CANNONBALL.  


  

 いつの間にか、窓の外で鳥が囀る声が聞こえていた。左手の小皿から目を上げる。窓の外は今日もいい天気だ。
「舞ー、朝だよー。もうすぐ朝ごはんができるよー」
 古びたコンロの上でことことと小さく揺れる鍋の音と、佐祐理のそんな言葉から、いつものように彼女たちの朝は始まる。
 佐祐理の後ろ、閉められた襖の向こうで何かが動く音がした。それは次に、ごそごそといろんな衣擦れの音をたててから、おもむろに襖を開ける。
「‥‥‥ん」
 真っ白い兎さんの着ぐるみ姿が微妙な舞が眠い目を擦りながら起き出してきたのと同時に、閉めかけた襖の向うで目覚まし時計が鳴った。しかしその騒音は、眠そうにしていた割にはやたらと俊敏な、それこそ着込んだ兎さんさながらの舞に飛びかかられ、数秒と経たないうちに沈黙を余儀なくされてしまう。
 小さく息を吐いて、舞はもう一度台所に顔を出した。目覚ましを止めに行った今の動作はあなたの見間違いです、とでも言うかのような、いかにも眠そうな仕種を引き摺ったままで。
「おはよう、舞。お風呂場で顔洗ってきてね。もうすぐ朝ごはんだよー」
「ん。‥‥‥あ」
 言われるままに風呂場へ向かいかけた舞が、不意に、佐祐理の方へ振り返る。
「?」
「おはよう、佐祐理」
 頭を下げる動作に合わせて、頭についた兎さんの耳がゆったりと佐祐理の顔を掠め、僅かな音をたてて舞の膝に着地する。
「おはよう」
 笑いながら答えた言葉は、佐祐理にとっては既に今日何度目かの朝の挨拶だった。
「朝ごはん食べたら、今日は早めにお買い物だよー。もう大晦日だからねー」
 ばしゃばしゃと聞こえる水音に混じって、ん、と頷いた舞の声が小さく聞こえた。
 佐祐理もひとつ頷いて、コンロに意識を戻す。
 傍らの炊飯器が平和に湯気をたてていた。



 高校の三年間は、お世辞にも成績がよかったとは言えない‥‥‥どころか、一部にはストレートに卒業できたことを指して「奇蹟」とまで言われてしまうことさえある舞が、進学校で鳴る高校で学年主席の座をとうとう三年間保持し通してみせた佐祐理と同じ大学に入学するなど、まず考えられない事態、ではあった。しかし現実に、今の舞と佐祐理は同じ大学の一年生である。
 それは別に、舞に合わせて佐祐理が志望先を変えたから、とかいうことではなかった。しかも、そう言われても誰も信じはしないが実際は本当に逆で、佐祐理に合わせて舞が志望先を決めた、というのが事の真相である。
 ‥‥‥その昔、東京のどこかの大学がそれを始めた当時、真面目に勉強していた高校生のほとんどはタチの悪い冗談の一種くらいにしか認識していなかっただろう。しかしどういうわけか、個性を重んじるとか何とかいうわかったようなわからないような風潮と共に、それに似たものが昨今ではそこかしこで実施されるようになった「一芸一能入試」なる受験形態を、例えばその大学が今でも採用していなかったなら、確かに、そんな真似はとてもできはしなかっただろう。それもまた事実ではあった。
