午前零時の電話  


  

 ちょうど零時を回っても、茉理は手元の携帯電話をじっと見つめたままで。
「こら、遅いぞ彼氏‥‥‥」
 ぼそっと呟いて、それから、ふ、と大きく息を吐く。



 ところで、茉理の待ち人であるところの彼氏も、茉理と同じ家に住んでいる。
 彼氏の居場所は自分の部屋であり、それは要するに、茉理が今いるのと同じ家、同じ階の別室である。どのくらい近所かといえば、茉理がどんなにゆっくり歩いても、彼氏の部屋まで五秒は掛からないくらいの近所だ。
 その別室に置かれたベッドに腰を下ろして、
「早く掛けて来ないかな茉理の奴」
 彼氏は彼氏で、そんなことを呟きながら机の上の携帯電話を眺めている。
 家族間の携帯通話料を無料にするサービスへの加入により、直樹と茉理の通話に費用は発生しない‥‥‥だからといって、こんなに近くに住んでいるのに何もわざわざ電話で喋らなくても、とも直樹は思う。
 だが。
『こんな近くに住んでて、いつでも手が届く場所に一緒にいて、でも、だから余計ね‥‥‥あたしたち、もう一回彼氏と彼女になってそんなに経ってないのに、いきなり全部が手に入っちゃってるのはちょっと恐いかも、って思ったの』
『全部?』
『ん。ほら、普通の恋人同士って、恋人同士になる前から一緒の家に住んでたりしないじゃない? そういう、近くにいないっていうことも、できるんだったらちゃんと経験してみたい』
 それはそれで、一理ある、ような気もした。
『でもだからって、せっかく一緒に住んでる直樹と離れて暮らすのも嫌だし。だから、ちょっとだけ、できる範囲で遠回りしてみない?』
 だから今晩は‥‥‥零時を回る頃、茉理から電話を掛ける、という話だった、と直樹は思っているのだが。
「いつになったら掛けてくるんだあいつ」
 手の上で携帯電話を弄ぶ。
「‥‥‥だからって、いつ電話してくるんだって聞きに行くのも変な話だしなあ」
 無論、茉理の場合と同様、直樹が茉理の部屋へ出向いても、所要時間は長く見積もっても五秒程度。これだけ距離が近いとなると、そこに男女の差や年齢の差などはまったくない。
 わざわざ電話にするから面倒なのだ。
 ‥‥‥だが、
『ん。ほら、普通の恋人同士って、恋人同士になる前から一緒の家に住んでたりしないじゃない? そういう、近くにいないっていうことも、できるんだったらちゃんと経験してみたい』
 何日か前に茉理が言っていたことを思い出して、直樹はまた、机の上に携帯電話を放り出す。
 と‥‥‥ぴりりりり、と電子音。
「あ」
 ようやく掛かってきたかと思いきや、
「遅かったな茉理」
『もしもし‥‥‥って、え? あの、藤枝ですけど?』
「ああなんだ保奈美かってえええ?」
『えっと、うん』
 慌てて、耳に当てていた二つ折りの端末を顔の前に持って行くと、 液晶画面に表示されているのは、確かに『藤枝保奈美』の名前だった。
『茉理ちゃんから掛かってくるの、待ってた?』
「あ、いや‥‥‥その、あの」
『ふふ。お邪魔しちゃった』
 何の確認もなしで、いきなり発した第一声が『遅かったな茉理』。どうにも申し開きのしようがない。
『長話するのも悪いから、手短に用事だけね。天文部のみんなに明日試食を手伝ってもらうことになってたんだけど、さっき顧問の先生から連絡があって、放課後出掛けることになっちゃったって。だから、明日は料理部中止なの』
「そっか。わかった、弘司たちには伝えとく」
『直前でこんなことになっちゃってごめんね』
「いいって。別に保奈美のせいじゃないだろ」
『ん。‥‥‥じゃ、もう切るね。早く茉理ちゃんに電話してあげて』
「いや、確か茉理が掛けてくるって言ってて」
『んー』
 電話の向こうで、保奈美は何か考えている様子だ。
『どっちが間違えてるのかはわからないけど、多分、なおくんも茉理ちゃんも両方、相手が電話してくれるのを待ってるんじゃないかな、って思うな』
「なんでそんなことが」
『だって、自分で掛けようって本当に思ってたら、茉理ちゃんはすぐにだって掛けてくるよ。躊躇なんてせずに。だから、なおくんが待ってて、待ってても掛かってこないっていうのは、そういうことじゃないかな』
「なるほど‥‥‥って」
 ばん。
 唐突に直樹の部屋のドアが開いて、
「ずーっと電話待ってたのに‥‥‥ちょっと直樹! あたし放ったらかして誰と電話してんのよ!」
 怒鳴り込んできたのはもちろん茉理だ。
「うわっ茉理! って、いや、さっきの話じゃ茉理が掛けてくるって」
『なおくーん?』
「あたしそんなこと言ってない!」
『切るからねー』
「言ったって」
「言ってないもん!」
 まさに保奈美の読み通りであったが、
「ああ茉理、とにかく電話中だからちょっと待て。こっちすぐ切るから。保奈‥‥‥」
 つーっ、つーっ、つーっ、と電子音。
「あれ?」
 保奈美はとっくに通話を切っていた。
「保奈美さんだったの?」
「ああ。明日の部活の話」
「そっか。なら、あたしもちょっと話したかったな」
 残念そうにひとこと呟くと、
「それと直樹。用が済んだなら電話してよね、あたし待ってるんだから」
 嵐のように現れた茉理は、嵐のように去っていった。
「‥‥‥しょうがないな」
 廊下の向こうで扉が閉じた音を確かめてから、もう一度、直樹は携帯に目を落とす。

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