edge?  


  

「こんにちは」
 玄関先から保奈美の声が聞こえた。
「お、いらっしゃい保奈美ちゃん。まあ上がって上がって‥‥‥ふむ、決めてきたね。よく似合ってるよ」
 出迎えに立った源三は、自宅にいるにしては不自然にきちんとしたスーツ姿。
「ありがとうございます。でもやっぱり、ちょっと緊張しちゃいますね」
 招き入れられた保奈美も、まるでこれから成人式にでも向かうかのような、明るい色のスーツを着込んでいる。
「はは。そんなに堅くならなくても、どうせ用向きは全員わかってるし、今更誰も反対なんてしやしないさ」



 ‥‥‥と、言いたいところ、なんだが。
 そこで突然、源三が困ったような顔をした。
「何かあったんですか?」
 怪訝そうに首を傾げた保奈美は、
「うん、まあ。今日になって急に、天の岩戸って奴がね」
 そんな源三のひとことだけで、事態の概要を把握する。



 通されたのは居間だったが、結局そのまま、源三に続いて保奈美も二階へと上がる。
 そこでは‥‥‥上がってきたふたりと同じくスーツに身を固めた英理が、さっきからずっと、木でできた岩戸に向かって説得を試みている。
「うわ、もう来たのか保奈美」
 英理の背中から半歩下がった位置では、保奈美の到着に直樹が頭を抱える。
「こんにちは、なおくん。‥‥‥もうって言われても、約束した時間通りだよ?」
「ああ、それはそうなんだ。うん。そうなんだけど、ちょっとその、こっちもこの通りで」
 直樹も微妙に歯切れが悪い。
「うーん。今日のところは、出直した方がいいのかな」
「そうもいかないだろ。叔父さんと叔母さんはそんなに長く休んでられない筈だから」
「でも、今日じゃなくても、あと四年間はあるし」
 だけど、このままじっと待っていても。
 そのせいで保奈美が何度出直しても。
「そりゃそうだけど」
 そんな風に、しばらく逡巡してから。
「やっぱりダメだそれじゃ」
 ちゃんと決着つけないままじゃ、何回やっても同じことを繰り返すだけだ。
 自分に言い聞かせるように呟いて、英理の代わりに、直樹がドアの前に立つ。



「茉理」
 返事はない。
「聞いてるんだろ茉理。もう保奈美も来てる。準備が済んでないのは茉理だけだ」
 直樹はそう決めつけるが、固く閉ざされた扉の向こう側の様子など、こちら側からはわかる筈もない。
「まだ出てこないっていうなら、下でやろうとしてたことを、今から全部ここでやるからな」
 ‥‥‥初めて。
 部屋の中から、僅かに物音が聞こえた。
「悪いけど、今日だけは誰にも留守にして欲しくない。言いたいことがあるんだったら今すぐ出てきて言ってくれ。そうじゃないなら‥‥‥最後までここに閉じ篭って黙ってるなら、茉理は反対しなかったんだから、俺たちは俺たちで勝手に話を進める。それでいいな?」
 それでも、何秒か前に聞こえた物音以上の反応はない。
「それじゃ叔父さん、叔母さん。保奈美も」
 振り返った直樹はドアから少し離れた場所に立ち直す。
「こんなところで立ち話になっちゃって申しわけないけど、本当に茉理抜きのままで、俺たちだけでこんな大事な話するってのは、やっぱり、俺は嫌だから」
 その傍らに、寄り添うように保奈美が立つ。
「昨日、保奈美の家に挨拶に行ってきました。それで一応、今から言うことは‥‥‥ここの家では前からずっと話してたことだけど、全部そういう風にするってことで、保奈美のご両親にも認めてもらえました。俺たちは」
 がたり。
 扉の奥で何かが動いた。
「この間高校卒業したばっかりで、大学には入学もしてないけど、大学卒業したら結婚したいと思ってます。それから、両親はいないけど一応家はそのまま残ってるのに、大学生にもなってただ居候してるってのも正直ちょっと気が引けるんで、この夏休みにでも保奈美と一緒に実家に引っ越して、それからはずっと、保奈美と暮ら」



