『相沢か?』
「ああ。どうした北川?」
『そこに水瀬はいるか?』
「いないけど? 何だよ、名雪には言えないようなことなのか?」
『あー、まあ、分類するとそういう話だが‥‥‥相沢お前、遊園地で水瀬とふたりっきりになりたくないか?』
「は?」
『だから、水瀬とふたりっきりになりたくないか、と聞いてるんだ』
「なんで?」
『なんでってお前、なんでって、あー』
「それに、別に遊園地じゃなくても、そんなチャンスなんて毎日普通にゴロゴロあるんだが」
『ぐうっ』
「お前がそうなりたいだけじゃないのか北川? いいんだぜ俺は、ずっと一日香里にべったり貼りついてやっても」
『相沢ぁ‥‥‥』
「他人を巻き込むつもりならもう少しちゃんと考えろよ。それじゃ俺が一日香里にべったりじゃ困るって自分で言ってるようなもんだろ? なんで困るか当ててやろうか、つまり」
『あああわかった! 負けたよ! 俺の負けだよ! ‥‥‥すまん相沢、折り入って頼みがある』
「最初からそう言えばいいんだよ。で、何をするんだ?」
『何もしなくていい。俺のプランとしては、途中で香里と俺だけ迷子になる予定なんだが、それでも何もしないでくれればいい』
「香里は何て言うかな、それ」
『まあ、何て言おうが不可抗力だからな、迷子なんてのは。そのつもりで、アトラクションが始まってすぐ、なんて混みそうな日の前売券をわざわざ取ってきたんだし』
「なるほど。それは気づかなかったよ。適当なのかと思ったら意外と周到だったんだな」
『後は相沢次第なんだ。俺と香里がいなくなったら、お前はともかく水瀬は心配するだろ? でも探されたりしたら困る。だから相沢は、そうなった後で水瀬さえ何とかしてくれればいい。こっちのことまで助けてくれとは俺も言わん』
「そうか。まあ、考えとくよ。香里の意見も聞かないといけないしな」
『お前っ! 聞くなよそんなことっ!』
「聞かねーってそんなこと。わかってるから安心しろ。大丈夫だ。‥‥‥ったく」
「あ、電話終わった?」
受話器を置いたところに名雪が通りかかった。
「ああ。珍しいな名雪、まだ起きてたのか?」
祐一が電話についた時計を見ると、もう夜の十時を過ぎていた。普段なら名雪が寝つくのは九時前後だ。
「私だってそういうことくらいあるよ。あ、ねえ祐一」
「ん?」
「さっきテレビの長期予報で見たんだけど、遊園地の日、あんまり天気よくないみたいだよ」
思いきり不安そうに名雪は言う。晴れなければ世界が滅亡してしまいそうな顔だ。
「そうなのか?」
「うん。私も眠れないし、せっかくだから、てるてる坊主作ろうかなって」
「なるほど。‥‥‥名雪は結構楽しみにしてるんだな」
「そうだね。遊園地なんてずっと行ってないし。観覧車とかコーヒーカップとか好きだよ」
「なんか地味そうなのばっかりな気がするが」
「いいもん。好きなんだから。ねえ祐一、暇だったら一緒にてるてる坊主作ろうよ」
祐一の目の前に白い紙と鋏をひらひらさせながら、名雪はそんなことを提案した。
「ああ、いいぞ」
‥‥‥その晩、居間の明かりはしばらく灯ったままだった。
ところで、冬の遊園地は、実はかなり寒い。
びゅうびゅう音をたてながら吹き抜けるこの北風を凌げるほど、目一杯に客が入っているわけでもない。
「何だよこれ」
祐一の台詞は困惑に満ちていた。首を傾げる名雪も恐らくは同じ思いだったのだろう。
「んなこと言ったってしょうがないだろ。俺が遅らせてるわけじゃあるまいし」
そして、ぶすくれた北川の横には、仏頂面の香里。
途轍もなく愉快な一日になりそうな予感をそれぞれに噛み締めながら、四人は入園ゲートに立ち尽くす。
十二月二十四日、朝。
振替休日でたまたま休みになったクリスマスイヴは、名雪の願いも虚しく、今にも泣き出しそうな曇天で始まった。それでも今のところは何も降ってはいないが、一週間も前からやたら沢山吊ってあったあのてるてる坊主でも、どうやらこのくらいが活躍の限界らしい。
