緩慢に、でもそれなりくらいには規則的に、膝から下がぺったんぺったんと畳に落ちる音はさっきからずっと聞こえている。
多分それは貧乏揺すりみたいなものなんだろうと思う。
思うだけ。
「直樹」
すぐ側で、美琴が俺を呼んだ。それが今日何度目だったかなんてもう憶えてない。
「直樹ー?」
腹這いに寝そべって多分観てないテレビにぼんやり目を向けたまま、いかにもつまらなそうな、気のない声で。
「なーおーきーってばー」
脇から適当に拾った雑誌の記事を目で追いかける振りをしているだけの俺は、答えることも振り向くこともせず、記事を目で追いかけることに懸命になる振りをする。
「もうっ‥‥‥あふ」
俺の返事がないことに少し機嫌を損ねたらしい美琴の声が欠伸する息遣いに掻き消される様子よりも、窓の外で蝉の鳴く声の方が気になってしまう。
っていうか喧しい。
ちょっと顔を上げると、網戸の外には俺のトランクスと美琴の下着がタオルや何かと一緒に干され、僅かな風に仲よく並んで揺れている。
例えばそんな、何でもなさすぎる平日の昼下がり。
「それから?」
「まあ、昨日はそのまま」
昨日はそのまま、日がな一日部屋でぐてーっとしてて、日が暮れたから洗濯物だけ屋根の下に移動して、夕食何にしようかみたいな話になって、何を作るかの前にどっちが作るかが懸かったジャンケン大会が妙に白熱して、盛り上がるだけ盛り上がった結果として見事に疲れ果てて、それから何かを作るような気力はどっちにも残ってなくて、結局、負けた美琴の提案でふたりしてコンビニへ行って、適当に食べるもの買ってきて食べた。
‥‥‥ジャンケン大会が妙に、のあたりで既に、向かいに座った弘司の頬は引き攣っていた気もする。
「バイトも何もない日は大体そんなだけどな」
「大体って直樹、ずっとそんなだったのかよ」
大袈裟な素振りで、弘司は学食の天井を仰いだ。
「そこらでひとり暮らししてる野郎より酷いぞ、それ」
「そうなのか?」
面と向かってそう言われるのも何か悔しい気がしたからちょっとそらっとぼけてみせたが、実は俺自身、ひょっとしたらそうなんじゃないかなー、と思っていないこともない。
「なあ、ひとつくらい、趣味とか何かないのか? 映画観に行くとか、何かあるだろ何か」
「それがなー。よくよく考えてみたら、俺も美琴も何もなかったんだよな、そういうの」
「天文はどうした。高校出てから半年くらいしか経ってないのに。去年はふたりとも天文部員だったろ?」
「そりゃだって、人数合わせみたいなもんだったからな。望遠鏡とかが今部屋にあるんでもないし」
天文部の前部長を相手に、元部員が面と向かってそれを言うのもどうかとは思うが。
「‥‥‥真っ剣に、情けない奴」
テーブルにべたっと伏せた弘司の横で、カレーのスプーンがからんと踊った。
そのうち予鈴が聴こえてきて、昼時の学食は俄かに慌ただしくなる。次の講義の準備なのか、弘司がごそごそと鞄の中身を整理し始めるのを眺めながら、今日は美琴もバイトだしなーとか、どうでもいい繰り言をぼーっと頭に巡らせていた。
「さっき携帯でね、昨日何してたとか話してたら、それは女の子としてちょっと情けないかも、って保奈美に言われちゃったよ」
割と落ち込んだ感じでそんなことを呟きながら、美琴は部屋のドアを開けた。
そんな美琴の今日の夕食は冷やしおろしうどん。デザートはいつものように杏仁豆腐。
冷やしおろしうどんは、蓋を開けて麺の上に具とつゆを開けるだけ。大根おろしのヘルシーっぽい感じがお気に入りらしい。
「ああ、似たようなことは俺も弘司に言われたな」
「うーん、そっちもですか」
困った顔で呟く。頭の上で萎れたリボンが、何だか餌でお預けを喰らった子犬みたいだ。
「ねえ直樹、わたしたちって多分、ダメだよね」
ダメだよね。
そう言われてすぐに返せる気の利いた言葉もなく、下を向くついでに、自分の手首にぶら下がったコンビニの袋を見つめる。
ちなみに俺の袋の中身は焼きうどんとおにぎり。
コンビニで温めてもらった焼きうどんは、美琴のよりもお手軽に、蓋を開けたらもう準備オッケー。
