それでも猫が好き  


  

「あ‥‥‥」
 それまで眠そうだった名雪の声が、一瞬で何か違うものに変わった。
「見るな」
 くきっ。
 異変に気づいた祐一が名雪の首をいきなり曲げる。その首が、何となく危険なような気がしなくもない、微妙な音をたてた。
「わっ‥‥‥首が痛いよ祐一‥‥‥」
「いいからそのまままっすぐ歩け」
「だって猫さんがいたたたたたたた」
 構わず、名雪を押すようにして祐一はその場を立ち去ろうとする。
 祐一にとっては幸いなことに、猫の方は名雪たちにはお構いなしだった。塀の上、陽の当たる場所に丸くなったまま、目を覚ます気配もない。
「ねこーねこー‥‥‥いたいいたいいたい」
 騒ぐ名雪はそのままに、立ち去ってしまおうと祐一が足を速めかけるのと‥‥‥
「祐一くん猫だよー、かわいいよー」
「ってこら、どこから湧いたんだお前?」
 突然、しかも直接塀の上に現れたあゆが、その猫を撫でながら祐一に声をかけたのが、ほとんど同時だった。
「ねこーねこー」
「うわっ」
 遂に、名雪が祐一の腕を振り切った。
「こら名雪!」
「あ、名雪さんも撫でる?」
 無責任に言い放つあゆ。その名雪が猫アレルギーだ、などということはもちろん知る由もない。
「ねこーねこー」
 多分もう、名雪には猫しか見えていない。
「名雪っ! 遅刻するだろ、猫どころじゃないぞっ!」
 めきっ。‥‥‥今度の音は明らかに、さっきよりも危険な響きを含んでいた。
「祐一‥‥‥いきなり首曲げられたら猫さん見えないよ‥‥‥」
 実はその音に一瞬自分の顔から血の気が引いたのを感じた祐一だったが、喋れるから大丈夫だ、と思っておくことにする。
「っていうか祐一くん、名雪さんの首がなんか微妙に曲がってるよ?」
「大丈夫だ。名雪は妖怪食っちゃ寝だから寝りゃ直る」
「祐一‥‥‥わたし一応人間‥‥‥」
「だから名雪、それどころじゃないだろ? もう遅刻寸前だって本当にわかってるのか?」
「遅刻しそうなのは祐一がゆっくりコーヒー飲んでるからだよ」
「トーストくわえたままキッチンで寝るような奴にそんなこと言われたくないぞ」
「そんなことないよ」
「そりゃ憶」
 そりゃ憶えてないだろ。寝てんだから。言いかけた言葉を祐一は思わずそのまま飲み込んでしまった。
 塀の上にいた筈のあゆが、わざわざ名雪の顔が向いている方に立っていたからだ。ご丁寧にも、まだ眠ったままの猫を抱いて。
 べききっ。三度目の強制視界移動は、何かが折れたような音を伴った。
「祐一‥‥‥猫さん見えないよ‥‥‥」
「そうだよ祐一くん、名雪さん猫見たがってるよ?」
「だからまずいんだろ」
 あゆは懲りずに、名雪の顔の前に猫を持っていこうとする。
 名雪の首とあゆの猫が凄まじいスパーリングを展開した。
「ねこーねこー‥‥‥ぐすっ‥‥‥」
 いつの間にか鼻をぐすぐすさせている。もうアレルギー症状は出ているらしい。
「ううっ‥‥‥ねこー‥‥‥」
「だから言ったのに。ほらハンカチ」
「ありがと‥‥‥ううっ‥‥‥」
 涙腺全開のままで、それでも名雪は猫に手を伸ばそうとする。



 その時、やっと目を覚ました猫が最初に見たものは。
 どこか焦点の定まらない瞳から涙をぼろぼろ零しながら自分に向かって手を伸ばしてくる、なんか凄い首の曲げ方をした人間、だった。



「わっわっわっ‥‥‥」
 あゆの腕の中で急に暴れだした猫は、全身の毛を逆立たせて後ずさるように動いた後、そのままあゆの体を踏み越えて一目散に遠くへ走っていってしまう。
「あ‥‥‥猫さん‥‥‥」
 あっという間に見えなくなった猫の背中に手を伸ばしたまま、心底残念そうに名雪は呟いた。
 もう祐一は手を離しているが、不可思議に曲がったままの首を何とかすることも忘れているらしい。
「祐一くん、あゆちゃんいじめちゃダメだよー」
「いじめてるのはお前だ」
「えー? どうしてー?」
「あのなあゆ、猫は妖怪食っちゃ寝の天敵なんだ。あのまま放っておいたら妖怪食っちゃ寝は猫に耳かじられて全身真っ青になっちゃうんだぞ。恐いだろ?」
「うぐぅ‥‥‥確かにそれはちょっと恐いかも知れない」
「祐一もあゆちゃんも‥‥‥だから、わたし一応人間‥‥‥」
 そこまで言ったところで、遠くにチャイムの音が聞こえた。
「あーあ。名雪、1限始まっちゃったぞ」
 諦めたように呟く祐一の横に、
「猫さん‥‥‥猫さん‥‥‥」
 猫が消えていった路地の向こうを未練たっぷりに見つめながら、まだ首が曲がったままの名雪が立ち尽くしていた‥‥‥

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