 唐突に開かれたドアは物凄い勢いで廊下の空間を疾駆し、直樹の背中から数センチのあたりを鋭い角で薙いでから、
「そんなの嫌っ!」
 全速力でドアノブを壁にぶち当て、その衝撃で填め込まれた磨り硝子が割れそうなくらいにドアそのものを震わせながら、叫んだ声すら掻き消すような、凄まじく派手な音をたてた。



「やっと出てきたか。しかもまだパジャマ」
「‥‥‥あ! やっ!」
 そう言われた途端、おろおろとうろたえたような素振りを見せる。
「もう遅い」
 引っ込みかけたその腕を直樹はすかさず掴んで、他所行きのおめかしをした四人の真ん中に、パジャマのままの茉理を引っ張り出した。
「言いたいことがあるんだろ?」
「ううっ‥‥‥だって」
「黙ってたって伝わらないぞ」
「だって、だって!」
「それじゃ全員賛成ってことで」
「好きなの!」



 いつかはこうなるってずっと前からわかってたけど!
 保奈美さんのこと、あたしだって大好きだけど!
 でも嫌!
 あたし直樹のこと好きなの!
 直樹が保奈美さんのになっちゃうなんて、今すぐ賛成なんてできないよ!
 にっこり笑って『おめでとう』なんて!
 あたし、あたし、そんなことまだ言いたくない!



 言うだけ言って泣き崩れた茉理を英理が抱き寄せる。
 そんな茉理に掛けられる言葉が何もなくて、保奈美はただ、軽く唇を噛んでいる。
 頽れた茉理の背中に向けて、直樹は口を開きかけて。
 それでも一度は、そのままそれを口にすることを躊躇って。
 しかし、たった今口に出すことに挫けかけた言葉を、やはり、きちんと声にして送り出すために。
 直樹は深く、深く、息を吸い込み、吐き出す。



「知ってたよ。茉理がそう思ってること」
「‥‥‥うん」
「だからそのことも、俺は今日、いい加減なままで終わりにしたくなかった」
「‥‥‥ん」
「正式なことは多分明日になるけど、俺は保奈美と婚約する。大学出たら保奈美と結婚する。茉理とずっと一緒にいてやれなくて悪いけど、それは俺が茉理のこと嫌いだからじゃなくて、俺が、保奈美のことが好きだから」
「‥‥‥」
「ごめんな、茉理」
「‥‥‥馬鹿。直樹の馬鹿。直樹の馬鹿。直樹の馬鹿っ」
 呪詛の言葉のように『直樹の馬鹿』を繰り返す茉理の背中を撫でながら、顔を上げた英理は少し寂しそうに笑って、何度か、小さく首を横に振った。
「ふむ。‥‥‥まあ、ちょっと来い直樹」
 何故か、突然。
「え、いや、でも」
 常にない強引さで、
「いいから。ここは母さんに任せればいい。大丈夫だ」
 源三は直樹を階下の居間へ引っ張り込む。