‥‥‥確かに、誰かが何かを言うまでもなく、俺たちはダメなのかも知れなかったけど。
「ほら美琴、玄関で突っ立ってるなよ」
「あ、うん」
上がり框で棒立ちの美琴をせっついて、俺はそそくさと玄関の扉を閉めた。
さっきから美琴は冷やしおろしうどんの麺を割り箸でつついて解している。もういい加減食べられるだろ、と見ていて思うけど、かくいう俺が適当に掻き回している焼きうどんだって実はもう解れている。
「ねえ、直樹」
「ん?」
「今日のバイトの話とか、してもいい?」
何故だか、そんなことを美琴は尋ねる。
不安そうな上目遣い。
捨てられた子犬のような目。
萎れたままのリボン。
‥‥‥なんでこの部屋の中には子犬が捨てられたままになっているんだろう。
っていうか、っていうかここは一体何だ。
俺と美琴の部屋じゃなかったのか。
「あのね直樹。あの‥‥‥何でもない」
中途半端に言葉を切ると、子犬は器用に箸を繰って、必要以上にずるずると音をたてながら冷やしおろしうどんを啜った。
『あ! 見て見て直樹、なんかこれおいしそうだよ!』
『どれどれ‥‥‥冷やし、おろしうどん? なんかイマイチな感じだなあ。おっ、それよりはこっちの焼きうどんの方がうまそうじゃないか?』
『えー? 直樹もこっちにしようよー。大根おろしは身体にいいんだよー?』
『あのな。身体にいいとか気にする奴がコンビニで弁当買っててどうする』
『それは直樹くんがお料理できないからです』
『それを女の子が言うか? いいのかそれで?』
『しゅーん』
思い出した。高校を出てすぐに今のふたり暮らしを始めて、あれは最初の晩の晩飯を買いに行った時だ。
確かあの時は結局美琴の勢いに押されて、俺も冷やしおろしうどんにしたんじゃなかったっけ。
それで。‥‥‥そうだ、次の晩。
『昨日食いそびれたのがどうしても気になってな。今日はこっちって決めてたし』
『って、そんなことばっかり朝から考えてたの?』
『朝からじゃない。昨日の晩からだ』
『うわ、暇っていうか何ていうか‥‥‥よーし、直樹がそこまで言うならわたしも焼きうどんにしちゃう! だから杏仁豆腐は奢ってね、直樹』
『待て。今最後に何かついてなかったか? っていうかこの、既に焼きうどんよりも下に納まっていらっしゃる、そのデザートサイズのカップは何なんだ美琴?』
『ゴチになります隊長!』
あの晩の冷やしおろしうどんはまあ悪くなかった。
でも今、目の前で美琴が啜っている冷やしおろしうどんは、多分あんなにうまくないだろうって思う。
俺の手元の焼きうどんだって、あの時は美琴だって結構喜んで、うまそうに食ってたような憶えがある。
いつでもどこでも同じのを売ってるコンビニで。
同じのを買ってきたんじゃないのかよ、俺たち。
「‥‥‥おいしくないよ」
「あ?」
「杏仁豆腐、おいしくない」
言い捨てるような言葉と一緒に、ちゃちなプラスチックの匙をカップの中へ放り出す。
「こんなコンビニのうどんだって、前はもっとおいしかったって思う」
杏仁豆腐は半分くらい、そういえばうどんもまだ半分くらい、透明な容器の中に残っている。
「バイトのお休みを合わせるのに苦労してた頃は、何もすることがなくて一日寝っ転がってるわたしたち、なんて想像もしてなかった」
抱きついてきた子犬の背中に手を回す。
それでわかったことは‥‥‥軽く抱きしめるだけで伝わってたと思えてたことが、今はどんなに強く抱きしめても、絶対伝わってない、ってことだけだった。
「わたしたち、このままダメになっちゃうのかな? 直樹のこと好きなのに。今でもこんなに好きなのに」
俺だって美琴が好きだ。
そんなことに何か迷いがあるわけじゃない。
なのに、ここにいるのは、好きになった女の子を慰めてあげることもできないような。
『‥‥‥真っ剣に、情けない奴』
耳の奥から、昼間の弘司の言葉が聞こえてきた。
翌日。
目を覚ました時にはもう、美琴はいなかった。