見込みではもっとずっと混んでいる筈だったが、実際はせいぜい普段の休日並みがいいところだろう。不入りの理由ははっきりしていた。一昨日の土曜日から稼働している筈だった新しいアトラクションが遅れていたからだ。多分誰かが蹴ったのだろう、その旨を詫びる入口前の看板には足跡がいくつもいくつも描かれている。
「罰ゲームが必要かしらね」
香里の冷たい視線が北川を射抜いた。
「はぁ? なんでそんなの‥‥‥まさか、また俺じゃないだろうな?」
「北川くん以外に誰がいるっていうのよ」
「だからこれが遅れてるのは俺のせいじゃないって」
「いいのよ。だって、八つ当たりだもの」
朝食の次は昼食、くらいの当たり前さで、香里はしれっと言い放つ。
「香里、いくら何でもそれは酷いと思う」
「俺は別にどっちでもいいけどな。ツケ払わされるのが俺じゃなければ」
「相沢お前それはちょっと冷たくないのか? この理不尽な暴力に親友が直面してる時にだな」
「ああ、そうかもな。そこで俺からお前にひとつだけ、言ってやれることがあるとするならば、だが‥‥‥」
おもむろに祐一は、北川の両肩にぽんと手を置く。
一瞬の、静寂。
「‥‥‥頑張れ」
「それだけかおいっ!」
「で、名雪、何がいい?」
「私? んー、ソフトクリーム。イチゴがいいな」
「おいこの寒いのにソフトクリームか?」
「あら。遊園地のソフトクリームはおいしいのよ? 理由はわからないけど。そうね、あたしもソフトクリームにするわ。バニラね」
当然のように話は続いていく。もうモノの選定に話が移っているらしい。
「多数派に賛同しとくか。北川、俺もな」
「というわけで三人分、北川くんの奢りね」
「へいへい。ソフトクリームな。相沢、持ち切れないからちょっと手伝ってくれ」
「ああ」
どさくさ紛れに看板の足跡をひとつ増やしつつ、北川は祐一を連れて近くのスタンドへ向かう。
「こういう時に香里に声かければいいんじゃねーか?」
小声で囁く祐一に、
「いきなりそれじゃ狙ってるみたいだろ?」
別に香里や名雪の側にいるわけでもないのに、つい北川も小声で応じる。
「みたいって、だって狙ってんだろ?」
「まあそうだけど‥‥‥ああもう、わっかんねえ奴だなお前も」
北川はくしゃくしゃと髪を掻き回した。
「それはそうと、わかってるんだろうな相沢?」
「何が?」
「あのな‥‥‥この後だよ。前に電話でも言ったけど、適当なとこで消えるから、水瀬のことはよろしくな」
「まあ名雪のことは心配しなくていいけど、お前本当に大丈夫なのか?」
「何か?」
「どーせ何かしらは失敗するんだろうな、と思うとな」
「こんのやろー‥‥‥まあ、いいか。取り敢えず相沢」
「あ?」
「ソフトクリームだが、お前の分と水瀬の分は頼む」
「‥‥‥だから、香里じゃなくて俺、か」
あーあ。ちゃっかりしてやがるな。
舌打ちしながら、祐一は財布を取り出した。
「まあそういうわけだから新しいのは開業前だが、その他のは全部やってるからな。どれから行く?」
巨大な園内マップの前に四人は立っている。大概は、新アトラクションがなくても他の目当てはあるもので、その園内マップの建つ入口近辺など、朝いちばんの人波はもうとっくに通過した後だ。
「そうね‥‥‥少し混んでるとこがいいわ。あ、あのお化け屋敷なんかいいかもね」
香里の言葉は何だかワケのわからない注文のように思えるかも知れないが、この冬の最中、集まった途端からソフトクリームなんか舐めている四人組である。
つまり、寒いのだ。
「並んだら並んだで寒いぞ?」
「お化け屋敷は屋内型だから、屋根も壁もあるのよ」
「‥‥‥賛成」
現在地点はまだ入口近辺だから、目指す「お化け屋敷」は割と遠い位置にある。簡単に道順だけ確認して、四人は園内マップを離れた。
「祐一、やっぱり降りそうだね」
「この寒さじゃ、降ったら雪だろうな」
「うーん‥‥‥雪なんか降ったら、ジェットコースターとかはみんな中止になっちゃうよね?」
「それはわからんが、そうかも知れないな」
「そういうの、早めに回った方がよくないかな?」
「そう思ってる奴はいっぱいいるだろうから、もう混んでるんじゃないか?」
「うー‥‥‥」
