夏休みの校舎は閑散としている。
昼時の屋上はほとんど貸し切りに近い状態だった。
雲ひとつない、抜けるような真夏の青空を横切る鳥を見つめて、
「そういえばわたし、羽根があったんだよね」
美琴は不意にそんなことを言った。
「羽根?」
「うん。ほら、最初にこっちに来てすぐ、ここで初めて直樹に会った時に」
「そうだっけ」
「憶えてない? えっとね、確かあの時のはピンクで」
「え? いやあの時のはピンクっていうかパステルグリーンの横縞」
「憶えてるじゃない。もう、そんなとこばっかりよく見てるんだから。直樹のえっち」
べ、と舌を出してみせる美琴。
「‥‥‥あ」
ばつが悪そうに笑いながら頬を掻く直樹。
しばらくそのまま見つめあって、それから、ふたりでくすくす笑う。
「でもね、本当だったんだよ? こう、光の羽根が、天使みたいに」
無論、直樹だって、その光景のことを忘れてしまったわけではないのだが。
「でもあれ、飛べないんだろ?」
「どうなんだろ。だからあの時、試してみればよかったな、って思って。今更になってからそんなこと思っても遅いんだけどね」
残念そうに美琴が呟く。
「あ、そうだ。時空転移装置でもう一回どっかに飛ばしてもらえば試せるんじゃないのか? あれって、時空転移装置で飛んだからそういう風になったんだよな?」
「えー? そんな怖いこと何度もやりたくないよ。そりゃ、直樹と‥‥‥」
直樹と知り合う前だったら、それでもやってみたい、って思ったかも知れないけど。
「ん?」
「ううん、何でもない」
もごもごと呟いた言葉が、唇から外に零れ出ることは遂にない。
「そうか‥‥‥ああ、だったら俺が飛んでみるか」
それが聞こえなかったから、次には、直樹はそんな恐ろしいことを言い始めてしまう。
「え! だ、ダメだよそんなの!」
「なんで? 大丈夫だろ多分。未来の人たちはみんな、こっちに来る時に使ってるんだし」
「でも、そうやって成功してる裏で一体何人失敗したのかとか考えたら、ちょっと怖くなったりしない?」
「う‥‥‥まあ、それは確かに」
どうにか説得には成功したようで、美琴がほっと胸を撫で下ろすのと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って。
「あ。ほら直樹、教室行かなきゃ」
「そうだな」
「急ごう、直樹!」
ほとんど誰もいない校舎の中へ、ふたりは足早に駆け降りていった。
「それで結先生、実際のところはどうなんですか?」
「あの、おふたりとも‥‥‥もう補習は始まっているんですが‥‥‥」
唐突にそんなことを訊ねた直樹に向かって、
「それに、この教室には他に誰もいないとはいえ、一応それは未来のお話ですから、もう少し場所を選んでいただけないかと」
困ったような顔の結が答えた。
「そこはほら、俺は期末赤点じゃなかったし。補修受けないといけないのは本当は美琴だけってことでひとつ」
「あ! ひどーい! 裏切ったな直樹ー!」
隣席の直樹の肩を美琴がぽかぽか殴る。
「って久住くん、点数は天ヶ崎さんとほとんど変わらなかったじゃないですか‥‥‥」
結は溜め息を吐いている。
「事情はともかく、先生は、集まった生徒の皆さんを区別するようなことはしません。せっかく来たんですから、久住くんもしっかり頑張ってくださいね」
収拾がつかなくなりかけた教室の空気をぴしゃりと締めてみせる。
「はい、それでは補習を進めます」
教師としての結の手腕も、これでなかなか大したものなのであった。
相変わらず下半分しか使っていない黒板に、かつかつと何か書きつけてから。
「はい、ここまで板書が終わりましたら、今日の補習はおしまいです。ふたりとも、お疲れさまでした」
教卓に戻った結は教科書をぱたんと畳んだ。
「‥‥‥かーかーりー、むーすーびっと。書けたー」
続けて美琴が、
「よし、今日は終わりだな」
最後に直樹がノートを畳み、
「で、結先生、さっきの話なんですけど」
待ちかねたように、話の続きを促す。
「はい。ええと、時空転移装置で移動している人の、背中の翼のことでしたよね?」
「結論から言いますと、飛ぶのは無理ですね。あれは視覚効果だけですから」
そんな風に、結は答えた。
「っていうか、なんでそんな視覚効果が?」
「いちばん大きな理由としては、時空転移装置が位置を追跡するために必要な、特殊な光波のことがあります。とにかく何かは光っている必要があって、それは翼のかたちでなくても構わないのですが、あとは」
「あとは?」
「事情をまったく知らない人が居合わせてしまった場合に、何だかわからないものを見せて混乱を深めるよりは、例えば天使ですとか、そういった既知の何かと勘違いしていただいた方がショックが少ないでしょう、と‥‥‥後で話を誤魔化しやすくするため、ですね」
「‥‥‥何だそりゃ」
わかってしまうと酷くつまらない翼の正体にがっくりと肩を落としながら、ふたりは改めて、自分で試してみたりしなくてよかった、と心から思うのだった。
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