うちでいちばん大きい鞄の中に、取り敢えず手近な着替えとかそういうのを詰めて行ったらしい。部屋の中からそんな風に美琴の持ち物がなくなっていて、少し散らかり気味の雑誌や小物なんかはほとんどそのままだった。
そんなにいろいろ持って行ったわけでもないみたいだし、大体美琴、俺と一緒で家なき子だし、すぐ戻ってくるだろう、きっと。そう思う。
だからなのか‥‥‥取り乱したり、慌てて探し回ったり、そういうことを俺はしなかった。
みっともなく大騒ぎしたりしない自分って奴に心の中では歯軋りしながら、のろのろと支度して、のろのろと玄関を出て。
「鍵閉めるぞー」
いつものように部屋の中へ声を掛けてしまってから、はっと我に返った。
それが間違いだと認めたくはなくて、わかっているのに最後まで言い切ってみるけど、
「まだか美琴ー?」
返事なんてないに決まっていた。
耳に残っているのは、もう少し速かったような、でももう少し遅かったような、真面目に思い出そうとすると途端にひどくあやふやになってしまうリズム。
昨日の昼間、美琴が寝そべっていた位置に腹這いになって、膝から下だけ交互に上げたり下げたりして‥‥‥緩慢に、でもそれなりくらいには規則的に、膝から下がぺったんぺったんと畳に落ちる音を真似てみた。
大体この作業自体、貧乏揺すりよりはもう少し大変だとわかった。
美琴がやるより音がはっきりしているような気がした。
似ているようだけど、そんな風に、結構違っていた。
「‥‥‥美琴」
口の中だけでもごもごと名前を呼ぶ。
返事なんてないに決まっていた。
『なーおーきーってばー』
そういえば‥‥‥今はここにいない美琴じゃなくて、美琴がここにいた昨日、俺も一緒にここにいたあの時、どうして俺は美琴が呼ぶ声に返事をしなかったんだろう、と今更考える。
『どうした?』
多分、返事をしていれば、続きはこうだ。
『つまんないよ直樹ー。ねえ、何かしようよ?』
『んー』
その次は、多分俺はこう。‥‥‥返事っていうより、唸っただけ、くらいの感じで。
『もう、面倒くさがりなんだから』
『美琴だって大して違わないだろ』
この辺で美琴は、本格的に身体を起こして、俺の顔にぐいっと近づいてきて。
『わたし、そんなことないよー。だから何かしよ?』
『何かって?』
そこでようやく、じゃあ何をしようか、って話になって‥‥‥大体はそのまま、戯れかかって押し倒した方が上になる。
「ずっとそんなだったのかよ」
ひとりごちる。
「そこらでひとり暮らししてる野郎より酷いぞ」
弘司の口振りを真似てみた。
「‥‥‥真っ剣に、情けない奴」
同居している筈で同じ大学に通ってる筈の彼女が一週間もキャンパスに姿を見せていないわけだが、そういうことを不思議がる奴には、急用があって実家に戻ってる、と言うことにしている。実家なんて本当は百年後の世界にしかないが、それは言わなきゃ誰にもわからない。
「おい聞いたぞ直樹。天ヶ崎さんが家出してるって?」
‥‥‥前言を修正。
言わなきゃ誰にもわからない。
蓮美台出身の、ごく一部の身近な知り合いを除けば。
つまり弘司や保奈美が相手だと、その手の嘘は通用しない。俺は正直に頷いた。
「誰から聞いた?」
「本人。つーか今、天ヶ崎さんは俺ん家に転がり込んでるんだが」
「そ、そうなのか?」
考えてみれば弘司も蓮華寮だった。
今はひとり暮らし。
できない話じゃない。
「美琴、弘司んとこにいるのか?」
「いや。嘘だ」
溜め息。
「何だよ弘司。からかうなよ」
「からかってるんじゃない。確かめてるんだ。なあ直樹、俺と一緒じゃないってわかって、今どう思った?」
「え‥‥‥いや、どうって」
どう、って。
これで美琴は消息不明に逆戻りだ。
そういう意味では心配してる。
だけど正直、ちょっと安心したんだ。
弘司と一緒じゃないってことに。
「そういうことをさ、なんでお前、天ヶ崎さんに直接言ってあげないんだ」
「え」
今の何かを変えなきゃって、焦って飛び出したのは天ヶ崎さんの方だろ?
焦って飛び出しちゃうくらい必死になってたのが天ヶ崎さんだけで、本当にそんなんでいいのかよ直樹?
お前それまで何してた?
それから今までは何してた?
