わかりきっていたことだった。
栞さんも沙夜先生も、とうとうパパとママの間には割り込めなかった。それでも割って入ろうとして、毎度毎度挫折して‥‥‥打ちひしがれたその姿を見る度、私は心の中だけで快哉を叫ぶことさえした。嬉しかった。私は栞さんのことも沙夜先生のことも大好きで、心を痛める姿を見るのがとても辛かったのも本当だけど、でも私は、そういう強い絆に結ばれたパパとママのことはもっと大好きだった。
そう。ふたりの仲を裂くことは、遂に、誰にもできなかった。
誰にも。私にさえも。
‥‥‥どうして惹かれてしまうのだろう。あの人は間違いなく、自分の父親なのに。
ふたりの絆の強さに触れ、快哉を叫ぶ心の裏で、泣き崩れる自分をずっと持て余していたことに、私はいつから気づいていたのだろう。
「私はあなただけでいいっ! 神も国ももう知らないっ!」
ママの叫ぶ声が聞こえた気がする。未来の記憶にまで、想いを遂げられない私の胸が締めつけられる。
人はこういう時に、出逢ってしまったことを後悔するのかも知れない。
いっそ、出逢わなければ。
あなたさえいなければ、私もここにいなかったのに。
神に背いたあの大天使が、
「さあ。自分の未来は君が自分で選ぶといい。私を倒して天に還るか」
大獄丸の目に嘲るような笑みが浮かんでいた。
「この手をとって鷹久をも手に入れるか」
嘘だ。そんなことをしても何も手に入らない。
「なに簡単なことだ。ただ君は、ひとこと私に囁けばいい‥‥‥君の真名だ」
嘘だ。何ひとつ、この手に残りなどしない。
「それだけで、君はすべてを手に入れる」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
大獄丸を睨んだ。思った通りに睨めたかどうかはわからなかった。
神に背いたあの大天使が、神の国を追われ、
ここは大極殿。どれだけ壊れようと太祖や大獄丸以外は誰も困らない。そして、ここには私と大獄丸しかいない。そう、ここで私がこの力を振るい、大獄丸を倒し、太祖を黄泉へ追い落とすだけで、パパとママの使命は終わる。
なのに、大獄丸は目の前でにやにや笑っていた。スーツのポケットに両手を突っ込んだ、いかにも無防備な姿勢のままで。
太祖を倒すこと。今度こそ、誰にも悲しい思いをさせずに、太祖と、この大獄丸を倒すこと。そのためにわざわざ未来から魂だけで還って来ようとまでするほどの、それはパパとママの悲願だった。ここで私が力を振るうだけで、パパとママの悲願は成就する。使命は終わる。そうすれば、パパとママはあるべき世界へと戻っていくことができる。私を天に還し、今度こそ救われた魂たちをこの世に残して。還される。天へ。パパがいない天へ。ママもいない天へ。そこへ還って、私はどうなる?
今度だけは誰も殺させない、誰にも悲しい思いはさせない。パパはそう言った。
それじゃ、わたしは?
こんなにかなしいわたしのことは、いったいだれがすくってくれるの?
‥‥‥大獄丸は知っていた。私は斬れない。今の私は、大獄丸を、斬ることを、選べない。
気がつくと、爪の痕が残るくらいの力を込めて、何も持っていない掌を握りしめていた。
神に背いたあの大天使が、神の国を追われ、堕ちてゆくその姿は、
いつか、震える私の唇は、何かを呟こうとしていた。
それは世界の破滅を意味していた。絶対に、口に出してはいけない言葉だった。わかっていた筈なのに。
「‥‥‥私の‥‥‥私の、真名、は」
その瞬間を待ちかねたように、祭壇から黒い炎が吹き上がった。それは祭壇を粉々に壊し、大極殿の天井さえも突き破り、やがて荒れ狂う大蛇の姿をとって、赤い瞳で私を見つめた。
その、余りにも毒々しい、真っ赤なふたつの瞳が。
歓喜に打ち震えていた。
怒りに猛っていた。
かなうわけもない恋に迷った挙げ句、世界を棄てた愚かな私を嘲笑っていた。
私は初めて、自分が蛍という天女の娘だったことを実感していた。
綾という遊女の娘だったことを実感していた。
澪という名前、それさえも取り上げられた巫女の娘だったことを実感していた。
万葉という高校生の娘だったことを実感していた。
世界の命運を棄てることさえ厭わないほどに、たったひとりの男に恋い焦がれた女の末裔たち。
この世でいちばん罪深い、赦され得ない女の系譜に、新たな罪を抱いて、たった今、私も連なったのだ。
神に背いたあの大天使が、神の国を追われ、堕ちてゆくその姿は、この上もなく美しかったと説話は語る‥‥‥。
お願い。パパ。ママ。私を殺して。私を止めて。早く。
次に私の唇が呟いた筈の言葉は、黒い大蛇の咆哮に掻き消え、私の耳にすら届かなかった。
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