「舞、これからどうするの?」
「帰って虎徹さんを持ってくる」
「そうじゃなくって」
苦笑しながら、さっきホームルームで渡されたばかりの進路指導の用紙をひらひら振ってみせる佐祐理。
「高校。卒業したら、どうするの?」
首を傾げる舞。
「わからない」
「でも、まだ何も提出してないの、きっと舞くらいだよ。そろそろ何か決めないと、先生が心配するよ?」
「ん」
まるで気のない返事が戻る。
しょうがないなあと呟く代わりに、佐祐理は小さく息を吐いた。
「そういえば舞、さっき虎徹さんを持ってくるって言ってたけど、魔物さんはまだ学校にいるの?」
「ん」
その日の帰り道。
当たり前のように頷いてみせる舞を、佐祐理は心配そうに見つめる。
校舎のある場所には昔から魔物が棲みついていて、その魔物と舞はもう七年も前からずっと戦い続けている。佐祐理が蔵の奥から持ち出して舞に譲った「虎徹」と銘打たれた真剣をもってしても、未だに完全な勝利を得るには至っていないのだという。
それが本当か嘘か、本当のところは佐祐理にはよくわからない。
ただ実際、舞の身体は生傷が絶えなかったし、夜中のうちに硝子や黒板が壊されているのが発見されることも時折あった。意味もなく自分を傷つけたり、無駄に硝子を割ったりしても仕方がないから、それが所謂「魔物」かどうかはともかく、多分本当に何かと戦ってはいるのだろう、と思う。
大体、舞がそうして夜の校舎に忍び込むことは学校には内緒だったから、怪我をしたからといって保健室に駆け込むわけにもいかなくて、結局、傷の手当てはいつも佐祐理がしているのだ‥‥‥もしもその、戦っている、ということが嘘だったとして、では例えば、背中いっぱいにあんな大きな爪で引っ掻かれたような傷を作るためには、渡した真剣や校舎内の何かをどんな風に応用すればいいのかなど、佐祐理には想像もつかない。
「早く戦わなくてもいいようになればいいのにね」
「多分、もうじき終わる」
「本当?」
「‥‥‥多分」
自信なさげな答え。
「あんまり危ないことしちゃダメだよ?」
真剣を振り回すことや、真剣を振り回しても勝てないような相手と戦うことが、危ないことでない筈もない。それでも佐祐理はそう声をかけずにはいられない。
「大丈夫。私は魔物を狩る者だから」
さっきよりは自信ありそうな様子で、舞が頷く。
「それで、佐祐理はどうしたいのかな?」
「はい。大学に進学させていただきたいと思っています、お父様」
流暢な受け答え。続けて二、三の言葉を交わす。
そのうち父が頷いたのは、今のところ見込み違いはないようだから、であろう。
話が終わったことを確認してから、会釈のようなことをして、佐祐理も目の前の皿に注意を戻す。寒々しい食堂にまた沈黙が満ちる。
夕食時のがらんとした広い食堂には、ずっと前から佐祐理と父のふたりしかいない。かつてここに家庭的な団欒があった、という記憶もついぞない。
佐祐理の弟、つまり倉田家長男を幼い時分に失って以来、父は心に空いた穴を仕事に没頭することで埋め合わせるようになっていった。そのせいもあって家はどんどん立派になったし、経済的には恵まれた環境にあったが、それは結局それだけのことだ、と佐祐理は思う。
とはいえそれは、逃げ込む先が家事だった佐祐理にしても同じことだった。佐祐理の料理が上手であることを心から喜んでくれるのは、今テーブルの向かい側にいる父ではない。
舞と一緒に食べるお弁当のためだから、どんな早起きでもしよう、と思う。それは喜んでもらえることが嬉しい自分のためでもある。
そうして毎日、佐祐理が朝早くから巨大な折詰を用意していることを父は知っている。それに対して何も言わないのは、多分、舞が女の子だからだ。
自分の思惑の範囲を逸脱しない限りにおいては、父は至って寛大な人物であった。
暖かみのない食卓を佐祐理が後にした頃、自宅から虎徹さんを持ち出した舞は再び校舎の中にいた。
白鞘の先を杖のようにリノリウムの床に突く。一度だけ、かん、と乾いた音が響く。
その他には物音すらもたてず、教室を満たす闇とひとつになって、魔物の到来をひたすら待つ。