 虎徹さんを携えて乗り込んでいった舞が、試験官たちの見つめる前で一体何をやってのけたのか、詳しいことは佐祐理も知らないが‥‥‥舞の合否、一芸一能特別枠の是非、ひいては大学としての選抜方針を巡って判定会議に激震をもたらし、舞ひとりの合否判断が学内を二分する大抗争に火を点けたとか点けなかったとか囁かれた騒動の果てに、ともかくも舞は、当たり前のように推薦入試でトップの成績を叩き出し、既に合格を決めていた佐祐理と、晴れて一緒の大学に通えることになった。
 実家から通うには少し遠いその大学の近くで、近隣の商店街に忘れられたように建っていた築二十云年のアパートを借りたのは、ふたりが卒業した年の春休みだ。今日はその年の大晦日だから、もう一年近く、舞と佐祐理はこうしてふたりで暮らしてきたことになる。



 夕方には帰るからねーと言い置いて、近所のスーパーに出掛けた足で佐祐理は大学近くのファーストフード店へ向かった。アルバイトの時間だった。例によってほとんど無言のまま、ん、とだけ答えて手を振った舞は、買い物袋を両手に提げて、ひとり部屋に戻る。
 そうでなくても忙しいファーストフードの昼番は、誰も彼もが忙しい年末年始ともなれば、本当に目がまわるくらいの勢いになる。働く時間を選べないパートもこの時期は家業を優先したがるし、同じように学生の肩書きも持つバイト連中は誰も、明らかに人手が足りないとわかっているシフトに好き好んで入ろうとはしないが、佐祐理にしてみれば、それは逆にチャンスでもあった。
 何しろふたりは、ほとんど原義通りの苦学生なのだ。
 いっぱい働けてお仕事がいっぱい憶えられて他のみんなにも喜ばれてお給料もいっぱいもらえて、嬉しいことばっかりだねー。前に佐祐理は、そんなことを言いながら舞に笑ってみせたことがある。
 玄関の前に立ったまま、ポケットから取り出した玄関の鍵を舞はじっと見つめた。‥‥‥この手は。
 この手は、佐祐理を守ることができる手、だろうか。
 この手は、今、佐祐理を守れているのだろうか。
 考えれば考えるほど、佐祐理ひとりが頑張っていて、舞は何もしていない、ように思えてくる。
 どうにもならないことをぐるぐる考えながら唇を噛んだ舞を現実に引き戻すように、部屋の中で電話が鳴り始めた。慌てて玄関の鍵を開け、ばたばたと中へ雪崩れ込むと、受話器に手が届いた頃にはもう留守録開始メッセージが終わっていて、どこかで聞いたことのあるような男の声が何事か喋り始めていた。
『久世です。差し出がましいようですが、倉田さん、お正月はいつこちらに戻られるのかと、先程はお父様も心配しておいででしたよ。‥‥‥いつまで意地を張っているのですか? 野良猫に義理立てするのも程々にして、早く戻っていらした方が、あなたのた』
 ぴー。時間切れを告げる電子音と共に、虚空に向けられた演説はぷつんと打ち切られる。無機質に時刻を読み上げる音声に続いて、静けさが部屋に戻った。
 のらねこ。‥‥‥買い物袋を提げたまま、思案顔の舞は視線だけで天井を見上げる。
 もしかして、佐祐理は舞に内緒で猫さんを飼っているのだろうか。言ってくれれば世話くらい一緒にするのに。
 買い物袋をひとまず炬燵に置いて、取り敢えず舞は、どこにいるのかわからない猫さんのための牛乳を買いに、さっきまでいたスーパーへ駆け戻る。



 引き出しから小皿を出して、買ったばかりで冷たいままの牛乳を注いだ。それを‥‥‥家のどこに置いたものか。舞は首を傾げる。
 大体、その猫さんはどこにいるのだろう?
