もちろん、祐一の方に他意などあった筈もない。ちょっと台所へ行くために、自分の部屋の扉を開けただけ、だ。
が。
「うぐぅっ!」
「‥‥‥何やってるのよっ!」
そのドアは向こう側でごんっと鈍い音を立て、次いで、あゆの声にしか聞こえない呻き声が上がり、それと同時にがたがたと何かが散らかったような音がして、さらに、真琴の声にしか聞こえない非難の声が廊下に響いた。
祐一は廊下を覗き込む。
真夜中なのだが、何故かスイッチが入ったままの懐中電灯が廊下に落ちていて、闇の中であゆが脛を押さえてうずくまり、真琴があゆの側に腕を組んで立っているのはわかった。
「うぐぅ、痛いよ祐一くん」
「まったく酷いコトするわね」
「知るか。何が酷いコトだ。それよりこんな夜中にこそこそ何をしてるんだお前らは?」
「それは‥‥‥」
「えっとね、虫眼鏡で」
懐中電灯の光源のすぐ側に何か光るものが落ちていた。拾い上げてみると、確かにそれは虫眼鏡だ。その辺の文房具屋で何百円とかで買えるような安物ではあるが。
「虫眼鏡で?」
「今日幼稚園で憶えてきた、懐中電灯の光を集める実験、って真琴が」
「馬鹿! 言っちゃダメっ!」
素直に白状するあゆと、慌てて止めようとする真琴。
「集めるって、どこに?」
「祐一くんの部屋のドア」
嫌な予感がしてきた。
「それで、光を集めるとどうなるのか、あゆは知ってて手伝ってたのか?」
「え、知らないよ? なんか、おもしろいことが起きるよ、って真琴が言うから」
供述しながら小首を傾げるあゆは、何も知らずに手伝っていた、ように祐一には見えた。
「つまり、真琴は知ってたんだな?」
「え‥‥‥あうー」
ばつが悪そうに明後日を向く。真琴も大概、正直者なのであった。
「流石に、懐中電灯で火が起こせるかどうかまでは俺も知らんが」
「火が‥‥‥起こせるか、どうか?」
不思議そうに繰り返すあゆ。どうやら本当に、何が起きるか知らなかったらしい。
「紙にマジックで黒い点を書いて、太陽の光がそこに集中するように虫眼鏡を仕掛けていると、黒いトコが燃えるんだ。真琴は多分、そういうのを憶えてきたんだろ」
「でもそれじゃ、本当に火が点いちゃったら、このお家が火事になっちゃうよ?」
まったくその通りである。
「待て真琴」
逃げかけた真琴の襟首を祐一の手が掴んだ。
「本当に火が点いたら秋子さんと名雪に何て言って謝る気だこの放火魔っ」
引き摺り寄せた真琴の両方のこめかみに拳をぐりぐりと捻じ込む。
「あううっ! あううううっ! 痛い痛い痛い痛い痛いっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいあううううっ!」
真琴が悲鳴を上げ、
「ったく。洒落で済む悪戯にしとけって言ってるだろ、いつも」
やがて、どさりとその場にくずおれた。
「さて。あゆ」
「‥‥‥ひっ! あっ、あのっ、でもボク、火が点くなんて知らなくてっ、えっと、わっ! うぐうっ!」
頬を引き攣らせてじりじりと後ずさるあゆは、落ちていた懐中電灯につまづいて仰向けに転んだ。
「何をしようとしたか、もうわかったな?」
「うん‥‥‥じゃなくて、はい」
「それならいい。秋子さんに見つかる前に片づけて部屋に戻れよ」
そそくさと懐中電灯を拾い、まだ呻いている真琴を引き摺って、あゆが客間に戻る。
そうして‥‥‥そういえば何をするつもりで部屋から出たのかすっかり忘れてしまった祐一の手の中に、多分その理由とは何の関係もなかった筈の虫眼鏡だけが残ったのだった。
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