「逆にだ。だから、いつでも入れるお化け屋敷なんかは空いてるかも知れないだろ。ほら、もう本命には振られてるんだから」
「俺のせいじゃねーぞ」
「あら北川くん、別にそんな話はしてないわよ。もう罰ゲームも済んでるんだし」
「ぐっ‥‥‥」
「いいじゃない、散歩しに来たと思えば。あたしは本当に散歩のつもりで来てるし。これでも結構楽しいわよ?」
もしかしたら、そういうのも香里の優しいところなのかも知れないな。ふと祐一はそんなことを思う。
「でも空いてたら寒いよ?」
「全員が全員そう思うわけじゃねーよ。俺みたいにひねくれてるのも中にはいるだろ? 基本的に今日は、どこ行ったって、ガラガラで待ち時間なしなんてことはないって。だから後は、比較の問題だな」
「てるてる坊主、二十個じゃ足りなかったかな」
「に‥‥‥二十個って水瀬」
一瞬、北川の足が止まる。
「うん。一週間前からずっと吊るしてあったんだよ」
「それは名雪、お願いしすぎなんじゃないの? 普通はそんなにいくつも作るものじゃないでしょ」
何だか、自分の娘でも見るような目で、香里が名雪を見つめていた。
「まあそう言うなって。名雪、今日のこと結構楽しみにしてたんだから」
祐一のフォローに名雪はこくんと頷く。
「それに一応、今日ってクリスマスイヴだろ? 雪が降ったらなんかロマンティックな感じもするかも知れないし」
「あのね相沢くん。この時期になればそろそろ雪は普通に降ってるのよ、こっちでは。だから‥‥‥やめとく」
「どうした?」
「何でもないわ。ただちょっと、相沢くんの考えに乗っておいた方が、幸せに今日を過ごせそうな気がしただけよ」
泣き出しそうな空の下を、四人はゆっくり歩いていく。
お化け屋敷といっても、別にその屋敷の中を好きに歩き回れるわけではない。ライドと呼ばれる乗り物があって、何人かが一緒になってそれに乗り込み、後はそのライドが勝手にスタートからゴールまで走る。遊園地にはよくあるタイプのアトラクションだ。
列の最後尾に並ぶ。見込み通り、列は短い。
「十五分待ちだってさ」
「意外と短いね」
「ひねくれ者があんまりいなかったんだろ。なあ相沢」
「言ってろよ」
言っている間にも、列はゆっくりとそのお化け屋敷に呑み込まれていく。もしかしたら十五分もかからないかも知れない。
「ところで北川くん、このお化け屋敷って確かふたりで一組よね?」
今思い出したかのように香里が切り出した。
「え? ああ、そうだけど?」
「四人いるんだけど、どうするの?」
「ああ、そういえばそうだね」
四人だという事実に今気づいたように名雪が呟いた。
ま、名雪は確かに、あんまり考えてなさそうだしな。‥‥‥ひとり明後日の方角を見つめつつ、祐一はそんなことを思った。
「普通に分けりゃいいだろ。取り敢えず俺とか」
「名雪」
喋り始めた北川の言葉を祐一が遮った。俺と香里、と言おうとしていたらしい北川は思わず舌を噛む。
「お、ってっ‥‥‥は?」
「で、香里と俺。何か問題でも?」
あたかもそれが当然のように言いきられては、北川としても嫌だとは言いづらい。
「いや、ないが」
大体こういうことには、後から異議は出ないことになっている。最初に誰かが何かを言えば、そういう風になるものだ。祐一はよく知っていた。
北川と名雪。祐一と香里。
四人は改めて二列を作り直した。入口はもうすぐだ。
視覚的にも聴覚的にもいろいろと趣向が凝らされたお化け屋敷の中を、壊れかけたトロッコのようなライドが進んでいく。
しかし、例えば今、突如目の前にだらんと垂れ下がってきたミイラ男の包帯も、そのライドに乗るふたりを脅かすには至らない。すぐ前のライドは割と大騒ぎしているようで、時々後ろまでその声が聞こえたりもするくらいだから、別にこのアトラクションが「恐くない」わけではないのだろうが‥‥‥
そもそも彼らは、お化け屋敷の中にいながら、最初からお化けなどまるで問題にしていなかった。
祐一と香里。
このふたりは、そういうふたりなのだった。
「ねえ。この後のことだけど‥‥‥相沢くん、名雪とふたりっきりになりたくない?」