 一応家中を見てまわったが、それらしい姿はどこにも見当たらなかった。もしかしたら自分で餌を捕まえに行ったのかも知れない。舞はぺたんと炬燵の前に座り込んだ。猫さんを探して早足で移動と停止を繰り返した割には一滴も零れていない牛乳は、まだ左手の小皿で表面張力の限界に挑戦し続けている。
 そういえば、さっき佐祐理と一緒に買い物をした時の袋がふたつ、その炬燵の上に置きっ放しだった。あれからまだ十分くらいしか経っていなかったから悪くなったものは別にないだろうが、冷蔵庫にしまった方がいいものくらいは早めに片づけた方がいい。
 立ち上がった舞は冷蔵庫の扉を開き、続いて買い物袋も開けようとして、やけに不自由な左手に思い至った。
 数秒、小皿を見つめたまま止まっていた舞は‥‥‥毎日お鍋を前にして佐祐理がそうするように、必要以上の牛乳で満たされたそれを小さな唇に宛った。くっと呷る。当たり前のように零れ落ちた白い雫は、すぼめた唇の両脇から頬を伝って流れた。
「あっ」
 胸元にふたつの痕が残る。その冷たい感触に、思い出したように舞は声をあげた。
 悲しそうな目で、舞は自分を見下ろす。
 着替えなきゃとか、猫さんはどうしたんだろうとかの前に、どうして私は佐祐理じゃないんだろう、と思う。もしも今の自分に、佐祐理の何分の一かでも上手に何かをこなすことができたなら‥‥‥不意に小皿が左手の指から滑り落ちて、白く飛沫を散らしながら、木の床の上でくわんくわんと音をたてて回った。
 また、電話が鳴る。
 立ち上がって走ろうとして、開いたままだった冷蔵庫の扉に足を引っ掛け、舞は派手に転んだ。そうこうするうちにまた留守録開始メッセージは終わってしまい、さっきとは別の誰かが違う演説を始める。
『多宝酒家の王です。舞ちゃん、すぐに来てください。急なお客さんで困っています。力を貸してください』
 日本人の日本語とは若干イントネーションの違う早口の言葉は、今度は時間切れの合図よりもずっと早く終わった‥‥‥お決まりの電子音声がさっきと同じように時刻を読み上げている頃、無様に転んだままの情けない姿勢にはまるで不釣り合いな舞の鋭い視線は、寝ていた部屋の隅に立て掛けられた虎徹さんの姿を捉えている。
 私が頑張らなきゃ。
 今朝方の兎を思わせる俊敏な動作で跳ね起きると、冷蔵庫の扉を蹴って閉じ、その足で空中へ掬い上げた小皿を左手でトスして流しの中に放り込み、敷居を跨いで虎徹さんをひっ掴むところまで、ほとんど一挙動でこなしてみせた。ポケットから家の鍵を引っ張り出して外から施錠し、戦闘モードの舞がバイト先へと駆けていく。



 駅近辺の繁華街がちょうど途切れるくらいのところに、多宝酒家、という看板のかかった中華料理店があった。舞たちの部屋からなら、走れば五分ほどの距離だ。
 本場の中華料理が自慢のその店は、あまり一般的でない一部の客層には本物のチャイニーズマフィアの根城としても知られている。
 当然、来て欲しくない客が押しかけて来ることもある。例えばたった今、それぞれに拳銃を手にした十数人のチンピラが、奥に設えられた完全防音の個室の中で物々しく店主と睨み合っているように。
 ところで、その一般的でない客層の間でも、この多宝酒家という店が抱えるバンサー、つまり用心棒が一風変わっていることはあまり知られていない。以前のバンサーは、中国は福建省からやって来た美少女にして八卦掌の達人。その少女が中国の祖父のもとへ帰った後を引き継いで、現在バンサーとして雇われているのは、既存のどんな流派とも違う、誰も知らない不思議な太刀筋の剣を振るう美少女。
 疾風の素早さで裏口から屋内へと駆け込んだ現職のバンサーは、奇妙に曲がりくねった廊下をほとんどそのままのスピードで走り抜け、チンピラの集団を睨み据える店主の脇に設えられた戸棚を回転扉のように回して、前触れも何もなく、いきなり室内に踊り込む。後ろでひとつに纏めた長い黒髪が自ら起こした風に靡いた。
 一通り見渡したところでは、どれもこれもそれなり程度の小物にしか見えなかった。その中では比較的偉そうに見えるチンピラの背後にまわると、あっという間にその腕を捩じり上げ、いつの間にか抜き放っていた白刃を首元に押し当てた。‥‥‥突然の展開に驚いたチンピラ共が慌てて銃を握り直し終えたのは、既に状況が絶望的な不利にまで傾いてしまった後のことだった。