「ほら、これ」
少し苛ついた感じの弘司は、押しつけるように、小さなメモを俺に寄越した。
「天ヶ崎さんのこと、大事だって気持ちが嘘じゃないなら、もう一回最初から全部ふたりでやり直せよ。今度は取り零さないように、ちょっとずつ好きになっていくところから、ひとつひとつを確認しながら」
書かれたことはただひとつ。
殴り書きの、見たこともない十一桁の数字だけ。
もう行ってしまった弘司もそれについて何も言わなかったけど、でも俺にはわかっていた。すぐに番号が替えられて、それからずっと繋がらなかった‥‥‥これは、美琴の携帯の新しい番号だ。
掛けるか掛けないか。
大体、電話なんか掛けてもいいものなのかどうか。
どんな面提げて掛ければいいのか。
それこそ小学生とか中学生の男の子が同じクラスの女の子のところに初めて電話を掛けるような緊張感を散々堪能しながら、その日の真夜中、俺は弘司に渡された番号に電話を掛けた。
「み、美琴か?」
『あ、直樹? うん。わたしだよ』
ぎこちなく挨拶しただけで、ふたりともが相手の言葉を待ってしまっているのがわかる。
お互い、いいことも嫌なことも、恥ずかしいことまで全部知り尽くしてる筈なのに、ただ電話が繋がったっていうだけなのに、もうそれから、何を言ったらいいのかわからない。
何だか本当に、中学生か何かみたいだ。
「‥‥‥美琴」
『‥‥‥直樹』
沈黙を嫌って、何か言わなきゃ言わなきゃと焦りながら、取り敢えず呼んだ名前が見事にバッティング。
「あ、いや。美琴から」
『え、いいよ、うん。直樹から』
いや、そんなとこまで中学生みたいじゃなくても。
「今までどうしてた、美琴?」
『うん。‥‥‥どこから話したらいいのかな。えっとね、携帯の番号変えて、それから保奈美の家に行って』
路頭に迷ってた、とかじゃなかったようで、取り敢えず俺はほっとした。
そうか。保奈美のところにずっといたのか。
道理で、弘司がいきなり全部知ってるわけだ。
『それから、保奈美に連れて行ってもらって、直樹の‥‥‥後ろ半分くらいは直樹が住んでた部屋を借りて、茉理ちゃんとか、おばさんたちと一緒に』
「げ」
なっ、何だと?
『直樹が置いていったものは、まだあんまり片付けられてなかったよ。男の子の部屋だなーって思った』
「なんてことだ」
あんな部屋に美琴を泊まらせたのかよ。まさか俺に何か恨みとかあったんじゃないだろうな渋垣一家?
『それから、引っ越した。お金は掛かるけどとっておきの特効薬だから、って茉理ちゃんのおばさんに言われて。部屋探しとか、保奈美もつきあってくれて。すぐに入れる部屋があったからそこに決めて‥‥‥そうそう、ちょうど今日、引っ越しが済んだところだよ』
「どこに?」
『それはまだ内緒なのです』
何だよそりゃ。
『ねえ、ねえ直樹、怒ってる? わたしが勝手に家を出ちゃったこととか』
「え‥‥‥んー、それは何ていうか」
今の何かを変えなきゃって、焦って飛び出したのは天ヶ崎さんの方だろ?
焦って飛び出しちゃうくらい必死になってたのが天ヶ崎さんだけで、本当にそんなんでいいのかよ直樹?
お前それまで何してた?
それから今までは何してた?