 嫌な緊張感に凝り固まった直樹をソファに座らせ、台所の床下をごそごそ漁っていた源三が戻ってくる。
「叔父さん?」
「親父でいいよ。‥‥‥ああ、親父は拙いか。茉理の話もするしな」
 源三が持ってきたものは、ワインの壜と、コルクスクリューと、背の高いグラスふたつ。
「とっておき、みたいに言われて、人伝に渡されたものでな。本当はこんな風に開けるつもりじゃなかったんだが」
 源三自身が詳しいわけではない事実をさりげなく露呈しつつ、今ひとつ覚束ない手つきで、コルクスクリューをきりきりと回す。
「うーむ、思ったより緊張するなあ」
「コルク引っ張ってるだけのクセに」
 源三の仕種も。
 直樹の軽口も。
 実に、様になっていなかった。
「しょうがないだろ。いつも飲んでるビールはこんなに面倒じゃないんだ」
「なら格好つけなきゃいいのに」
「いいんだよ今日はこれで」
 その中身がふたつのグラスの三分の一くらいずつを満たしたところで、半端にコルクで封をされた壜が応接テーブルに置かれる。
 深く濃い緑色の壜。実際に注がれるまで、中身が赤ワインだということが直樹にはわからなかった。
「まあ直樹。いろいろあったが、というか今現在もいろいろあるが‥‥‥まずは、婚約おめでとう」
 そのグラスを置いたままにして、源三は言葉を続けた。
「でも俺、今、茉理を」
 どうしても、そこで直樹は言い淀んでしまう。
 なにしろ頭上、二階の廊下では、たった今直樹に振られた茉理が、今でもまだ泣いている筈なのだ。
「ああ。正直な話、今は複雑な気持ちだよ。あんなに好きだった直樹に振られた茉理の父親。明日には保奈美ちゃんのご両親に挨拶しに行く直樹の義理の親父‥‥‥俺はひとりしかいないのに俺の立場は何人分もあって、だからまあ、余計にな」
 何となく手持ち無沙汰な源三の指が、グラスの足をゆっくりとなぞる。
「茉理がお前をそういう風に見ているのは前から気づいていたよ。このところは特に、結構無理もしてるみたいだったしな。本当は、直樹がそのまま茉理と一緒になってくれたら、と思わないでもなかった。そういえば母さん‥‥‥英理もずっと前にはそんなことを言ってたが」
「そう、ですか」
「そりゃあ俺は、何よりもまず茉理の父親だから、茉理にはしあわせでいて欲しい。悲しい涙なんか流さないで済むならそれに越したことはないさ。そのためにできる助力は何でも惜しまない。親にしてみればそれが当たり前だと、親なら誰でもそう思うだろう」
 束の間の沈黙。
「そうはいってもな、色恋沙汰は相手あってのことだ。たまたま相手が直樹だから、居候させてやった恩とかを笠に着て、親馬鹿丸出しで無理矢理そうすりゃ形の上ではそうなったかも知れん。だが、例えばそれで俺が満足でも、それから一緒に暮らしていくのは、俺じゃなくて茉理なんだからな。その後の長い長い時間のことを考えれば、ここで甘やかすのは結局本人のためにならん」



 どことなく言いにくそうに。
「茉理がいくら直樹を好きでも、直樹が茉理を好きになってくれるとは限らない。実際今度がそうだった‥‥‥今度のことは、ただ、それだけのことさ。気に病んでくれることを嬉しいと思うのも親馬鹿だろうが、やっぱりそれは、お前が度を越して気に病むようなことじゃない」
 だが、はっきりと。
「それにさっきは、茉理のことには触れないままでいた方が、多分、誰よりもお前がいちばん楽だったろう」
 そう言って源三は、
「それでも正面から向き合って、敢えて茉理を振ってくれたことには、茉理の父親として、俺は感謝している。ありがとう直樹」
 直樹に向かって、深く頭を下げた。