 店主が顎をしゃくる。結局何もできないまま、舌打ちを残してチンピラは退散していくしかない。
「おお、助かったよ舞ちゃん。ありがとうな」
 銃を持ったチンピラの集団をひとりで威圧していた店主は、事が済むと途端に相好を崩した。いつの間にか手に持たされていた白鞘を渡そうと歩み寄るその表情は、まさに年相応の好々爺のそれだ。
「いえ」
 言葉少なく舞は答え、渡された鞘を手に取る。
 あまり反りのない、切っ先の小さい体配は寛文新刀に多く見られる特徴だ。鞘に収められる動きの中で、蛍光燈の明かりを鏡のように反射した刀身の眩さに、店主の細い目はさらに細まる‥‥‥舞自身は真贋などまったく問題にしてはいなかったが、それは十本あれば十一本はニセモノとまで言われるほどに贋作の多い虎徹の、しかし紛れもない真作、と店主は見ていた。
「せっかく来たんだ、昼でも食べて行かんかね?」
「いえ。佐祐理が待ってるから」
「そうか。すると、年の瀬は実家へ戻らないのかね? ご両親に挨拶もなしは感心しないが‥‥‥まあ、お前さんにも事情はあるだろうな。なら、まあ日本料理のおせちとはいかんが、店のものを適当に詰めさせよう。年越し料理だと思って、佐祐理ちゃんと一緒に食べるといい」
 その言葉には頷いて、そこにあった椅子に腰掛ける。
 程なく出されたお茶に口をつけるのと、店主が怪訝そうに眉を顰めたのがほぼ同時だった。
「さっきからどうもおかしな匂いがすると思っとったんだが、何だね、牛乳でも零したのかね? 店の服と一緒でよければ、そこに脱いでおけば洗って届けてやるが?」
 恥ずかしそうに俯いた舞は小さく首を横に振った。



 あっという間に仕事を片づけた舞は三度部屋に戻る。佐祐理が帰ってくるのはまだ先だ。
 玄関の扉を開けると、まっすぐ前に見える廊下は台所を兼ねていた。その廊下、冷蔵庫のすぐ前に放り出された買い物袋は、そういえばお昼前、最初に買い物から帰ってきた時から結局あのままだったことを思い出す。
 多宝酒家でもらった折詰をひとまず居間の炬燵に置いて、今度こそ舞は買い物の中身を整理し始める。
 それぞれの品物が店のどういう場所にあったかを思い出せれば、それは大して難しい作業でもなかった。冷たい場所で売っていたものは冷蔵庫。普通の場所に売っていたものと、温かい場所に売っていたものは冷蔵庫でない場所。‥‥‥取り出したひとつひとつを眺めては首を傾げながらの作業は呆れるほど効率が悪かったが、しかし殊更間違えることもなく、すべての品物を振り分け終えた舞は大きく息を吐いた。
 でも、これくらいで喜んではいけない。
 佐祐理はもっと凄いから。
 気合を入れ直し、立ち上がった舞はまず、牛乳を零したままだった上衣を玄関の外に据え付けられた洗濯機に投げ込み、適当に洗剤を入れて「スタート」と書かれたボタンを押す。が、佐祐理がそうする時にはボタンを押すだけで洗濯機の上から流れてくる水がいつまで眺めていても流れ落ちて来ないし、水が溜まらないからか、いつまで待っていても洗濯が始まらない。
 じっと洗濯機を見つめる舞の視界が、壁に設えられた水道の蛇口を捉えた。恐る恐る蛇口を回してみると、途端に勢いよく流れ出した水が適当なところできちんと止まり、洗濯槽はぐるぐると回転を始めた。
 ようやく得心が行ったように頷いて、舞は部屋に戻る。
 次は。‥‥‥次、は。
 するべきことはたくさんある筈だった。佐祐理がいつも忙しそうに部屋の中でやっていることは。しかし、いざそれを自分でやろうとすると、悲しいくらい、舞はそのたくさんのことを何も憶えてはいなかった。
 再び、炬燵の前にぺたんと座り込む。炬燵の上に載せられた大きな折詰の箱から食欲を刺激する香りが鼻に届いて、舞のお腹がくうっと鳴いた。
 のろのろと顔を上げながら、今はそこにない佐祐理の背中を思い出そうとする。朝、お味噌汁を作っている時‥‥‥お味噌汁をおたまで小皿に少しとって味見をする、その仕種の他に、佐祐理の背中は、腕は、どんな風に動いていただろう?