ここがお化け屋敷であることとは全然関係ない理由で上目づかいに天井を睨みながら、香里はそんなことを言いづらそうに言う。
「いきなりだな。なんで急にそんなこと言い出すんだ?」
「あたしが聞いてるのよ」
「じゃあ先に全部言っといてやるが、俺たちのことは心配しなくていいぞ。どうせ俺たちは家に帰りゃふたりになれるチャンスなんていくらでもあるんだから、それが遊園地じゃなくても全然困らない」
「‥‥‥なるほど、そうね。迂闊だったわ」
「同じことを、この間北川にも言った」
驚いたように香里は祐一を見つめたが、それも別に、すぐ脇の牢獄で突然悲鳴が上がったからではない。
「え‥‥‥えっと、その、北川くんが何か企んでると思うんだけど」
「それも唐突だな」
「とぼけないで。相沢くんは何か知ってるんでしょ? ‥‥‥って聞いて、はいそうです、なんて相沢くんが言うわけないわよね」
「まあ、俺もそれはあんまり返事したくないから、そう思ってくれると助かるが」
自分の足に頬杖を突いてそっぽを向く。その目の前に、西洋風の頑丈そうな鎧の置物が倒れかかっても、香里は眉ひとつ動かさない。
「だからお願いなんだけど、北川くんのこと、放っておいてあげて欲しいの」
「その、放っておく、っていうのは?」
「言葉通りよ。多分あたし、例えば北川くんと一緒に迷子になったりするんじゃないかって気がする。でもそうなったら、相沢くんはともかく、名雪はきっと必死であたしたちを探そうとするだろうから」
「まあ、いいけどな。じゃあついでに聞いておくけど」
「その通りよ」
「あのな。俺が何聞くかわかってて答えてるか?」
「香里の方にも、その企みに乗るつもりがある、と思ってていいんだな。違う?」
「オッケー。わかった、名雪は俺に任せろ。‥‥‥まあ、意外っちゃ意外だが」
「何とでも言えばいいわ。あたしはただ」
「ただ?」
「ただ‥‥‥ただちょっと‥‥‥そうね、名雪と相沢くんに当てられただけ。それだけよ」
ちょうど出口の明かりが見えかけた頃、祐一と香里の内緒話はごく平穏に終わった。
何となく、四人同時に、相変わらずどんよりと曇ったままの空を見上げた。
「あれ? ねえ、さっきより明るくなった?」
「騙されてる騙されてる」
呟く名雪の言葉を、三人は言下に否定した。実際それは本当に名雪が騙されているだけで‥‥‥要は、お化け屋敷はもっと暗かった、というだけのことだ。お化け屋敷だったんだから当たり前ではあるが。
何も降っていないのにこんなに遊園地日和でない日も珍しいし、問題の新アトラクションはまだ始まっていないしで、遊園地としては踏んだり蹴ったりな筈なのに、それでも、昼前くらいになると意外に客が増えている。
まあ、これくらい入ってる方が、迷子にはなりやすいかも知れないよな。祐一は考える。
それにしても。
大人が子供を連れてくれば、普通は迷子にならないようにと教えるものだ。友達同士で遊園地まで来る目的が迷子になるためだなんて話も聞いたことがない。
恋は盲目って言うけど‥‥‥あんまり盲目なのも考えもんだよなあ。
「違うよ祐一」
突然名雪が祐一のコートの袖を引っ張った。
本当はそんなことを口に出すつもりはなかったのか、意外そうに顔を上げた祐一の耳元へ、ちょっと大人びた顔の名雪が囁く。
「何も見えなくなっちゃうくらい誰かのこと好きになれたら、それはきっと、しあわせなことだよ」
「聞こえてたのか?」
問いには答えず、微笑みだけ残して名雪はくるっと祐一に背中を向ける。
「北川くん、次はあのジェットコースターにしようよ」
「あ? ああ、別にいいけど」
「ところで、ジェットコースターも一列はふたりだけど、どうするの?」
「全員縦に一列ってどうだ?」
また祐一が余計な口を挟む。この辺になるともう、やりかた自体はほとんど嫌がらせに近い。
「却下ね」
「却下だな」
「却下だよ」
案の定、三人はその案を言下に切って捨てた。
「こっちでとっとと決めちゃいましょ。相沢くんに口を出させちゃダメよ。えーと、あたしと名雪」
「へ?」
縦に一列と祐一が言った時よりも北川は驚いていた。
「何か問題が?」
