入り口に設えられた低い柵の前に立ち止まって。
彼女はそっと天を仰いで、それから、柵の向こうを見つめた。
昼頃まで降っていた雨はもうすっかり上がって、夕暮れ前の公園には幾つか水溜まりが残っているだけだ。
靴紐を結び直し、ケープについた綺麗な緑色のリボンもきゅっと締め直し、短く息を吐いて。
ふたつ並んだブランコの片方に近づいた彼女は、湿った感じの残る木の板に少し顔を顰め、持っていたポケットティッシュで座面を拭う。
隣のブランコがきいと音をたてて軋んだ。
この公園に今は自分しかいないと本当はわかっていて、それでも‥‥‥そこに雨の名残しか乗っていないところは見たくなくて、視線がそっちを向きたがるのを堪え、必要以上に必死になって、彼女は目の前の板を几帳面に拭い続けた。
しばらく経って、水が滲んで黒っぽくなった木の板に腰を降ろしながら、どうしても隣のブランコの様子に目が行ってしまうけれど、とうとう横目で見てしまったそこには、もちろん、雨の名残しか乗っていなくて。
梅雨入り前の、若草の匂いがむっと立ち篭める公園にひとり座り込んで、きしきしとブランコを揺らす。
隣のブランコがまた風に揺れても、もう、振り向くことはしなかった。
何の前触れもなく、ダッフルコートの女の子が俯き加減の顔をいきなり見上げたその時に、彼女は一体どんな顔をしていただろう。
その一瞬後には、驚いた彼女は俯くことをやめていた。膝の上に組んでいた手を解き、狐に摘まれたようなぽかんとした顔を女の子に向ける。
女の子はにいっと笑って、隣のブランコを両手のミトンでばたばた叩いていい加減に雨粒を払い落とし、さらに、がつっと板を蹴飛ばした。しかし、続けてもう一度蹴飛ばそうとした時にはその足の届く範囲からブランコが逃げてしまっていて。
ごつんっ。
ちょうど空振りした足が地面に降りた、その膝のあたりに、いかにも痛そうな音をたてて、戻ってきた板の角が直撃した。
うぐぅうぐぅと呻きながら痛めた膝を抱えて片足で跳ね回る。痛みを置いて身体だけが空へと逃れたがるように、背中のリュックについた白い鳥の翼のような飾りがぱたぱた揺れるが、でも飾りは所詮飾りでしかなくて、いくら揺れても身体が浮かび上がったりはしなくて。
狐に摘まれたような顔をいつ止めようか、タイミングを測りかねていた彼女の目の前で、その女の子は勝手にどんどんどうにもならなくなっていく。
「みっ、見てないで助けてよぉ」
呆れたような笑みを漏らすしかない彼女に、拗ねたような上目遣いで女の子は言った。
口に出しては何も答えないまま、彼女が伸ばした手は女の子の腕を捕まえる。そのまま、その手に引っ張られてきた女の子は、雨にぬかるんだ地面の上を危なっかしく跳ねながら、最終的に、彼女の膝の上にちょこんと腰かけるかたちになる。
「大丈夫ですか?」
ようやく口を開く。大人びた声音。
「あんまり大丈夫じゃ‥‥‥ててっ‥‥‥」
女の子が大袈裟に膝を摩るから、ふたりを乗せたブランコはぎしぎしと派手に軋んだ。
上から様子を覗き込む。女の子の膝より上にスカートの裾があって、足のブーツは脛くらいまで、厚手のハイソックスは膝の下の辺りまでを覆っている。そして、ちょうどスカートとハイソックスがどちらもカバーしていない膝に、見るからに痛そうな青い痣ができていた。
彼女は冷たい指先をそっと痣に当てようとする。
その手が痣に触れる瞬間に、女の子はひくっと身体を竦ませ。
それから。
「あ‥‥‥ごめんなさい」
申しわけなさそうに呟きながら、触れる寸前で止まってしまった彼女の手を、自分の小さな両手で引いて。
