「それでここから望遠鏡で夜な夜な私の部屋を覗いてた、と」
最早すっかり『私の部屋』呼ばわりが板についた恭子の口ぶりが示すものは、もちろん、向かい側の一階にある保健室である。
「夜な夜なって、観測会自体そんなしょっちゅうやってないですよ? それに俺が覗いてたんじゃないですし」
直樹が何か言うのも構わず、恭子は手摺りからぐいっと身を乗り出した。
満月の明るい夜だ。保健室だけでなく、そこから見える校舎の窓硝子はすべて照り返す銀色の光に染め上げられ、その奥にあるものを容易く見抜かせはしない。
「ふーん。まあ、よく見える場所よね、確かに」
恭子は目をすがめるが、やはり中の様子は何もわからないようで、不満げに呟きながら、今度は手摺りに背中を預ける。
「‥‥‥あの、恭子さん、俺の言ってるコト聞いてます? 別に覗いてないんですけど?」
「それはそれで、やっぱり何かムカつく」
養護教諭にあるまじき発言。
「何ですかそれ。覗いて欲しかったんですか?」
「そうは言わないけど、でも健康な男子だったら、嫌だって言っても普通は覗くでしょ? 正直、これで本当に覗かれてないってのも、それはそれで自分の魅力に疑問を感じちゃうし」
口を尖らせながら恭子は肩を竦め、肩を竦める恭子を見ていた直樹も、溜め息混じりに肩を竦めた。
「天文部を廃部の危機に陥れた御方の仰ることとは思えませんが」
「バレなきゃいいのよ要は。大体さ、いくら覗いたって誰もあんな窓際で着替えたりしないんだから、結局、実害だってほとんどないのよ? だから放っておいても構わなかったんだけど」
「そんないい加減な」
本当にこんな人でも勤まるような仕事なんだろうか養護教諭というのは?
時々直樹は本気で疑問に思う。
でも、未来にあんな事件でもなければ、この人はこんなところで養護教諭などしていた筈もないと、そういう時はすぐに思い出す。
元いた世界から‥‥‥あれだけ必死に救おうとしてきた世界から、あんなにも飄々と、もう引き返せない道のこちら側へ舞い戻った人。
「で、でもね、他に誰か、そういうの気づかない子がいる時は、ちゃんと気をつけてるのよ? ああそれと、誰がどう見ても覗いてるように見えるようなやり方してるバカが相手の時も。大体、そうは言っても私だって覗かれて嬉しいとかそんなのじゃないし、それに、それに私は、直樹の」
少し遠くを見るように恭子を見つめる直樹の視線に気づいたのか‥‥‥そんな人が今、まるで何か悪いことをした子供のように、言い訳の言葉を連ねることに懸命になり始める。
その仕種がどうしようもなく愛おしくて。
「あ、ちょっと直樹」
直樹は恭子をぎゅっと抱きしめた。
「俺、一応、恭子さんの彼氏なんで。だから俺としてはやっぱり、そういうのは禁止、ってことにして欲しいんですけど」
「うん。ごめん‥‥‥あ。やっぱりやめ」
頷きかけてから急に何かを思いついたようで、腕の中で恭子は悪戯っぽく笑った。
「私のお願いを聞いてくれたら、私も、そのお願いを聞いてあげる」
「え?」
「恭子、って呼んで、直樹」
‥‥‥すべての窓硝子を銀色に塗り込め、星々の小さな光を押し退けて中天に輝くその月にも、唇を寄せるふたりを振り向かせることはついにできなかった。
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