『電話掛かってきたら、怒られるかも、って思ってた。あと‥‥‥もうずっと掛かってこないかも、っていうのも』
この番号を教えてもらえなくても、正直、文句なんか全然言えた義理じゃなかった俺だ。
『どっちも恐かった。怒られることが、じゃなくてね、本当はわたし要らない子なんじゃないかって、そういうこと、わかっちゃいそうで』
そのまま消え入りそうな美琴の声に、
「要らないなんて、そんなこと全然ないよ。俺は美琴のこと、本当に‥‥‥本当に」
今は答える言葉がある自分が嬉しい。
「って俺、そういうの今まで美琴に何回話したっけ」
『んー。数えてないけど、でも、最近はあんまり聞いてなかった、かも』
「そっか。‥‥‥そうだよな」
伝えてなかったもんな。
それだけじゃなくて、何も。全然。
「だから俺、美琴のことだけ怒るなんてできないよ。俺のせいだって、いや俺だけじゃないって美琴は言うかも知れないけど、それでも半分は俺が悪いんだって今はわかり始めてる。だから」
だからとにかく今は、怒ったり呆れたりなんかよりも、美琴と話していたい。
美琴と話してるんだっていうことを、ずっと、ずっとずっと確認していたい。
出逢ってすぐに恋に落ちて。
本当はもっと時間を掛けてゆっくり進んでいくとこを、未来だのウィルスだの、大騒ぎしているうちに一気にいろいろすっ飛ばしちゃって。
いろいろすっ飛ばしちゃったくせに何もかも全部わかったような気になって、いきなりふたり暮らしなんか始めたりして。
一気にいろいろすっ飛ばしちゃったところに‥‥‥俺と美琴が置いてきたものは、そのうちのひとつはそういう気持ちだったに違いない。
‥‥‥俺の携帯の電池が尽きて唐突に中断させられるまで、その晩の長い長い電話は続いた。
ところで、それからは俺も美琴も、前よりもたくさんバイトをしないといけなくなった。一軒の家賃を折半にしていたのに、両方がいきなり自分の家賃を自分で用意しないといけなくなったのが主な原因で、そういう意味では確かにお金の掛かる特効薬だ。
「あ。おーい、直樹ー!」
「ごめん。待ったか?」
「まあ、ちょっと。でもバイトだったんでしょ?」
「いや次のシフトの奴が寝坊しやがってさ」
「寝坊って‥‥‥直樹の次って夜番じゃなかったっけ」
「だから昼寝してるんじゃないか? そいつ三回に一回くらいは遅刻して来るんだよな、なんで店長クビにしないんだろうと思うよあんな奴」
「むー。そうなんだ、大変なんだね」
バイトが多いと時間も自由にならないから、大学の近所の公園で夜にちょっと会うだけとか、今はそんな感じだ。例えば今夜みたいに、缶ジュース買って、ベンチに並んで腰掛けて、ほとんど目一杯、別にどうでもいいようなことをただ喋りあうだけ、のデート。
何もしていないといえば何もしていないし、そういう意味では前と大して変わってもいないのかも知れない。
前。‥‥‥まあ、ついこの間まではひとつ屋根の下で一緒に住んでたふたり、とか考えれば、関係は随分と後退しているようでもあるけど。
それは多分、前がいろいろ急すぎたんだろう。
『天ヶ崎さんのこと、大事だって気持ちが嘘じゃないなら、もう一回最初から全部ふたりでやり直せよ』
この間弘司が言っていたことの意味が、最近やっと、ちゃんとわかってきたような気がする。
‥‥‥今度は取り零さないように、ちょっとずつ好きになっていくところから、ひとつひとつを確認しながら。
それからしばらく経ったある日の夜。
「鉢?」
「うん。これ」
何故か美琴は、割と大きめの植木鉢を持ってきていた。
「何だ美琴、今度はちひろちゃんの家に転がり‥‥‥ってそういえば、ちひろちゃんはまだ蓮華寮か」
茉理とちひろちゃんは俺たちのひとつ下だから、今年は蓮美台の三年生の筈だ。
「何か失礼なことを言いかけませんでしたか直樹さん?」
「いや、早速バイトの給料全部杏仁豆腐で喰い潰しちゃったのかな、とか心配になって」
「もう。いくらわたしでも、そんなに杏仁豆腐ばっかりなんて食べないもん」
つーんと口を尖らせながら、持っていた鉢を差し出す。
取り敢えず土は盛ってある。鉢だけ、ってことはないらしい。上の方だけそっと掻き分けてみると、何か球根のようなものが、少し艶のある皮を覗かせた。
「これ、何の球根だ?」
「うーん。それがねー」
「それが?」
「聞いたことは聞いたんだけど、ちゃんと憶えてないんだ。咲いてる花の写真は綺麗だったんだけどね」
てへっと美琴は笑う。
「は?」
「この間、お花屋さんでちょっと見かけて、ふたつ買ってきたの。だからお裾分けだよ。土が乾いてきたらお水あげて、後は風通しのいい日向に置いてあげればいいって」
だから何をお裾分けされましたか俺は一体?