乱暴に自分の痣に他人の手を押し当てたせいでぴりぴりと体中を駆け回る電流のような痛みに顔を歪めながら、女の子はかなり頑張って、笑顔になる努力をした。
まだ揺れている隣のブランコが音をたてる都度、彼女の耳の奥にだけ、もうひとつのブランコが静かに鳴く音が重なって聞こえていた。
こんな風に涙を滲ませて膝の上から自分を見ている誰かに、ずっと昔にも彼女は出会ったことがあった。
‥‥‥手を当てる、くらいのことしかしてあげられないのは、ずっと昔も、今も、同じだった。
「手、冷たいね」
目尻に涙を浮かべて、それでも押し当てる手の力を緩めずに、女の子は言う。
「ごめんなさい」
言われた彼女は反射的に謝罪の言葉を口にして。
別に何か悪いことをしたわけでもないのにと、謝ってしまってから思う。
「ううん。冷たいの気持ちいいよ」
「でも痛いでしょう?」
「本当は、ちょっと。でも、冷たくなくても、痛いのはきっと痛いし」
「私の手を離せば、痛くないのではありませんか?」
「でも、自分の手を当てたって、きっと同じに痛いと思うし。だったら、こっちの方がいいかなって」
時折頬を引き攣らせながら、それでも、彼女の手を使って女の子は自分の痣を摩る。
「そう、ですか」
聞こえた言葉を反芻しながら、何となく、彼女はもう片方の手を女の子の頭に置く。
ひくっと肩を震わせて‥‥‥突然、女の子は手を動かすのを止める。
「優しいんだね」
胸の中で何かを押し殺した残滓のような、低い、くぐもった声。
「そうですか?」
「ん。そんな感じで、ボクのことよく撫でてくれた手のこととか、ちょっと思い出しちゃった。‥‥‥どっか似てる。同じ感じがする」
どっか似てる。
「あのね、昔出会った、そういう風にボクに優しかった人の思い出を、ボク、今でもずっと探してるんだよ」
同じ感じがする。
「もう七年くらい経つのかな? 今度の冬が来て、それで、それくらい」
彼女が、もう片方の手を女の子の頭に置いた、のは。
‥‥‥その既視感のようなものは、女の子だけが感じていたものではなかったようで。
でも、そんな既視感のようなものが何となく共通のものであるような気がするからといって、それだけを理由にそんな突飛なことを尋ねてしまう自分に抵抗を感じるくらいには、あれから彼女も大人になっていて。
「あの、ひょっとして」
ひょっとしてあなたも、ものみの丘から来たのではありませんか、なんて。
「ん?」
「あなたも」
あなたも狐なのではありませんか、なんて。
「‥‥‥いえ。何でも」
尋ねてしまえなくて。
彼女はきゅっと口を噤む。
「辛くなんかないよ」
「え?」
いつからか、膝の上から、女の子は俯き加減の彼女の顔をじっと見つめている。
「そういうこと、聞きたそうにしてるかな、って。見つかるかどうかわからないものを、七年もずっと探しているのは‥‥‥でもね、でもボクにはそれしかないし」
それしかないしと女の子は言った。
私にはそれすらもないと彼女は思った。
「それに、探すことも止めちゃうとね、きっとボクはここからいなくなるよ。そんなこと誰も教えてくれないけど、何となく、そういう風に思うんだ」
「いなく、なる?」
訊き返す言葉。
「そっちは、探すの止めちゃったの?」
答えの代わりに、問い返す言葉。
「止めたというか‥‥‥探す意味がないというか」
「そうなの?」
「ええ。死んでしまいましたから」
必要以上にあっさりと、彼女はそのことを口にする。
特別な感慨は今はもうない、と彼女は考えている。脳裏を回りすぎた走馬灯はとっくに焼き切れてしまっていたし、もう涙も枯れ果てて久しい、と。
嘘に決まっていた。
このブランコはあの子のお気に入りだった。
ここは、あの子が最期に笑ってくれた場所だった。