 お湯を沸かす。野菜を煮る。お味噌を溶く。多分。
 私が頑張らなきゃ。
 舞は腰を上げた。



「倉田さん朝番と午後番が多いんですって? ねえ昼番も来てよー、倉田さんくらいの人がいっつもいてくれたら助かるんだけどなー。それでそのまま偉くなって店長になっちゃうってどう?」
「あははー。ありがとうございますー」
 パートのおばさんの攻撃に、佐祐理はちょっと押され気味だった。
「でも普段は授業がありますから、いつもは入れないと思いますよ? 今日は大晦日で授業がないので特別です。‥‥‥いつも、こんな風なんですか?」
「ううん、今日は特別。大晦日だもんねえ」
 間の悪いことに本当に目を回してしまった店員がいたせいで、内部の忙しさは見た目の盛況を大きく上回るものになってしまっていた。ハンバーガーをラッピングする手をすごい速さで回転させつつ、口だけで佐祐理を昼番に引き込もうと企むパートのおばさんは、主婦業を優先するつもりで今日は入らないシフトを組んでいたのに、倒れた子の代打で急遽入店することになった人だった。
 だからといって、頼ってばかりもいられない。
 佐祐理が頑張らなきゃ。
「いらっしゃいませー」
 自動ドアが開閉を繰り返す都度、ひときわ楽しげな佐祐理の声が店内に響いた。
「倉田さん、お話があるんですが」
 ‥‥‥例えば、カウンターの向こう側に突然、見覚えのある男が立っても、
「いらっしゃいませ、こちらでお召し上がりですか?」
「倉田さん。話を聞いてくださいよ」
 その男がそのままカウンター越しに何やら深刻な話を始めようとしても、
「ご注文がお決まりでしたらどうぞ」
「倉田さん!」
 あくまでも、楽しそうに店員業に従事していた。
「お客さん? 後ろがつかえてますから、個人的な話は後にしていただけませんか?」
 パートのおばさんが佐祐理の横から助け船を出す。
 口調こそ穏やかだが目が笑っていない。醸し出される迫力にはただならぬものがあった。明らかに気圧された男は自分でも気づかないうちに後ずさっている。取ってつけたようにコーヒーとだけ呟いて、小銭をカウンターに放り出した。
「ごゆっくりどうぞー。次の方、お待たせいたしました。ご注文がお決まりでしたらお伺いします」
 それでも、佐祐理は楽しそうだった。
「‥‥‥何、アレ?」
 客足が一段落するのを待っていた、くらいの勢いで、パートのおばさんから突っ込みが入った。
「あ、あははー‥‥‥」
「何だか知らないけど、アレはロクでもないわよ? ああいうオトコは止めといた方がいいわ。違うと思うけど」
 いきなり切り捨ててしまう。
 向こうでコーヒーを啜っている男には聞こえていなかっただろうか。佐祐理は客席を見渡した。
「でも、ちょっと行ってきますね」
「ん。忙しくなったら呼ぶけど、それはいいよね?」
「お願いします」
 エプロンを纏めて手に持ったまま、佐祐理はカウンター横の通路から客席へ歩いていく。



「倉田さん」
 佐祐理が声をかけるよりも早く、久世が佐祐理の名前を呼んだ。ちょっと困った顔の佐祐理が正面の席につく。
「どうしたんですか久世さん?」
「お父様から聞きましたよ。倉田さん、特待生扱いで学費を免除されているそうですね?」
 半分身を乗り出すようにして、久世は喋り始めた。
「はい」
「ご実家で暮らしていればこんなバイトで苦労をする必要もない。大体、仕送りにほとんど手をつけてないそうじゃないですか? それをあんな‥‥‥マンションだって、物件くらいいくらでもあるでしょうに」
「でも、お家はあれで充分ですし、今はお仕事もとっても楽しいですし、舞だって頑張っていますし。大変ですけど、別に苦労とかは」