「まあ今は辛いだろうが、このことで茉理がはっきり負けたのはいいことなんだ。どっちつかずのままでいつまでも未練を引き摺ってるようじゃ、お前よりいい男がそこら辺に五万といるのにも気づけないからな」
 いちばん話しづらかったことを話し終えた安堵なのか、ようやく表情を緩めた源三が人の悪い笑みを浮かべる。
「五万はないと思うけどな」
 やや憮然とした表情で直樹が呟く。
「そうか? 日本の人口が一億二千七百万として、半分が男なら六千三百五十万人だぞ? 分母が六千三百五十万人で、自分より上に五万人しかいないってのは、結構、上の方なんじゃないか?」
 源三の言いようはほとんど詭弁のようであったが、
「おお、なるほど」
 そんな詭弁にあっさり丸め込まれる直樹にも、緊張していたことの反動のようなものがあったのかも知れない。
「‥‥‥ああ。それで直樹、さっきは言葉の綾って奴で、居候させてやった恩とかを笠に着て、なんて言ったがな」
 突如、源三は何かを思いついたようで。
「ん?」
「そんなものお前が気にする必要はまったくないが、それはそれとして、そこのところは別の形で恩返ししてもらうことに今決めたからな」
「え‥‥‥何だよそれ」
「あのな」
 不意に周囲を見回して、直樹しかいないことを確認してから、
「保奈美ちゃんと一緒に直樹の家に引っ越してからも、時々くらいは酒でも呑みに来てくれよ。‥‥‥その、何だ、誰のせいとかそういうことじゃないが、流石にこの歳になって自分の子供が娘ひとりで、息子と酒を酌み交わす男親の醍醐味って奴をまあ、半分諦めてたのを思い出したんでな。ちょうどよかった」
 妙に嬉しそうに頬を緩めてそんなことを言う。
「なんだ。そんなの、今からでも」
 やっぱりそこで一旦言葉を切って、源三しかいないのを確かめてから、
「今からだって、英理さんと頑張ればいいのに」
 仕返しとばかりに、直樹はにやりと笑ってみせる。
「頑張るって何をだ馬鹿」
「それじゃどうやって茉理作ったんだよ」
「それでまた女の子だったら一緒」
 突如、ふたりともが口を噤んだ。
 何を想像したのやら、最初にワインが注がれただけのグラスはまだ応接テーブルに放り出されたままなのに、心なしか、ふたりの頬に少し朱が差している。
 意外に純情可憐な男共なのであった。



「いや、欲しくなかったわけじゃないというか、むしろ本当は、俺たちとしても、もうひとりくらいは欲しかったんだがなあ」
 小さな後悔が、
「仕事を言い訳にするのはどうかと思うんだが、結局、俺が忙しかった時は英理だって忙しかったわけでな。茉理を産んだ時も大騒ぎになって、スケジュールをやりくりするのに難儀したもんだった。そんなことがあって、もう一度子供を産むってことに消極的になってた部分が、俺と英理の両方にあったと思うよ」
 独り言になって唇から零れる。
「正直に言えば、いきなり身寄りがなくなったお前をこの家に引き取ったことの理由と、そういうことは無関係じゃなかった。多分、だがな」
 源三が泳がせた視線の先、居間の壁にはカレンダーが貼られていた。
 赤いマジックで丸が書いてあるのは明日の日付までだ。
 明後日にはここを発って、渋垣夫妻は遠い職場に戻る。
 その次の転機はもうしばらく先だ。直樹と保奈美がこれから通う大学は同じではないから調整は必要だが、それぞれの大学が夏休みに入ったら、今は空き家の久住家へ、直樹と保奈美が引っ越す予定になっている。
 それからは、茉理はしばしば、この広い一軒家にひとりで暮らすことにもなるだろう。
「残念なことに茉理の旦那とまではいかなかったが、まあそんなことでは、お前が俺たちに望まれてこの家に来た事実は何も変わらんさ」
 どこか寂しい気持ちを振り払うように。
「お前は俺たちの息子だし、茉理の兄貴だ。これからだって、俺たちの方はいつでもそう思ってる。だから直樹、できればこれからも、茉理のいい兄貴でいてやってくれ」
 ようやく源三が掲げたグラスに、直樹のグラスが軽く触れる。
「もちろん。任せてくれ、親父」
 最初の乾杯までの間があんまり長すぎたせいで‥‥‥涼しい床下倉庫から出されてきた筈のワインは、一杯目にして早くも、少し微温んでしまっていた。