そんなところへ。
いくら今日が命日だからといっても。
それで特別な感慨が全部なくなってしまったような人が、よりにもよって今日という日に、そんなところへ来るようなことをする筈もない。
「死んで、しまいました、から」
軋む鎖の音くらいの掠れた小さな声で、彼女は繰り返し言葉を綴った。また溢れ返る思い出に止めを刺そうとでもするかのように。
いちばん最期の言葉は、きちんと聞き取ることができなかった。
またあした‥‥‥だったのではないかと彼女が思っているのは、いちばん最期の笑顔が、友達になってからずっと、毎日見ていた笑顔と同じに見えたからだ。
日が暮れるといつもその子はそう言って笑って、それから家への道を走って帰っていったものだった。だが最期の日だけは、その子は自分では家へ帰らなかった。
高熱に浮かされ、かたことの言葉で譫言のような何かを繰り返して‥‥‥そんなになっても、木の板を吊った冷たい鉄の鎖と、長く伸ばした彼女の髪のひとふさから、その小さな手を離そうとはせずに。
そんな風にしてその子は、こと切れるまでここにいた。ひとのかたちをとって彼女と遊んでいる時間のほとんどを過ごした、と言っても過言ではない、その公園のブランコに。
ひとに憧れ過ぎたせいかも知れない。
ひとのかたちを得た自分に夢中になり過ぎたせいかも知れない。
得てして、そういうことには後になってから思いが至るもので‥‥‥彼女も例外ではなくて、小さな狐に戻った亡骸を抱き締めて、その時の彼女はただ泣いているばかりだった。
穏やかに失われていく体温を奪い返そうとでもするかのように、背中を丸めてブランコに座り込み、その名を呼びながら、膝の上に抱き上げた狐の身体を摩った。
一生分の三倍程もその子の名前を呼んでも、それで亡骸が亡骸以外の何かになりはしなかったけれど、それでも彼女はそうして、日が暮れるまで、繰り返し名前を呼びながら、きしきしと小さくブランコを揺らし続けた。
「あの、変なこと聞いてごめんなさい」
恐る恐る、女の子は謝ってみた。
彼女は何も答えずに、そっと女の子の頭を撫でた。
「あ」
赤いカチューシャが手のひらに引っ掛かってかさりと僅かな音をたてた。
季節外れの分厚いミトン越しに、それでも器用に少しだけカチューシャを動かして、女の子はすぐにそれを元に戻した。
「これはね、ボクのお気に入りなんだ。かたちがあってボクのとこに残ってる、ひとつだけの思い出だから」
「ひとつだけ?」
「ん。残りはほとんどたい焼きだから、七年前にみんな食べちゃった」
嬉しそうに顔をほころばせる。
「たい焼き、ですか」
「でもボクはそんなにお金いっぱい持ってなかったから、だからあの時はいつも、いつもいつも、ボクはあの人にたい焼き買ってもらってて。いつか‥‥‥今度会えたら、そういうお返しもできたらいいなって思うけど」
一瞬前には笑っていた顔が、
「ボクはその人のことずっと待ってて、眠ってるボクから抜け出して、ずっとあの人のこと探してて。でも、でもね、もう今度の冬で、それから七年も経っちゃうんだよ‥‥‥」
だんだん、
「ねえ、帰って来てね、ってちゃんと約束できなかった人が、もしかしたら帰ってくるかも知れないのをずっと待ってて、でもやっぱり帰って来ないのと」
俯いていく。
「ずっと前に死んじゃった人のことを今でもずっと忘れられないのは」
女の子の頭に添えられたままの彼女の手が震えた。
「どっちが‥‥‥どっちが、悲しいのかな‥‥‥?」
そこは狐の故郷だと、人恋しい妖狐の故郷でもあると、彼女は祖母から聞いたことがあった。
だからその日が暮れた頃、彼女はものみの丘にいた。