戯れに羊さんを数えてみたが、千匹くらいのところで飽きた。壁に掛けられた時計の秒針がかちかちと小さく時を刻む。千回くらいはその音も数えてみたが、それにもそのうち飽きてしまった。
感触を確かめるように、手元の白鞘に指を添わせる。
虎徹さん。
それは本当に本物の真剣で、しかも贋作ばかりが幅を利かせる虎徹の中では極めて珍しい真作で、つまりは大変な業物なのだが、舞にしてみれば、そんな些細なことは別にどうでもよかった。
それは、佐祐理がくれた、魔物に勝つための力。
それ以外の何かである必要は特にない。
「佐祐理」
微かに声が漏れた。
困った顔の佐祐理が遠くで笑っている気がする。
こんなことは‥‥‥魔物と戦う、などということは早く終わらせてしまわなければいけなかった。
かちり。鞘から刀身を抜く。
月光がかたちづくる刃のような清冽な残像が闇に突き刺さって消える。
切っ先まで抜いた刀を、無造作に、舞は右脇へ振り降ろした。確かに白刃はそこに現れようとしていた何かを捉えかけたが、しかし、捉えかけただけだった。
舌打ちもそこそこに、舞は視線を巡らせた。
宵闇の中に、闇よりもなお冥く、わだかまる何かが見える。それを追って舞は走る。
駆け出した背中の後ろで鞘が転がる音が響いた。
手の甲でこしこしと瞼のあたりを擦りながら、
「昨日もだめだった」
通学途中で合流するなり、おはようよりも先に舞は報告する。
「あ、あははー」
言いたいだけ言ってくるりと踵を返し、しきりに欠伸を噛み殺しながら少しだけ先をゆく舞の背中を見つめて、それから、佐祐理は空に目をやった。
翌日もいい天気だった。五月の陽差しは、例によって仕留め損ねた舞にも優しい。
「‥‥‥おはよう、舞」
成り行きで飛ばしてしまった朝の挨拶を取り敢えず自分だけ済ませると、少し遠くなった舞の背中に追いつくように早足で歩く。
昨夜も遅くまで生命を張った戦いを繰り広げていた、ようにはとても思えない、「泰然自若」の見本のような舞の背中。
学校で起こるほとんどのことには大体そんな調子で、入学以来の二年あまりを、別に一生懸命勉強するでも部活に熱中するでもなく‥‥‥しばしば真夜中や休日にも校舎に出没していた事が発覚し、それが元で何度か問題を起こしたりはしたが、それを除けば、まるで「高校が描かれた書き割り」の中に校舎と一緒に描かれた絵か何かのように、舞はひたすら淡々と「泰然自若」の見本のようであることに日々を費やし、それ以外のことはほとんど何もしてこなかった。
大体、舞が何故その高校に入学したのかといえば。
曰く、そこに魔物がいるから。
‥‥‥このまま放っておいて、今年のうちに魔物との戦いに決着がつかなかったら、卒業しない、くらいのことは言い出しかねない。そしてそれは、舞についてだけはあながち笑い話でもなかった。
成績が芳しくないことに対しても一貫して泰然とした態度をとり続けてきた舞の通知表は、そろそろそれなりに頑張らないことには留年させられてしまっても文句が言えないような惨状を呈している。いいか悪いかはさて置き、「卒業しない」ことも可能ではあるのだ。
仮に舞が卒業できなかったとしても、だからといって佐祐理が一緒に卒業を見合わせるわけにもいかない。そして、卒業できなかった舞は‥‥‥来年もきっと今と同じだろう。佐祐理がいないことの他には特に何が変わるでもなく、泰然とそこにいるに違いない。
そんな風にして舞は、いつもひとりぼっちの戦場にいた。あの時、現れた野良犬に手を齧らせている舞をもしも佐祐理が放っておいたなら、今でも舞はあんな風にひとりぼっちでいるのかも知れなかった。
だが。
羨ましがられることを舞が喜ぶかどうかはわからないが、舞のようであることもそれはそれで羨ましいと‥‥‥前を歩く舞の背中を眺めて、そんな風にも佐祐理は思う。
取り敢えず佐祐理の行く末は決まっている。
高校を卒業したら大学へ進学して、その大学も卒業したら、多分、父の経営する会社に入ることになるだろう。そしてそのうち、例えばどこかの社長のご子息との縁談が持ち上がる。
未来には無限の可能性がある、とかいう言葉を絵空事だと感じる程度には、佐祐理は自分の立場を心得ているつもりだった。
だからこそ、舞を羨ましく思うのかも知れなかった。
