傾きかけた遠い太陽の下の、薄暗い灰色の空の下。
人影も疎らな冬の砂浜にふたりは立って‥‥‥空と同じく、薄暗い灰色の水面が波打つのを眺めていた。
「冬の海が見たい、って気持ちはわからないでもない」
祐一の言葉には、言外にどことなく呆れたようなニュアンスがあったが、
「サスペンスものみたいで格好いいじゃないですか」
もちろん栞は、そんなことにはお構いなしであった。
「でも冬だ。しかも今日はまた一段と寒い」
「そうですね。もう一枚、何か着てきた方がよかったかも知れません」
「で‥‥‥正直、袋持ってるだけで既にちょっと手が冷たい気がするんだが」
右手に提げていたコンビニのビニール袋を栞の鼻先に突きつける。
「なんでこの寒いのにアイスなんだ」
「だって、海といえばアイスクリームじゃないですか」
この世の幸福を総取りしたような顔で、うっとりと眼前の白いビニール袋を見つめる。
「それじゃ山は?」
「アイスクリームがおいしいです」
「公園だったら?」
「断然アイスクリームですよね」
「だから全部アイスだ! 他に何かないのか他に!」
うっかり大声で突っ込みを入れてしまった祐一に、当たり前のように、にこやかに栞は答えて寄越した。
「あるわけないじゃないですか。おかしなことを聞くんですね、祐一さんってば」
‥‥‥なんでこんなのと付き合ってるんだろ、俺。
如何に祐一といえども、時折、そう思わないではない。
「あれ? 食べないんですか?」
砂浜に腰を降ろした栞は、早速、バニラのカップアイスに匙を入れている。
「祐一さんも、遠慮しなくていいんですよ?」
ついでに付け加えるならば、財源は今日も祐一であった。そんな恩着せがましいことが言えた義理ではない。
「そんなん食ったら凍死する」
アイスの代わりに祐一が手にしているのは温かい缶コーヒーだ。
「冬っていえば普通はこういうのだろ。飲むか?」
「‥‥‥もしかして、苦いんじゃないですか?」
訝しげな眼差しでじっと祐一の顔を見つめた。
「いや。ほとんどコーヒー牛乳」
祐一の方は、それについては特に反応を示さない。
「『苦くないなんて言ってないぞ』とか後から言うのは禁止ですよ?」
「大丈夫だって」
手渡されそうな缶を慎重にチェックしてから、
「わ。やっぱりダメです」
差し出された手を押し戻す。
「こんなに大きく『無糖ブラック』って書いてあるじゃないですか。苦いに決まってますっ」
眉根に皺を寄せる栞に、当たり前のように、にこやかに祐一は答えて寄越した。
「苦くないなんて言ってないぞ?」
‥‥‥酷い人の彼女さんになっちゃったかも。
さしもの栞といえども、時折、そう思わないではない。
「それはそれとして」
渡し損ねた缶コーヒーをひとくち飲んでから、祐一は言葉を続けた。
「味覚がお子様過ぎるのは誉められたことじゃないぞ、あんまり。例えばアレだ、自分の子供に『好き嫌いはいけません』とか言えないだろ」
「でも、そういうのは多分、ずーっと未来の話ですよ?」
「妊娠するまでそんなこと言ってるんじゃないのか? そういう奴の『準備』って大抵は間に合わないぞ?」
「私、妊娠するんですか?」
わかっているのか天然なのか、時々、祐一にはよくわからなくなるが、
「いや、すぐの話をしてるんじゃなくて」
「それなら、いいじゃないですか。時間はたくさんあるんですから」
そんなことにはお構いなしの栞は、
「たくさん、あるんですから」
木の匙を加えたまま、嬉しそうに繰り返す。
「‥‥‥まあ、そうだけどな」
こういう時に強気に出られないのが、甘やかしてる、ということなのだろうか。
『相沢くんは栞に甘過ぎよ。もっとちゃんと躾ておかないと、後々苦労するわよ?』
それは以前、もしかしたら本当に祐一の小姑になるかも知れない女性が、溜め息混じりに言ったことだった。
後々、っていつだよ。
祐一としては、そんなことだって思わないではない。
例えば、今すぐに栞と別れてしまえば、そんな『後々』の心配など必要なくなる。今はまだ、祐一と栞は何の約束もしていないのだから。
栞の横顔を盗み見る。
バニラのアイスひとつで世界中の誰よりもしあわせになれる少女の横顔。
想いの不滅を信じて疑わない、純真な少女の横顔。
‥‥‥ダメだった。
どうやったら嫌いになれるのか真剣にわからなかった。
いちいち面倒そうなこの少女と添い遂げて、いちいち一緒に苦労しながら生きていく以外に、叶えたい未来のヴィジョンが何もないことに気づいてしまった。
多分、こういうのが、世間では「惚れた弱み」とか呼ばれるものなのだろう。
ひとつ息を吐いて、祐一は立ち上がる。
「ちょっと叫んでくる」
「叫ぶ、って?」
「海のばかやろー」
取り敢えず、海に八つ当たりする。
それで、すっきりしたら、その次は。
「ああ‥‥‥そういうのも素敵ですね」
アイスを前にした時と同じくらい、幸福そうな笑顔。
「せっかくの冬の海だからな」
ひとりで踵を返し、波打ち際へと歩み寄っていく。
そして。
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