 その一杯目がようやく空いた頃になって。
「あの、ここ、いいですか?」
 居間の入り口から顔だけ覗かせたのは保奈美だった。
「ああ、もちろん。早くおいで」
 源三の手招きに応じて、やってきた保奈美が直樹の隣にちょこんと座る。
 そこはちょうど、さっき源三が置いた壜の目の前で。
「男同士っていいね。お酒一本でわかり合えちゃうんだ」
 ‥‥‥もしかして、二階はわかり合えなくて大変だったのだろうか。
「あ、茉理ちゃんは大丈夫だよ、なおくん」
 直樹の心配を察したのか、保奈美はそう言って笑う。
「明日はちゃんと一緒に行くから、今日だけはひとりにして、ってさっき言ってくれたよ」
「そうか」
「でもね、それだけだった」
 たった今まで笑っていた筈の顔が、
「わたしは全然、本当に全然、茉理ちゃんに何も言えなくて」
 いきなり、がくりと項垂れる。
「おばさまが戻っていいって言ってくれたからって、わたし、こんな、逃げてくるみたいに」
 掛ける言葉が見当たらなくて直樹は言い淀む。
 それはまるで、少し前の保奈美のようだった。
「まあ、いいじゃないか。逃げたって」
 入れ替わりに席を立った源三が、もうひとつグラスを持って戻ってきた。
「悔しいかも知れんが、仮に逃げないで上にいたって、今の保奈美ちゃんから茉理に言えることなんて何もないだろう。時間が解決してくれるまで、黙って待っている他に何もできないことだってあるさ」
「それで‥‥‥待ってるだけで、いいんでしょうか、わたし」
「さっき茉理が自分で言ってたろう。別に保奈美ちゃんが嫌いでこうなったんじゃない。それとも、保奈美ちゃんは茉理のことが嫌いかい?」
 無言のまま、保奈美は首を何度も横に振った。
「なら、今日のところはそれでいいじゃないか。明日は出て来るって言ったんだから明日は出て来るさ。それからまた始めればいい」
 明日は、藤枝家一同と渋垣家一同が揃って会食の予定。家族同士の顔合わせ、という奴だ。
 とはいえ昨日と、それからさっきの顛末の中で、個別の挨拶は既に済んでいるし、それぞれからの承諾も得られている。大体、もともと住まいが近所で全員顔見知りなのだから、改めて顔合わせをせねばならない必要も実際には特にない。
 それでも省略するのはよくない、と言ったのが源三でなかったら、ひょっとすると本当に省略されていたかも知れないくらいの儀式だった。
「だからほら、顔を上げるんだ保奈美ちゃん」
 まだ俯いたままの保奈美の前に置かれたグラスに、相変わらず頼りない手つきで、源三がワインを注ぐ。
「今日はふたりとも、嬉しい話をしに来たんだろう?」
 続いて、空いたままになっていた直樹のグラスに。
「はい。‥‥‥はいっ」
 最後に、やはり空いたままの、自分のグラスに。
「高校出たばかりで未成年とか、そういう細かい話も今日はなしだ。嬉しい話をする日だからな」
 乾杯、の声がみっつ、居間に響いた。