家から引き摺って来たスコップでいちばん高いところに穴を掘り、その子の身体を横たえて。
周りに咲いていた花を少し摘んで。
一緒に家から持ち出した鋏で、長かった髪を肩のところでばさりと切って。
大きくて綺麗な三日月の夜に‥‥‥彼女は、花と髪と、果たされるわけもない約束をそこに埋めて。
その子の名前の代わりに『またあした』を繰り返しながら、泣きながら、何度も何度も振り返りながら、大人用の長いスコップを引き摺りながら。
のろのろと遅い足取りで、それでも家に帰り着いた時に、彼女の物語のその章は幕を降ろした筈だった。
『ねえ、帰って来てね、ってちゃんと約束できなかった人が、もしかしたら帰ってくるかも知れないのをずっと待ってて、でもやっぱり帰って来ないのと』
制服の白いケープにしがみつくようにして、嗚咽を堪えようとしている女の子が腕の中にいる。
『ずっと前に死んじゃった人のことを今でもずっと忘れられないのは』
もしかしたらこの子も狐かも知れないと思う。
少しくらいはあの子のことを知ってるかも知れない、と思う。
それで‥‥‥やり直せる、のかも知れない。
心のどこかでそんなことを思い始めていた自分に気づいて悲しくなる。
『どっちが‥‥‥どっちが、悲しいのかな‥‥‥?』
どんな風に答えてあげればいいのだろう?
問いかける声だけがぐるぐると彼女の脳裏を巡る。
しかし答えなど、彼女の中から見つかる筈はない。
むしろ彼女が誰かにそれを訊きたいくらいなのだ。
約束は埋めてしまったと割り切りたがる自分と。
埋めてしまった約束にそれでも縋りたがる自分では。
「どちらが、悲しいのでしょうね」
だから今はただ、その華奢な身体をぎゅっと抱き締めることの他に、してあげられることも、言ってあげられることもない。
遠いどこかを通り過ぎる子供たちの声が響いた。
時折渡る風に肌寒さが混じるようになった。
黄昏は公園のすぐ近くまで来ていた。
不意に、彼女の視界の隅を何かが掠めて飛んだ。
それは向こうの砂場に舞い降りた鳩だったけれど。
鳩が宙に描いた軌跡は、いつかあの子が蹴飛ばした靴のそれに重なって見えた。
隣のブランコがまた風に揺れて。
きい、と静かに鳴いた。
「‥‥‥靴」
呟く。
「へ?」
「私の友達は靴投げが大好きだったんです」
「靴投げって、靴を投げちゃうの? なんで?」
ようやくケープから離した小さな手の甲で目尻の辺りを擦りながら、女の子は怪訝そうに首を傾げる。知らないらしい。
「ああ、手で投げるのではありませんよ? ブランコを思いっきり漕いで勢いをつけて、いちばん前のいちばん上に着く時に、爪先に引っかけた靴を蹴り出すんです。それで遠くまで靴を」
そこまで言って、彼女は女の子の足元を覗き込む。
「ブーツですね」
「あ、ブーツだとできないかな?」
「踵だけを外してブーツを履くのは難しいですから、普通の靴の方がやりやすいでしょうね」
「ふーん」
さっき彼女がしたように、女の子は彼女の革のローファーを覗き込んだ。
「ねえ、やってみてよ。これは普通の靴だよね?」
「え? 私が、ですか?」
「うん。だってボク、他に靴持ってないし」
靴どころか、実はこの子は服もこれしか持っていないのかも知れない、という可能性に彼女は思い当たる。
なにしろダッフルコートにミトンの手袋だ。今は、例えば彼女の通う高校はもうじき夏服に衣替えをするような時期で、それを思えば女の子の重装備は季節外れも甚だしい。だがそうなった理由はさておき、もしも本当に手持ちの服がこれで全部なのだとしたら、それは仕方のないことだろう。
彼女にしてみれば、今着ている服の他に服を持っていない子と知り合いになるのは別に初めてではない。