「あ。咲くまで何だかわからない謎の花、とかどう?」
「それ今思いついただろ、美琴」
「あれ、わかっちゃいましたか?」
どうやら、詳しい情報は聞き出せそうになかった。
そのことはもう諦めることにして、いつものように他愛のないことをずっと喋ってから、部屋に戻った俺はその鉢を窓際に置く。
「何なんだろうな、お前」
返事なんてないに決まっていた。
幾つか方法は思いつく。例えば、蓮美台に持って行ってちひろちゃんに見てもらえば、何の球根だか調べがつくだろう。これを買った花屋はどこだかわからないけど、違う花屋でも教えるくらいはしてもらえる、と思う。
と思うけど‥‥‥少しの間考えて、
「やめよう、調べるの」
自分にも聞こえるように呟いて、それで終わりにした。
咲くまで何だかわからない謎の花。
それでいいような気がした。
鉢の向こう、窓の向こうに月を見る。もうひとつの鉢は今、どんな部屋の窓から月を見上げているんだろう。
‥‥‥そうだ、ふたりでただ月を見上げるだけ、ってのもいいかも知れない。別に望遠鏡とかなくても。
その晩はたまたま、割と凄い勢いで雨が降っていたから、外で会うのは中止になった。
携帯電話の向こうからも雨音が聞こえている。
『最近はね、ちゃんとお料理してる』
「それは珍しいな。一緒に住んでた時は全部コンビニ弁当だったのに」
『う‥‥‥そこを突かれるとちょっと』
「で、何作ってるんだ?」
『冷やしおろしうどん』
「いや先生、もうそろそろ秋もたけなわって感じですが」
『いいの! ちゃんと練習して、それでそのうち直樹に焼きうどんなんか諦めさせちゃうんだから』
「だから夏はとっくに終わってます美琴先生。つーかまさか、また夏が来るまでずっと練習してるのか?」
‥‥‥思えば、うどん茹でて出汁作って、一緒にちょっと具を刻んでおいて、後は大根おろすだけじゃないのか、冷やしおろしうどんって。
どこにそんな練習が要るんだ? 技術的には焼きうどんの方がよっぽど難しいような気がするんだが。
『直樹はコンビニのご飯?』
「そうだけど、でも話聞いてたら急に対抗心が‥‥‥焼きうどんの達人になって、冷やしおろしうどん派の殲滅に乗り出そうかと」
『えー? それはちょっと酷いであります隊長ー』
なんでいきなり負けそうな声なんだ美琴。
『でも、何ていうか、こういうのも楽しいね、直樹』
急に話が変わった。
「ん?」
『話して、聞いて、それだけなのに、前よりずっと近くで繋がってる感じがするよ。前みたいに一緒の部屋にいるわけじゃないのにね』
「そうだな。こんなに話すことがあるなんて、美琴が出て行くまで知らなかった。こんなに話しても全部はわからないなんて、多分俺たち、あの時は思ってなかったし」
苦い笑いがこみ上げる。
「好きってだけで世の中全部何とかなると思ってたけど」
『ならなかったもんね、一回』
「でも、俺たち、それでもやり直せてるのはさ。‥‥‥二回目があるのは、やっぱり好きだったからだし」
『ん』
雑音混じりの雨音が、少しの沈黙を埋めていく。
あたたかな沈黙。
『そうだ。ねえ直樹、鉢どうなった?』
「鉢? ‥‥‥ああこの鉢、なんかこの間から突然芽なんだか葉っぱなんだかが伸びてきてる。そっちは?」
球根は水をあげすぎると腐っちゃうからよくない、とこの間ちひろちゃんから教えてもらった。だから鉢は、今は部屋の中に入れてある。
ちなみにそれは、球根に関する一般論の話だ。別にこの、芽なんだか葉っぱなんだか、が何であるかを聞いたわけじゃない。
だから実は、こいつは未だに正体不明なのだった。
『直樹のも? うん、こっちもそんな感じだよ。直樹に鉢あげたくらいの時はね、あんまり何もないから、わたしもちょっと諦めちゃいそうだったけど』
状況はどっちも似たり寄ったりらしい。
「でもさ、この伸びてる部分だけ見てると、なんかとんでもなく派手な花が咲きそうな予感がするんだけど」
『あ、そうかも。確か白くて格好いい』
具体的なようでいて、実はさっぱりわからない。
『ね、直樹の花が咲いたら、見に行っていい?』
何気ない提案。
「ああ、いいよ」
『それからね‥‥‥それから、わたしの部屋でも花が咲いたら、遊びに来てくれる?』
もうひとつの提案。
「もちろん」
だから多分、この鉢が花をつける頃、俺たちは今よりもう少し前に進むのだろう。
いつかは、ものすごい駆け足で脇目もふらずに通過してしまったこの道を‥‥‥今度はゆっくりと、例えば月を見上げたり、植木鉢の花を眺めたりしながら。
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