 同じ頃、茉理の部屋。
「乾杯、してるわね、茉理」
「ん。聞こえてる」
 茉理の頭は、床に座った英理の膝の上にあった。
「もう、しないつもりなのかと思ってたわ」
「何を?」
「告白」
「それは」
「よかったじゃない、惨敗できて。‥‥‥惨敗、させてもらえて」
「そう、なんだよね、やっぱり」
「それはそうよ。これから結婚しますって報告しに来たふたりが、自分の実家に残す家族を相手に、わざわざ好き好んでそんな揉め事起こそうとするもんですか」
「ん‥‥‥あのねお母さん」
「何?」
「保奈美さんが、直樹と結婚するのは嬉しいの。ふたりとも、しあわせになって欲しいな、ってすっごく思う」
「そうね」
「でも、でもやっぱり、好きだった。いつからか、なんてもうわかんない。あたし直樹のこと、本当に、本当に好きだったよ」
「そう?」
「あんな、いい加減だし、適当だし、いっつも全然やる気ないし、なんかいろいろわかってないし、馬鹿だし」
「あらあら」
「直樹のことだけ考えてると、こんなことばっかり、いっぱい出てくる。なんで好きだったのか、本当はもうよくわかんない。でも」
「でも、好きだったのね」
「‥‥‥ん」
「そういう風にね、理由もなく誰かを好きになれるのは、素敵なことだと思うわ」
「そう、なの、かな」
「そうよ。素敵な恋をしたのね、茉理」
「‥‥‥っ」
「泣いていいのよ、茉理。明日も泣いてる?」
「明日は、みんなと同じに、起こして」
「そう?」
「だって、あたしだけ、まだ言ってないよ。直樹にも、保奈美さんにも、おめでとうって言ってないよ。明日は言いたい。今日はこんなだけど、明日はちゃんと、ちゃんと笑って、おめでとう、言いたい」
「そう‥‥‥そうね」
「だから、もう大丈夫だから、お母さんも、下で」
「無理しなくてもいいのよ? 男の子同士の話は、私はあんまり得意じゃないし」
「でも、保奈美さんは?」
「男の子同士の話、してると思う」
「保奈美さんは、得意なの?」
「そうね。苦手じゃないとは思うけど。でも、苦手でも、その時は直樹くんが何とかしてくれるわ」
「ん。直樹、だもんね」
「でもやっぱり、今すぐ顔を合わせるのは、ちょっと辛いでしょう‥‥‥茉理も、保奈美ちゃんも、私もね」
「お母さん、も?」
「もう、ひとりになりたい?」
「‥‥‥お母さん」
「ん?」
「あ‥‥‥あと、あの、もうちょっとだけ、一緒に」
「はいはい」
 ふたりの話す声。
 茉理が時々しゃくりあげる音。
 英理の手のひらが茉理の背中を行き来する僅かな音。
 それからもずっと‥‥‥日が暮れたのに明かりも点けず、暗いままになっている部屋には、そんな音ばかりが穏やかに響き続けた。



「明日もこのスーツ着ていくつもりだったんだけど、何だかんだで皺が寄っちゃったな」
「うう。それはちょっと、こっちも頭痛いかも」
 暦は春先だが、夜道を歩くのはまだ少し寒い。
「まあ一応やることは全部やってきたけど、なんか、今日は散々だったな」
「そうだね。こんなことになるなんて思ってなかったよ」
 保奈美を家まで送る道すがら。並んで歩きながら、直樹はずっと、ポケットに両手を突っ込んだままだ。
「‥‥‥ごめんな、保奈美。大事な日だったのに」
「いいよ。それに、結果はあれでよかったんだろうなって思う。わたしは何もできなかったけど、気持ちは少し、わかるから。茉理ちゃんの気持ちも。なおくんの気持ちも」
 不意に訪れた沈黙が重くなって、取り敢えず保奈美は、直樹の腕に自分の腕を絡めてみる。
「ねえなおくん、あの星は?」
 組んでいない方の指先で、保奈美が天を指した。
「え? っと、あー、うーん‥‥‥何だっけ」
 全然、答えになっていない。
「もう。情けないぞ天文部?」
 ぶすくれた顔で保奈美が文句を言う。
「『元』だ『元』。学園はこの間卒業しただろ」
「それじゃ、大学に入ったら?」
「今度こそ期待の無所属新人かな」
「期待って、誰が期待するの?」
「主に俺」
「不安だなあ」
 自信満々の割に、具体性のまったくない所信表明。
 だが‥‥‥それはそれで、なおくんらしいのかも、とも保奈美は思う。
「保奈美は?」
「ん?」
「料理部とか、あったら入るのか?」
「どうかな。入ってても多分‥‥‥うん」
 こちらは、何やら煮え切らない返答。
「うん、って」
「だから多分、入らないと思うな。夏からなおくんと暮らすって、もうわかってるし」
 何やらよくわからない返事。
「そうしたら、わたしも期待の無所属新人かな。なおくんと一緒になっちゃったね」
「保奈美が無所属って、誰が期待してるんだそんなの?」
「なおくん、期待してくれないの?」
「え‥‥‥うーん、やっぱり不安かな」
 そう言って直樹はにやりと笑い、
「あ‥‥‥」
 組んだ腕を引き寄せる。
 保奈美が選んだ直樹はそういう男であった。