それくらい、今更驚くようなことでもなかった。
そこに座りたかったのは最初からなのに、そういえば、女の子が公園に着いてからブランコに乗るまでの間には、日が暮れるほどの長い時間が必要だった。
ともかくも、彼女の膝の上から飛び降りた女の子は、隣のブランコに腰を下ろす。そしてそこから、何かを期待するような目で、女の子はじっと彼女を見つめた。
小さく息を吐いて、彼女はブランコを揺らし始める。
確かに彼女は靴投げが好きだったその子とずっと一緒にいたが、しかし、彼女自身が靴投げに夢中だったわけではない。飛んで行くのはもっぱらその子の右の靴で、彼女はほとんどそれを見ていただけだ。
不器用に両足を折ったり伸ばしたりしながら、あの時、あの子がしていたことを思い出す。
振り幅がだんだん大きくなる。
繰り返す景色の動きがどんどん速くなっていく。
恐い、と思った。
だが口に出して言ってしまいそうになるのは堪える。
あの子の好きだった世界がこんな世界だったなんて知らなかった。
目を瞑りたくなるのも我慢する。
スピードを落とさないように右の踵を靴から抜く。
鎖を握る手に力を込める。
耳元でケープの裾がばたばたとはためく。
ちょっと油断するとすぐに捲れ上がりそうになるスカートの裾をふとももに挟んで押さえる。
そして。
思いきり伸ばした右の足を離れ、蹴り出された靴は放物線を描いて。
空へと向かい過ぎたせいで滞空時間の割に飛距離は伸びず、向こうの砂場、さっき鳩が舞い降りた辺りでざくっと重い音をたてた。
「あんまり飛ばないね」
女の子は素直な感想を口にする。
「でも、初めてにしては上出来だと思います」
彼女の方は結果に満足しているようだ。
「初めて? ‥‥‥え? でも、だってそれ、お友達は好きだったって」
「あの時は、私は見ていただけでしたから」
「なーんだ。じゃあ、今日のボクと同じだね」
「そうかも知れませんね」
「でも悔しいなー。靴がこんなじゃなかったら、ボク絶対、さっきの靴より遠くへ飛ばせるんだけどなー」
悔しがる女の子とあの時の自分は、同じではない、と彼女にはわかっていた。
彼女が見ているだけだったのは、やりたくてもできなかったから、ではない。見ているだけで‥‥‥自分のことを気にかけてくれる誰かが側にいて笑っていて、あの時は、それだけでよかったからだ。
公園。ブランコ。靴投げ。自分と、もうひとり。
確かに似ているようにも見える。
やり直せる、のかも知れない。
さっきは確かにそんなことを思った。
でも今はそうは思わない。
例えば今、靴を飛ばしたのは、あの時は見ているだけだった彼女の方で。
見ている方の位置にいる子は、あの時は自分でそれができないことをこんなに悔しがりはしなかった筈で。
似たものは‥‥‥そのもの、とは違う。
彼女の今は、あの時とは違う章に綴られているのだ。
「さっきの答えですが」
「え?」
「帰って来てくれるって、信じているのでしょう?」
「‥‥‥ん」
なまじ希望があることは、何もないよりきっと辛い。
でも、それでも信じていられるのなら。
「諦めない方がいいと思います。私とあの子のことは‥‥‥もう、思い出になるしかありませんが、帰って来てくれるかも知れなくて、帰って来てくれると信じていられるうちは、信じることを諦めてはいけない、と」
「でもそれで、こうやってずっとずっと待ってて、でもずっと帰って来てくれなかったら?」
「今まで通りじゃないですか」
「え‥‥‥」
「今を我慢できるなら、今まで通りは大丈夫でしょう? 六年も頑張れたんですから。ね?」
ずっと俯いて、悲しい別れをただ惜しんでいただけ、だった誰かのようでなく。