ジト目で北川を睨む香里。
「いや‥‥‥あー、別に」
北川はあっさり引っ込んでしまう。誰にもわからないように、祐一は溜め息をついた。
「そう? じゃあそういうことで。行くわよ」
ひとりでさっさと宣言すると、香里だけすたすた先行してしまう。名雪が小走りに追いかけていく。
でもまあ、すぐ戻ってくるだろう。
あの顔の赤みが引いた頃にでも。
「いてっ! 何すんだよ相沢っ」
どうも煮えきらない北川の後頭部にびしっとチョップを入れながら、祐一は香里と名雪の背中を見つめる。
それは、フレームが木造のジェットコースターとしては日本最大級、とかいう代物らしい。フレームが金属でできたものと違って基本的には普通の上下動しかなく、例えばもうお目見えしていた筈の「人間をぶら下げるタイプのジェットコースター」みたいなものと比べれば随分と地味ではあるのだが‥‥‥木でできている、という事実自体のスリリングさが受けるのか、開園以来、根強い人気を誇っている。
そのコースターのプラットホームから地上へ降りる階段の上に、四人の姿があった。
「ああ、楽しかったよ」
「名雪、この間コーヒーカップ好きとか言ってたけど」
「ん?」
「コーヒーカップに乗ったら全力でハンドルぐるぐる回すタイプだろ?」
「え? あれってみんな、いっしょうけんめい回すのが楽しいんじゃないの?」
本気で不思議そうな顔をしている名雪の頭を香里がくしゃっと撫でた。
「ま、名雪らしいといえば名雪らしいわね」
「そうかもな‥‥‥って、もうダウンか北川?」
「正直‥‥‥あんな登って降りるだけのシロモノが、まさか‥‥‥こんなにハードだとは思わなかった‥‥‥」
北川ひとりが青息吐息だ。
「まさか北川が、登って降りるだけのシロモノにこんなに弱いとは知らなかった、に一票」
「私もだよ」
「あたしも、かしらね」
三対一だった。‥‥‥がっくりと項垂れた北川が、不意に自分の首筋に手をやる。
「今度はどうした?」
「なあ相沢、傘持ってきたか?」
項垂れたまま、北川はそんなことを訊ねた。
「いや。名雪は?」
「持ってきたよ。折り畳みだけど。香里は?」
「持ってるわよ。私も折り畳みだけど。北川くんは?」
「俺も持ってない。っていうか、今、一滴落ちてきた気がするんだが」
「え‥‥‥」
しかし他の三人は特に何も感じなかった。見上げた空も、泣き出しそうだが、本格的に泣き出してはいない。
気のせいだろ、と祐一が言おうとしたところで、それは起こった。
「わっ。とと、あれ、祐一」
「きゃっ」
階段の途中で立ち止まってしまった四人を、ちょっとした人の波が追い越そうとしていた。先に流されかけた名雪と香里が懸命に手を振っている。
「香里っ!」
青息吐息だった自分のことはもう忘れたのか、それとも、それどころではなかったのか。慌ててその波を追いかけようとする北川の背中を、祐一は敢えて押す。
次に目指す場所が全員同じである筈はない。だからどうせ、この階段をすべて降りきったところで、あの人波はばらけて消える。いくら名雪や香里が女の子だとはいっても、いつまでも流されっ放しなわけもない。迷子になりたくないなら、まずは落ち着いて、高い場所からずっと目で追っていればいい。
だけど。祐一は考える。
だけど、迷子になりたいなら、これは千載一遇のチャンスだ。北川はこの際、とにかく香里を捕まえて、一緒にどこかへ流されてしまった方がいい。後は追いかけさえしなければ、作戦は成功したも同然だろう。
北川が誰かの手を捕まえたところまで確認して、後は人波のいちばん後ろをゆっくりとついて歩いていた祐一は、階段の手摺りが切れたところで、待っていた名雪と香里に合流した。
「ちょっと驚いちゃったよ」
「そうね。後ろにあんなに人がいるとは思わなかったわ」
「まあ、驚いたくらいで済んでよかったが、って、あれ?」
そこにいたのは間違いなく、名雪と、香里だった。
「なんで香里がいるんだ?」
「意味不明だよ祐一。それよりも、北川くんは?」
じゃあさっき、北川が手を引いて走っていったのは、あの女の子は一体誰だったんだ?
