見上げた空の真ん中で、満月はもう欠け始めていた。
わ、と小さく呟いて、それきり何も言わなくなって。
多分そのまま、寝転んだ俺のすぐ横で同じように秋草に埋もれたまま、まっすぐに、欠けた月に見入っている。
「双眼鏡とか、持って来ればよかったかな」
不意に、何か言わなきゃいけないような気がしてきて、言わずもがなのことを俺は言う。
「ううん」
答えながら、名雪は欠けてゆく月から目を離さない。
皆既月蝕。
月の姿が完全に消えてしまった時、いつもの青白い月の代わりに、赤い月がそこに昇るらしい。
「それも受け売りで、自分で見たことはないんだけどな」
もっと何か言い続けなきゃいけないような気がしてきて、わかりもしないことを俺は言う。
「今日は、そうなる?」
わかるわけがない。
「皆既月蝕だとは言ってたから、そうなる、と思うけど」
「ん。そんな風に見えるといいね」
答えながら、名雪は欠けてゆく月から目を離さない。
「名雪」
「ん?」
「‥‥‥寒、くないか?」
さらに何か言わなきゃいけないような気になるけど、早くも、どうでもいいようなことしか話の種が残っていなくて。
「大丈夫だよ。祐一は、寒い?」
答えながら、名雪は欠けてゆく月から目を離さない。
「いや、そうじゃないけど」
そういうことが言いたいんじゃないんだけど。
「今日の祐一は、お喋りさんなんだね」
答えながら、名雪は、欠けてゆく月から、目を、離さない。
消えかけた月から名雪を奪い返す作戦は既に、ほとんど全滅に近い惨状で失敗していて。
いきなり、横に寝転がっている名雪の唇を奪ったり、そんなことをしてみたい衝動に駆られる。
‥‥‥駆られるけど、駆られるままに実行したりはできない自分が、微笑ましかったり、悔しかったり、で。
「うーっ、ダメ‥‥‥ごめん祐一、ちょっと、限界だよ」
欠けてゆく月から目を離さないまま。
それでも何かをしようとしかけた俺の手を、突然、名雪が握る。
「女の子ってダメかも。こんな風にして月だけ見てると、何だか、すごく不安になっちゃうんだよ」
やわらかな、あたたかな手のひら。
「でも、月がなくなったり、もしかして赤くなっちゃったりしても、すぐ側に祐一がいてくれる、ってわかるだけで安心できるから」
作戦はほとんど全滅に近い惨状で失敗しているのに、消えかけた月の魔力を自分で振り切った名雪は、寝転んだ俺のすぐ横へ、勝手に戻ってきてくれている。
それでは、俺は一体、今まで何を四苦八苦していたんだろう?
そう思うと自分が情けなくて、苦い笑いが抑えられなくなる。
「‥‥‥笑われたら恥ずかしいよ、祐一」
笑い続ける俺から目を離して、拗ねたような声で抗議する。
「ごめん。いや、名雪がおかしいんじゃなくて」
それでも笑いながら、弁明を試みる。
「じゃあ、どうして笑ってるの?」
「‥‥‥男の子なんて、女の子よりもっとダメだな、って思った」
「祐一も男の子なのに?」
「ああ。だから本当、男の子もダメなんだ。こうしてないと」
俺の手のひらの中にある手を、ぎゅっと、強く強く握る。
「名雪が月に持って行かれたら嫌だとか、そういうこと心配してた。結構、本気で」
たったそれだけのことを名雪に伝えるために、どれだけの回り道をしてきただろう。
「それは大変だね」
「被害者のくせに何を呑気な」
「だったら、祐一」
気がつくと、名雪が俺を見つめている。
「ずっと‥‥‥私のこと、ずーっとずーっと、こうやって掴まえててくれなきゃ嫌だよ? そうじゃないと私、本当に被害者になっちゃうかも、だよ?」
言葉で答える代わりに、片手で握った名雪の手にもう片方の手も添えながら。
「‥‥‥ええと、あー、それについては前向きに善処いたしたい所存」
少し間を開けて、しかめつらしく俺は答える。
「一秒で了承してくれないんだ。お母さんみたいに」
くすくすと名雪は笑う。
「了承してもいいんだが、そのためには手だけじゃなくて、いろんなところを掴まえておかないと」
「‥‥‥了承」
三秒くらいで戻った返事には、
「祐一のえっち」
舌を出してみせる名雪の、はにかんだような顔が添えられていて。
ふたり一緒に照れ笑いしながら、さっきよりも近づいて、両方の手のひらを合わせて、指を絡ませ合って。
広い広いものみの丘の片隅で。
秋草に埋もれたまま。
何故だか妙に窮屈な姿勢で両手を繋いだまま。
‥‥‥そんな風に、俺たちは。
改めて見上げた空の真ん中には、見慣れない、赤くて昏い満月があった。
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