六年も想い続け、探し続けられる強さで願うのなら。
「それに、ほら」
空の明かりと街灯が半分ずつで控えめに光を投げかける砂場を彼女は指で示す。
「明日もきっといいお天気です」
「へ? どうして?」
「昔は、下駄を飛ばして明日の天気を占ったそうですよ。ちゃんと立ったら晴れ、裏返しなら雨」
砂の上で、確かに靴は、靴底で綺麗に着地していた。
「神様がいるかどうかはわかりませんが、お日様はきっと見ていますよ」
彼女は微笑んだ。
必死で女の子を励まそうとする自分のことも本当は少しおかしかったが、そのせいで笑ったのではなくて。
神様とかお日様とか、普段は考えてもいないような言葉が自分の唇から零れ出したせいでもなくて。
多分、もうすぐこの子は奇蹟を起こす。
何か根拠があるわけではないが、しかしほとんど確信に近く、彼女はそう思う。
そう思うことが嬉しくて‥‥‥彼女は、微笑んだ。
「あなたなら、大丈夫です」
「暗くなってきたから、ボクもうそろそろ帰るよ」
女の子は立ち上がって、お尻のあたりをぱんぱんとミトンで払う。コートに薄く滲んだ雨水の染みは払ったくらいで消えてなくなりはしなかったが、薄暗い空の下では、そんな染みもそろそろ目立たなくなっていた。
「そうですね」
彼女も立ち上がろうとして、右足が靴を履いていないことに気づく。
彼女の靴はまだ砂場にあった。
そういえばあの子はいつも、飛ばしてしまった靴をどうしていただろう、と思う。‥‥‥そうだ、片足だけ靴下だなんてまるで気にする風でもなく、自分で走って靴を取りに行っていたのだった。
「あ、ちょっと待ってて。ボク取っ」
「いえ」
駆け出そうとした女の子の言葉を遮って。
「自分で行きます」
まず左足で立ち上がり、それから、まだ湿った感じの残る土の上に、靴を履いていない足を降ろす。
「靴下、汚れちゃうよ?」
「大丈夫です」
「でも、靴履いてる方の足でケンケンすればいいのに」
それも考えないではなかったが、暗くなってきて足元がよくわからない土や砂の上を片足で飛んで、靴のある場所まで転ばずに行くのは難しいことのように思えた。
「い‥‥‥いいんですっ」
高さがちぐはぐなせいで右下がりに傾いた自分に違和感を憶えながら、半ばは意地になって靴下で土を踏みしめ、彼女はゆっくりと砂場へ歩いた。
濡れているせいで砂というよりは土のようになっている砂場に立ち、さっき投げた靴を拾い上げた。爪先や踵に纏わりついた土を手で払う。
砂場からブランコの方を振り返る。
女の子はそこで彼女にぶんぶんと手を振って、それから、彼女の立つ砂場へ駆け寄る。
まだ膝をぶつけた足を庇うような仕種が残るが、それでもあっという間に辿り着いてしまった女の子を見ていると‥‥‥確かに。
「あまり飛んでいない、かも知れませんね」
「でしょ? ボクだったらもっと遠くまで‥‥‥うーん、この砂場の向こうくらいまでなら飛ばせるんじゃないかな、って思うよ」
少し遠くを指差す。あと一メートルくらいだろうか。
「それなら、今度やってみますか?」
「でもボク、靴はこれしか持ってないし」
「この靴を使ってもいいですよ」
「本当? うん、やるよっ! よーし、ボク絶対もっと遠くまで飛ばしちゃうぞっ」
街灯の白い光ばかりが目立つようになった薄暗い砂場の上で、女の子がぱっと笑った。
「でも私だって、もう一度やれば」
今度はもっと遠くまで飛ばせる。
‥‥‥意外に子供っぽい自分を発見して、心の中だけで笑みを洩らしながら。
一方で、そう思う自分のことも、彼女は嬉しかった。
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