「あんの馬鹿、まさか間違えやがったのか?」
吐き捨てるように小さく呟いた祐一の言葉に、苦虫を纏めて噛みつぶしたような悲壮な顔で頭を抱えた香里は、しかし、追いかけて行こうとはしなかった。
祐一もそれ以上何かを言うことはしない。
「ふたりとも意味不明だよ‥‥‥」
北川が消えたと思しき方角へ、名雪だけが、気づかわしげな視線を向けていた。
中途半端に何割かだけ魂が抜けたような香里は、レストランでランチを食べている間もずっと落ち着かない様子で、そわそわとあたりを見回してはこっそり溜め息をついていた。
「心配だね」
「心配なんてしてないわよ。何よあんな馬鹿」
「‥‥‥心配だね」
わかっているのかいないのか、心配だね、をただ繰り返す名雪に、祐一と香里は苦笑するしかない。
迷子になったらどうしようとか、そういう打ち合わせは全然していなかったことを、名雪だけは真剣に後悔していた。迷子になる予定なんてなかったからだ‥‥‥と思っていたのも名雪だけで、残る三人はその真意を知っている。打ち合わせなんかして、もし本当に迷子になったら、打ち合わせ通りに合流するための努力をしなければいけなくなるからだ。実は、その三人のうちふたりは迷子になったまま消えてしまいたかったのだから、そんな約束はない方が都合がよかった。
名雪の溜め息だけは、目論見が外れてしまった溜め息とは違っていた。
名雪に悪いことしたかな。
そう思ったのは、祐一だけでも香里だけでもなかった。
残る三人がランチを食べているレストランのちょうど真裏に位置するベンチ。‥‥‥同じ頃、ひとりはぐれてしまった北川がそんなところで途方に暮れていることなど、勿論、三人には知る由もない。
強引に連れ出してしまった女の子に謝り倒すこと数十分、その間に香里たちがどこへ行ったかなどわかる筈もない。その女の子にひっぱたかれた頬は、こんな冷たい風に晒されていたのに、まだ微かな熱を持っていた。
「ついてないな」
冷めかけたホットコーヒーを啜りながら、誰にともなく北川は呟く。空になった紙コップを足元に置いて、背凭れ代わりのレストランの壁に背中を預ける。その壁の向こう側に香里の背中があったことになど、北川が気づく筈もなかった。
「‥‥‥本当、ついてないな」
結局、日中ずっと太陽は雲に隠れたままで、だから時計を見ないと昼間なのか夕方なのかもよくわからない。
その時計はもうそろそろ日が暮れることを教えている。
三人は三人なりに北川を探してはいたが、広大な敷地から手掛かりなしで人間ひとりを探し出そうというのも、実際、無理な話だ。
ふらふらと歩いていると、三人はいつの間にか入口近辺まで戻っていた。入口のちょうど正面に、てっぺんにサンタの赤い帽子を被った大きな樹が立っている。
そろそろ諦めようか。
言おうとして、祐一は、見つけた。樹の根元に寄りかかって入口を眺めているあの影が、多分、北川だ。
名雪にわからないように香里のコートの裾を引く。振り向いた香里に目だけで合図する。頷いた香里は、
「ちょっと」
とだけ言って、ぱたぱたとその場を離れていった。
「あれ、香里どうしたの?」
「ああ。名雪には内緒にしてたんだが、実はちょっと前に、北川みたいなのを見かけたんだ。香里には居た場所教えといたから、北川のとこへでも行ったんだろう」
「え? いたの?」
途端に名雪はきょろきょろとあたりを見回し始める。
「いや、だからって今俺たちのまわりにいるわけじゃないぞ、言っとくけど」
嘘だった。
後で全部説明するから、今だけはこれで勘弁してくれ。心の中で祐一は名雪に謝った。
「でも、それじゃ早く合流しないと」
「いいよ。放っておいてやろう」
「‥‥‥えええ?」
