クリームソーダという飲み物があることを私は知っていた。デパートへ買い物に連れていってもらうたびに「クリームソーダが欲しい」とせがんだような憶えもある。
「そんなにうまいのか?」
それが何なのか、浩之ちゃんは知らなかったけど。
「うん。それにあんなの、お家じゃ作れないよ」
「そうかなあ‥‥‥結局それって、ソーダ水とアイスなんだろ?」
その日、浩之ちゃんは初めて、私をあのお店へ連れ出した。
おまけについているカードの方が高そうな袋菓子。ラーメンを真似たくせにお湯で戻すとまずくなるスナック菓子。謎の液体に漬かった何かの果物のようなもの。5円で買えるチョコレート。薄っぺらい発泡スチロールの飛行機。カラーボール。‥‥‥あの頃だからそんなにお金を持っていたわけじゃないし、だから、いつもいつも思った通りに欲しいものが買えたわけでもないけど、でもあの時の私たちは、ちょっと薄暗いそのお店の中を歩きまわるだけでも楽しかった。
そこが「駄菓子屋」だ、なんてことを知らなくても、私たちはちっとも困らなかった。
「えっと‥‥‥あった。これだ」
浩之ちゃんが小さな包みをひとつ取り上げてひらひらと振ってみせる。
「それ何?」
「これを水に溶かすとソーダ水ができるんだぜ」
「本当に?」
「だから、これとアイス買って帰れば家で作れるんじゃねえか?」
浩之ちゃんは偉い、と私は思った。
最初から誰もいないとわかっている浩之ちゃんの家にそれでも忍び込むように上がって、音をたてないように食器棚からコップをふたつ出して並べ、冷凍庫から氷をいくつか出す。
さっき買ったソーダ水の粉末をポケットから出してコップの前に並べる。
抱えていたビニール袋からバニラアイスのカップを出す。
私と浩之ちゃんは一度顔を見合わせて、またテーブルに視線を戻した。笑い出しそうになるのを必死で堪えている顔をしていた。‥‥‥とてもとてもいけないことをしようとしている。そんな期待と不安で、幼い私たちはもう胸がいっぱいだった。
四角い氷の上に、さらさらと白い粉が積もっていく。このコップに水を入れるだけでソーダ水ができるなんて信じられなかった。デパートのレストランは、何だかわからないけどとにかくもっと凄い、何か魔法のような作り方でクリームソーダを作っているんだと、その時はまだ、それでも私はそう思っていたから。
「‥‥‥本当は信じてないだろ、あかり」
「うん。本当は、ちょっと」
「いいから見てろ。これをこうすると」
浩之ちゃんはそのコップに水を注いだ‥‥‥途端に粉は泡立ち始め、コップいっぱいに注がれたただの水はあっという間にソーダ水のように見えるものになってしまった。
「浩之ちゃん凄いっ」
「ほらみろ。わかったらお前も水入れてこいよ」
「うんっ!」
‥‥‥そして今、目の前に置かれたふたつのコップにはソーダ水がなみなみと注がれている。
「でも浩之ちゃん」
「ん?」
「こんなにソーダ水がいっぱい入ってたら、アイス乗せたら零れちゃうよ?」
「馬鹿だな。ちょっと飲めばいいんだよ」
「ああ‥‥‥じゃあ私、飲んでみるね」
そう言って私はコップに口をつけた。
本当は飲んでみるまでは半信半疑だった。どこか、信じきれていなかった。やっぱりあのレストランの見えないところで、知ってる人しか知らない何かのおまじないがかからないと、あのソーダ水にはなれないような気がしていた。でも。
「ソーダ水だね」
「まだ疑ってたのかお前」
デパートのレストランとまったく一緒ではないにしても、それが本当にソーダ水だったことに私は驚いた。
「ってあかり、全部飲んじゃってどうすんだ?」
「あ」
気がついたら、私のコップだけ、もうきれいに空になってしまっている。
「浩之ちゃんどうしよう‥‥‥」
「どうしようったってないものはしょうがねえだろ。いいよ、こっちをふたりで分ければ‥‥‥で、アイスをどうするって?」
「んっとね、ボールみたいに丸いアイスクリームが入ってるの」
「丸いのか‥‥‥どうやるんだろう? あかり、どうやって丸くするんだ?」
「知らないよ。作ってるとこは見たことないもん」
「しょうがないな。スプーンで頑張ってみるか」
「気をつけてね浩之ちゃん‥‥‥って、わああっ!」
がちゃん。大きな音がした。
それは、カップのアイスを大きなスプーンで一生懸命つつきまわしていた浩之ちゃんが、残ったソーダ水のコップを肘で倒してしまった音だった‥‥‥。
結局その日は、残ったカップのアイスをふたりで半分ずつ食べた。
でもその週の日曜日、おじさんたちが浩之ちゃんと私をデパートに連れ出してくれて、浩之ちゃんはその時初めて本物のクリームソーダを飲んだ。今から考えると、ソーダの粉末が入った袋やアイスのカップをテーブルに放り出したままだったような気もするから‥‥‥だから、もしかしたら、私たちがあの時内緒で何をしようとして、その結果がどうだったのか、おじさんたちには全部わかっていたのかも知れない。
思い出すと今でも胸がどきどき高鳴ってくる。
それは、私がまだ「駄菓子屋」を「だがしや」と読むことも知らなかった頃のこと。
「ねえ浩之ちゃん、明日、クリームソーダ飲まない?」
『‥‥‥お前も唐突な奴だな。何だ、うまい店でも見つけたのか?』
「そうじゃなくて、ほら、昔作ろうとしたことがあったでしょ? 駄菓子屋さんで粉買って、カップのバニラアイス買って、お家で作るの。ああいうのがいいな」
『ああ、お前がソーダ水だけ全部飲んじゃった時のあれか?』
「浩之ちゃんだってコップ倒しちゃったくせに。ね? あれ、ちゃんと作ったことないよね?」
『まあ別に明日は何もないし‥‥‥わかった。なんか喋ってたら懐かしくなってきたし、付き合うぜ』
「ありがと。じゃあ明日ね」
『おお』
電話を切って‥‥‥受話器を持っていた手を胸に当てた。
とくん。とくん。やっぱり、鼓動がちょっと速かった。
ちょっと甘酸っぱいような、あの内緒のどきどきを私はまだ憶えてる。それだけで私はしあわせだった。
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