「嘘です。川澄には何もできない。そこの中華の店でバイトしているといっても、川澄が本当に店員として働いているところを見た者は誰もいません」
「でも、お給料の代わりに、多宝酒家さんは舞の学費を持ってくださいましたよ? 一緒に働いて学費も払わないとね、って舞と話していたので、助かっちゃいました」
「そんなもの‥‥‥店の奥で何ぞ如何わしいバイトでもしているに違いない。そうに決まってる」
 舞の本当の仕事を知らない久世は鼻で笑った。佐祐理の顔が少し曇ったのは、久世の下卑た勘繰りが当たっているからなどでなく、危険な稼業に身を置く舞を案じてのことだったが、それも自分に都合よく受け取った久世の口車はますます加速する。
「大体、何故です? 何故、敢えてそんなに苦労を背負い込んでまで、あんな川澄なんかをいつまでも飼っているのですか? 川澄の学費? あなたはそんなことにかまけているべき人ではない。もっと」
「もっと、何でしょうか?」
 佐祐理は笑った。‥‥‥笑顔ひとつで半ば毒気を抜かれた久世が、浮かせた腰を椅子に降ろす。
「佐祐理は馬鹿だから、久世さんの仰りたいことは、本当はよくわかりません。でも、舞は、佐祐理の大切なお友達です。佐祐理の知らないたくさんのことを教えてくれる先生です。今だから、舞と一緒だから、佐祐理は」
 名士の御令嬢、などという窮屈な鳥籠には、
「初めて、この足で立って、この手でお仕事をして‥‥‥佐祐理は生きてる、って思える気がするんです」
 自らの力で羽ばたくことを憶えてしまった佐祐理の微笑みは、もう、納まりようがないのだろう。
 連れ戻せるなら縁談も考えてやってもいいと言った佐祐理の父が、佐祐理の何を諦め、何を諦めなかったのか。今頃になってようやく、久世はそれを理解した。
 カウンターの向こうから佐祐理を呼ぶ声がする。その場で手早くエプロンを纏いながら席を離れた舞を、だから久世にはもう、黙って見送ることしかできなかった。



「ただいまー。お店からチキンとかもらってきたよー」
「お帰り」
 夕方。
 玄関を開けた佐祐理の前には、珍しく‥‥‥というより、初めて見る舞のエプロン姿と、コンロの上で火にかかっている鍋。いつも佐祐理が味噌汁を作っている鍋だ。
「あれれ? 舞、お料理?」
「お味噌汁にならない」
 悔しそうに舞は呟いた。
「ええと、どれどれ」
 いつものように、味噌汁になれなかったものをおたまで小皿に少し取って、味見をする佐祐理。そういえば、舞がその背中でなく、佐祐理の横でその仕種を見ていたのも、初めてのことだったかも知れない。
「ん‥‥‥あははー。ちょっと失敗しちゃったねー」
 正直な佐祐理は、口に含んだ途端に苦笑いを浮かべた。
「多分ね、お野菜を入れる前にお出汁をとったら、もっとおいしいお味噌汁になるよ。それと、にんじんさんとじゃがいもさんはもう少し小さく切ろうね」
 その味噌汁になれなかったものを舞がどうやって作ったのか、既に佐祐理はある程度把握していたようだ。
「ん。頑張る」
「頑張ろうね」
 その鍋は取り敢えず舞に任せたまま、佐祐理は一旦居間に入る。
 炬燵の上に、何度か見た憶えのある大きな折詰。
 留守、と書かれた大きなボタンを明滅させる電話機。
「舞、もしかして今日、お仕事があったの?」
 急に心配そうな顔になった佐祐理が振り返る。
「ん」
 舞の背中が見えた。
 舞が佐祐理を見ている時のような背中。
「大丈夫? 怪我とかしてない?」
「平気」
「そう‥‥‥あんまり、危ないことしないでね?」
 鍋を掻き回す舞の手が止まる。
「佐祐理」
「ん?」
「危なくても、私にはそれしかできない。だから私‥‥‥どうしたら、私は佐祐理みたいになれる?」
