻せたんですから、いなくなった人を連れて帰ってくるぐらいできるでしょ?
ただ、うちの両親は今はちょっと見えるところにいない。
今はまだ、それだけのことでしかない筈でしょ?
だったら。
‥‥‥結果がどうかなんて、結果がわかる前に決めつけなくたっていいじゃないですか。
得体の知れない罪の意識とかに脅えるんじゃなくて。
自分がいなくなるなんて、そんな変な決着のつけかたをするんじゃなくて。
結先生のやりかたで、起きてしまった問題は最後まで解いて欲しいんです。
「いろいろ言ったけど、本当は、あんまり気に病まないでいて欲しいだけです。それでも結先生は気に病んでいて、それが重たくて今は動けないとしたら、でもそれはきっと、今ここで全部放り出しても、放り出しちゃった後ろめたさとかからは一生逃げられないと思うから‥‥‥なんか偉そうなこと言ってますね、俺?」
歪んだ硝子に映ったもうひとつの顔は、少し照れたように笑いました。
「だからずっとここにいて、それで、できたら俺のこともう一度好きになってください、って本当はここで言いたいんですけど、でも今そういうこと言ったらなんか立場を悪用して強迫してるみたいだから、それは言わないことにしようって思ってて」
言っちゃってるじゃないですか。‥‥‥思わず、私は吹き出してしまいました。
「強迫してくれたらいいのに。そうしたら、立場を悪用されてしまったので、今の私は、仕方がなくて頷くしかありませんよ?」
悪戯っぽく笑ったつもりだったのに、
「絶対嫌です。そんな風に仕方なく頷いてもらったって意味ないです」
あくまでも、久住くんは私の意志に任せようとしてくれていて。
「ごめんね‥‥‥ごめんなさい、久住くん。それと」
観念した私は、椅子を回して、久住くんに向き直りました。
「久住くんを好きでよかった。好きになった人が久住くんで本当によかった。私、もう逃げない。ここからも、ご両親のことからも、そして、久住くんからも」
言っているうちに、ぼろぼろと涙が零れてきて。
久住くんに抱きついたせいで半分塞がってしまった口から呟く言葉は、最後の方はもう何だか、言っている私自身にもよく聞き取れないくらいになってしまって。
「百年後がどうだったかは知りませんけど」
久住くんは、半分に切った便箋の片方だけをティーカップの受け皿に置いて、火を点けました。
小さな字で『さよなら』とだけ書かれた半分の便箋がめらめらと赤く燃え上がって、そんな小さな炎なのに、何だかとても眩しくて。
「今、ここにどんなに雨が降ってたって、あの雲の上に太陽はちゃんといます。これからここが夜になっても、それは太陽が地球の裏に行ってるだけです。永遠に上がらない雨なんてないし、二度と明けない夜だってない」
「はい」
「いなくなんかならない。消えてなくなったりなんて絶対しない。絶対見つけられる筈です。だから俺たち、頑張りましょう」
私は頷いて。
「やっぱり、今は持っていてください。それは今の私の本当の気持ちですから」
そして、『ごめんなさい』の半分を、もう一度久住くんに手渡しました。
「じゃあ、うちの両親を見つけ出したら、今度はこれを燃やしましょう。それまでは持ってますから」
水に濡れたままのズボンのポケットに、便箋はくしゃっと押し込まれました。だから、次にそれが必要になった時、もしかしたら、そこに何が書かれていたかはもう読めないかも知れません。
「私、頑張りますっ」
忘れない決意を込めて、私は両手をきゅっと握りました。
「違います」
「へ?」
久住くんは、さっき私が失敗した、少し揶揄うような、でも、どこか優しい笑顔を見せて。
「俺、頑張ってくださいとか横で言ってるだけなのは嫌なんです。結先生だけに苦しい思いはさせない。俺も頑張ります。だから、頑張りましょう。頑張りますでも、頑張ってくださいでもなくて」
「ありがとう‥‥‥ええ。頑張りましょう、久住くん」
ふたりとも濡れそぼったままの冷たい身体でお互いを抱きしめながら、確かに私は、そこに日溜まりのような暖かさを感じていたような、そんな気がしたのです。
‥‥‥それは、このあたりに記録的な大雨が降った、ある日のこと。
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