「ねえなおくん、茉理ちゃんのこと、これからもずっと、好きでいようね」
 本当は言いたかったことを、保奈美は口にした。
「‥‥‥何だよいきなり?」
「茉理ちゃんのこと、なおくんが大切に思うのは、間違いなんかじゃないと思うよ。そりゃ」
「そりゃ?」
 そりゃ、本当は少し、わたしは妬けちゃうけど。
 言葉でそう伝える代わりに。
 絡めた腕を、今度は保奈美が強く引く。
 バランスを崩しかけた直樹の正面に保奈美が立つ。
 空いていた保奈美の片手が、直樹の頬に添えられる。
 そして、まだ驚いた顔のままの、直樹の。



 最後まで言わなかったわたしの気持ちのこと、なおくんはきっと、わかってくれてる。だから、なおくんの手は、こんなに強く、わたしを抱きしめてくれてるんだ。
 ‥‥‥だから、わたしは大丈夫。
 わたしもこれから、茉理ちゃんと、家族になっていけるよ。
 唇を重ねたまま、保奈美はそんなことを思った。



 やがて、別離を惜しむように、直樹と保奈美の唇はゆっくりと離れていく。
 宵闇の中とはいえ、往来の真ん中で重なったふたつの影は、だがそれからもしばらくの間、ひとつの影であり続けた。



 そして翌朝。
 ベッドの上で目を覚ました自分の横で‥‥‥板張りの床の上で、英理が毛布に包まっている、のを茉理は知る。
「ちょ、ちょっとお母さん! そんなところで」
「んー?」
 頻りに目蓋を擦りながら、身を起こした英理の肩から、毛布がずり落ちる。
「あらやだ」
 肩にはブラの紐しかない。妙に涼しい肩口をさすりながら、英理はぐるりと部屋を見回した。
 昨日着ていたスーツはハンガーで吊られ、壁に掛けてあったが、膝枕した茉理がずっと泣いていたせいか、スカートには幾つも染みが残っている。
 今日も出掛けるなら、別の洋服を出すべきであった。
「仕方ないわね。ちょっとクローゼット行ってくるわ」
「あの、ごめん、お母さん」
「いいのよ。それより、今日はどうする?」
「あ‥‥‥う、うん」
 さりげなく問いかけられる、いちばん重要な問題。
「まだちょっと早いけど、一緒に行くならまず顔洗って、ついでにシャワーでも浴びてきなさい。一晩中ずっと泣いてればそれくらい当たり前だけど、酷い顔よ?」
 手早く身の回りを片づけ、英理は部屋を後にした。
 そしてまた‥‥‥茉理が閉じた天の岩戸の奥に、茉理ひとりだけが取り残された。



 でも、もう決めたんだ。
 昨日とは違う瞳で、茉理は中から岩戸を見つめる。
『明日は言いたい。今日はこんなだけど、明日はちゃんと、ちゃんと笑って』
 ちゃんと笑って、おめでとう、言いたい。



 ‥‥‥窓に掛かったカーテンをいっぱいに開ける。
 そうして、差し込んでくる柔らかな朝日を背中に浴びながら、茉理は扉を開け、廊下へと踏み出していく。

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