茨姫[26631020]  


  

 もうすっかり白く覆われてしまった道の上から、まだ雪が降り止まない空を見上げる。
「流石に今日はちょっと寒いね、祐一」
「ああ」
「祐一?」
「ああ」
 すぐ側で白い息を吐きながら、祐一は気の抜けたような返事を返し続ける。
「もう。祐一、ああばっかり」
「ああ」
 咎めるように言うが、祐一はいつもこうだ、とわかってもいる。ほんの小さく、溜め息。
 制服のケープの裾をふわりとはためかせて、振り向いて‥‥‥行儀悪くポケットに両手を突っ込んだまま、ほんの少し後ろを歩いていた祐一が、何故かその時、恐らくは自分を見つめていたのであろう視線を慌ててどこかへ外した、ことに気づく。
「ねえ。今、何見てた?」
「ああ」
「ああじゃなくて。‥‥‥しましま?」
「いや白の」
 つい何となくそこまで言いかけて、しまった、という顔をする。
「白の?」
「いや、っていうか、お前がいきなりそこで回るからだな、その、見たかったからとかそういう、あー、つまり」
 開き直ってみせるが、
「祐一のえっち」
 こういうことは、女の子には敵わないことになっているようで。
「‥‥‥祐一だけだよ」
 項垂れた祐一の頭の前に、微笑みながら、そっと右手を差し出す。



 真っ白いベッドの上を漂う右手を、一同は、一様に沈痛な面持ちで見つめていた。
 まるで時折身じろぎする祐一の身体を追いかけるように、その指先はゆらゆらと頼りなく揺れていた。
「あの、俺」
「何も言わないでください」
 秋子はずっと俯いたまま、呟きかけた祐一の言葉を遮るように、疲れた声で呟いた。
 かちかちと奥歯を噛み鳴らしながら、あゆはさっきから、入り口の近くにしゃがみ込んで頭を抱えていた。
 瞬きもできないほど大きく見開かれたままの目蓋から、落ちた涙が床に弾けた音の方がまだ大きい、くらいの小さな声で、譫言のように何かを言いながら。



「恥ずかしがらなくてもいいのに。私たち、つきあってるんでしょ?」
「つきあってるけど、でも恥ずかしいだろ普通? 学校の近くだし、まだ日も高いし。雪降ってるからわからんが」
「私のぱんつ見たくせに」
「だからそれは不可抗力でだな」
「でも嬉しかったでしょ?」
「‥‥‥はい、その通りでした」
 そこまで言って。
「ああまったく」
 不意に加速した祐一が、かっさらうようにその手を取って。
 そのまま、掴んだ手を引っ張って、早足でどんどん歩いていく。
「わっ。ちょっと、速いよ祐一」
「陸上部の部長さんがこのくらいで驚いてどうする」
「あんまり慌てると転んじゃうよー、って」



 ごとん。‥‥‥不意に、ベッドの上から、身体が落ちた。
 こんな状態でも、本能は身体を動かそうとするのだろうか。ばたつく両手は近くにあったものを掴もうとしたようだが、実際に何かを掴めたのは、墜落する軌道のどこかで祐一のジーンズに触れた左手だけだった。
 力が掛かったのが拙かったのか、手首の包帯にじわりと赤い染みが広がった。
「‥‥‥っ!」
 折り重なるように祐一は倒れ込んだ。
 秋子はまだそこに立ち尽くしたままだった。
 だから、その音に弾かれたように病室を飛び出していったあゆのことは‥‥‥止めることも、追いかけることも、誰もにできなかった。



 半分雪に埋まったようになったところへ、さらに折り重なるように祐一が倒れている。
「だから転んじゃうって言ったのに」
「すまん」
「本当にもう」
 慌てて身体を起こそうとした祐一の、まだ繋いだままだった手を、下から引っ張る。
「こら手を離せ。起きられないだろ」
「いいよ」
「いいよ、って」
 強く引っ張られたせいでほとんど密着してしまった祐一の背中へ、ぎゅっと抱きついた腕が回る。
「いいの。‥‥‥雪が降ってるから、きっと、見つからないよ」
「そうか」
 雪のベッドに沈む唇を、祐一の唇が追いかける。



 病的に白い床の上に背中を浮かせるようにして、意外なほどの力でしがみついて。
 半分のしかかったような姿勢のまま凍りついたように動けない祐一の唇を、追いかけて、奪った。
「祐一さん。ベッドに戻しますから」
「でもちょっと、離れなくて」
「祐一さんっ!」
 苛立ったように秋子は叫んで、
「ご‥‥‥っ‥‥‥ごめんなさい‥‥‥ごめんなさい祐一さん」
 その一瞬後、叫んでしまったことを悔いるように、秋子はさらに表情を曇らせた。
「いえ‥‥‥俺も、っていうか、俺があゆと」
「そのことは言わないでください。誰のせいとか、そういうことではないですから」
 自分に言い聞かせるように、ことさら、言葉は繰り返された。
「誰のせいとか、そういうことでは、ないんですから」



 あゆちゃんだって、七年経って、祐一と結ばれたんだから。
 きっと、七年経って目を覚ましたら、私の側にも祐一がいてくれるんだよ。
 だから。
 おやすみなさい。



 夢の中に降る雪はどんどん勢いを増していった。
 ふたりだけの世界は白いヴェールで現実から切り離され、やがては彼岸へと持ち去られようとしていた。
 現実のあゆも、秋子も、祐一でさえも、夢の城壁を覆い尽くすような茨に搦め取られて、その心までは到底辿り着けそうにない。
 奇しくも、もう十年近くも前にはあゆがそうだったように。
 それからずっと、笑みすら浮かべてすやすやと眠ったまま、目を覚ます気配すらなく。
 ‥‥‥残された書き置きの通りなら七年に及ぶ筈の眠りに落ちた茨姫が、しあわせすぎる白い闇に閉じ篭ってから、まだ、一週間と経ってはいなかった。

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