「佐祐理、みたいに?」
 向き直った舞は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「私は、そんな風に佐祐理の心配をしたことがない。だから私は、佐祐理みたいになりたい。いろんなことが普通にできて、佐祐理が心配しなくてもいいようになりたい」
 用心棒などで学費を稼ぎ出す人の手には思えない、小さくて華奢で柔らかい舞の手を佐祐理は握った。
 ずっと昔から、たったひとりの力で生きてきた手。
 ようやく今、ひとりの力で立ち上がろうとしている佐祐理を、いろんなことからいつも守ってくれている手。
「そっか。‥‥‥うん、一緒に頑張ろうね」



 大晦日のテレビはバラエティだとか意味がよくわからない表彰式の中継だとか謎のプロレスイベントだとかを延々と放送し続けていた。どこのチャンネルにも共通しているのはつまらないということで、ふたりにとっては『適度に喧しい雑音』以上の意味はなさそうだった。
「何にも作ってないのにねー」
「ん」
 炬燵の上にそれぞれがもらってきたものを広げただけで、何やら豪勢な年越し料理になってしまった。
「そうだ、猫さん」
 今度は取り皿として炬燵の上に置かれたさっきの小皿を見つめて、思い出したように舞が言う。
「へ?」
「佐祐理、猫さん飼ってる?」
「猫、さん? ‥‥‥飼ってないよ? どうして?」
「電話で言ってた。野良猫に義理立てするのも、とか」
 のらねこにぎりだてするのも、という音が、日本語に直すとどういう意味なのか、しばらく佐祐理にはわからなかった。‥‥‥何となく、そんなことをさっきも聞いたような気がして、ふと思い立った佐祐理は、ずっと明滅を繰り返していた電話機のボタンを押してみる。
 佐祐理が想像した通り、最初に吹き込まれていたのは久世のメッセージだった。途中で終わっていたが。
「これは、佐祐理が猫を飼ってる、って意味じゃないよ」
「でも、ミルク買ってきた」
「え? ‥‥‥ああ、あの冷蔵庫に入ってた牛乳?」
 佐祐理は両手をぽんと合わせた。何故か牛乳が買ってあったことの意味がようやくわかったらしい。
 続けて再生されるのは、多宝酒家の王と名乗る男の、早口でイントネーションの微妙なメッセージ。
「本当だ。舞もお仕事あったんだね」
「でも、すぐ終わった」
「だったらいいけど‥‥‥あ」
 テレビの向こうで除夜の鐘が鳴りだした。窓の外にも鐘の音が聞こえ始めている。時々揃ったり揃わなかったり、まるでちぐはぐなふたつの鐘の音は、とにかく、新しい年がもうすぐそこまで来ていることを教えていた。
「今年も大変だったねー」
「ん」
「来年はきっと、もっと大変だけど、頑張ろうね」
「ん」
「舞、来年は猫さん飼おうね」
「‥‥‥ん」
 嬉しそうに舞が頷く。
 テレビの中では何やら数を数え始めた。十五くらいから突然始まって、だんだん減っていくその数は、どうやら新年までの残り秒数らしい。
「あと五秒」
 佐祐理が言う。
「四」
 箸を握ったまま舞が呟く。
『三』
 テレビの向こうでたくさんの人が叫ぶ。
『二』
 番組の司会が高く掲げた手の指を順番に折る。
「一」
 舞と佐祐理だけでなく、日本中の声が重なった。
「ゼロ‥‥‥あけましておめでとう、舞。今年もよろしくお願いします」
「おめでとう、佐祐理」
 互いにぺこりと頭を下げて、顔を見合わせて、笑った。
 耳を澄ませば、時々ずれたりずれなかったりしながら、ちぐはぐなのに同じ鐘の音はまだ聞こえていた。

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