こういう時はまるで勘の利かない名雪の背中を押して、祐一は香里が向かった樹からどんどん離れていく。
空はもう、今降っていないのが不思議、なくらいの雲行きだった。
イルミネーションがきらきらと瞬く巨大なクリスマスツリーの足元で、北川は相変わらず、家路を急ぐ人波を見送っている。ゲートのすぐこちら側に設えられたショッピングモールから真新しい傘を持って出てくる人がちらほらと目につく。今降っていないのが不思議、だと思っているのは、きっと北川ひとりではないのだろう。
香里のつもりで誰だかわからない女の子の手を引っ張り、闇雲に香里を探し回った揚げ句が、もう夕方。
このまま連中に‥‥‥特に香里に会えなかったら、ここまでの俺の苦労は一体何だったんだ。
自分ひとりで黄昏る理由には事欠かない北川だった。
「何やってんだろうな、俺」
北川は独り言のつもりだった。
返答など誰にも期待していなかった。
「まったくね。馬鹿なんじゃないの?」
しかし、返答はあった。
「ああ、流石に今日ばっかりは否定する気に、って、うわあああっ」
言いながら、慌てて声のした方へ振り向く‥‥‥と、何故か振り向いた頬の高さにあった熱い紅茶の缶に向かって、慌てた勢いのまま、北川の顔は突っ込んで行くことになる。
「か‥‥‥っ! ‥‥‥っ! ‥‥‥っ!」
何か言おうとしているらしいがまるで言葉になっていない。あまりに唐突にいろいろ起こりすぎて、パニックに陥っているようだった。
「何をわたわたやっているのよ。余計に馬鹿まるだしみたいじゃない。ほら、深呼吸」
「‥‥‥か、かっ、香里か?」
「あら、お気に召さなかったかしら。名雪の方がいい?」
めんどくさそうに呟きながらその背中をさする手の意外な暖かさに、北川はようやく落ち着きを取り戻す。
「あ、ありがと。もういい。えっと、相沢は?」
「名雪とどっか行っちゃったわ」
「行っちゃったあ?」
「途中で消えちゃったままこんな遅くまで合流もできなかった人に、そういう文句を言える義理があるわけ?」
「ぐっ‥‥‥」
「誰だかわかんない女の子の手掴んで消えちゃうし。何考えてるわけ、一体? はい」
手渡された紅茶の缶の熱さに、北川は顔を顰めた。
「香里、火傷とかしてないか? めっちゃ熱いぞこの缶」
「平気」
素っ気なく香里は言い捨てる。
「えっと、怒ってるのか?」
「怒ってないわよ。なんで私が怒らなきゃいけないのよ」
「ごめん」
「だから怒ってなんかいないって言ってるでしょ? 人の話は聞きなさい」
誰がどう見ても、怒っている、と言うだろう。香里自身にもそれはわかっていた。ただ、こんなに腹が立つ理由になんて気づきたくないだけで。
横を向いた香里の頬に、不意に冷たい何かが触れた。
「え?」
「あ‥‥‥」
空を見上げたまま、凍ったようにふたりは立ち尽くす。
とうとう雪が降り始めた。それは、今まで泣かずに我慢してきた分を取り戻そうとでもしているかのように、見る間に勢いを増していく。
背負っていた小さな鞄から、香里が傘を取り出した。
またひとつ、路上に傘の花が開いた。
「入ったら?」
「え?」
「もう‥‥‥っ!」
空いている香里の腕が北川を捕らえた。有無を言わせない強引さで、北川を傘の下に引っ張り込む。
「あの時連れてった女の子と、何するつもりだったの?」
「だからあれは間違いで、本当は香里を」
そこで北川は、しまった、という顔をした。
「じゃあ、あたしに何するつもりだったわけ?」
「それは‥‥‥」
言い淀んだ北川の冷たい手をそっと握りながら、
「洗いざらい教えてもらうわよ。覚悟することね」
香里は、鮮やかに微笑んでみせた。
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