自分の行く末を自分で決められること。
ただ、自分の足で立って歩くこと。
その他には何も、佐祐理は望んでなどいない。
そして、舞はそうして生きている。様々な不都合も社会の無理解も障壁として存在はするのだろうが、それでも、舞はいつだって舞だ。
「‥‥‥佐祐理、平気?」
いつにも増して表情のよくわからない舞の瞳が、また溜め息を吐く佐祐理を気遣わしげに見つめていた。
「あ、うん。平気だよ」
「よかった。それと」
急に向き直った舞が、ぺこり、とお辞儀をした。
「おはよう、佐祐理」
提出するまで帰ってはいけませんと言い残して担任は職員室へ戻り、放課後の教室には舞と佐祐理しかいなくなった。
舞の机には、所在なげに転がされた筆入れと、相変わらず名前の欄にさえ何も書き込まれていない、まっさらなままの進路指導の用紙がある。
「一応何かは書いてないと、帰れなくなっちゃうよ?」
「どうせ帰ってもすぐに戻ってくる」
当たり前のように舞は言うが、
「でも帰れないと、虎徹さん持って来れないでしょ?」
「それは困る」
そう言われては仕方がないのだろう。年季の入った筆入れを渋々開ける。
取り出したシャーペンで、一見して筆圧が強いとわかる濃さで名前を書き込んで。
しかし。
「‥‥‥わからない」
そう呟いて早速シャーペンを置いてしまう。まだ名前しか書いていない。
「んー。将来やりたいお仕事とか、ないの?」
「魔物を狩る者」
「それは今でもそうでしょ。その他は?」
しばらくじっと考え込んで。
「‥‥‥魔物を狩る者」
どうも本当に、その他に何も思いつかないないらしい。あははーと力なく笑いながら佐祐理は頬を掻いた。
「それじゃ舞、この学校にいる魔物さんを倒したら、その後はどうするの?」
少し首を傾げたまま彫像のように動かない舞や、舞の向かいに座っている佐祐理の影が、少しずつ、長く伸び始めていた。
窓の外が夕焼けの色に染まりかけていた。
気の早い蝉の声が外のどこかから聞こえた気がした。
「舞?」
「考えたことがない」
ぽつりと呟く。
「え?」
「このままずっと、魔物と戦っているんだと思ってた。それが終わると思ったことはなかったし、だから、倒した後のことも、今まで考えたことはなかった」
嘘でも冗談でもないことは、舞の顔を見れば佐祐理にはすぐにわかることだった。少なくとも舞自身は本気で、いつ殺されるかわからない相手と、ずっと生命のやりとりを続けるつもりでいる。
そこで佐祐理はふと、あることに思い当たる。
「それは‥‥‥これからもずっと戦っていても、舞は魔物さんに勝てない、っていうこと、かな?」
「多分、そうだと思う」
予想した通りの答えに肩を落とす。
「ダメだよ舞。そんなの、ダメだよ」
「でも私」
「お願い、忘れないで。舞に虎徹さんを渡したのは、舞がそうならないように、だよ?」
頷きたくて、でも頷こうとして失敗して、壊れた玩具のようにそんな動作を繰り返す舞の肩に、佐祐理の指がそっと触れる。
「その後のことが何もわからないのは、きっと何にでもなれるってことだよ。だから舞、負けないで。それで何もなくなっても、本当に何もなくなっちゃっても、佐祐理は一緒だから。ね?」
その指に自分の指を絡めて。
それでようやく、舞は頷いてみせることに成功する。
「佐祐理は?」
不意に、舞が尋ねた。
「ん。大学に行くよ。もう受ける大学も選んであるよ」
前にもどこかでそうしたような、流暢な答え。
だが。
「佐祐理」
頷く代わりに舞は、
「佐祐理は、どうしたい?」
「え‥‥‥っ」
もう一度、父と同じことを尋ねた。
「佐祐理、はこれから、大学へ行って」
「ん」
だが、言葉こそ同じだが、それは父親が佐祐理を収めた鳥籠の位置を確認する作業のようではなくて。
「それからその後は、多分、OLさんになって」
「ん」
何かひとつを口にする度、それでいいの、と佐祐理の内面に問いかける声がある。
「‥‥‥ええと、佐祐理、は」
それが無視できなくなって、とうとう、佐祐理は言い淀んだ。
そんな佐祐理をじっと見つめる舞の瞳に、言い淀んだ自分の内面を見抜かれてしまっているような気がして、佐祐理は息を呑む。
佐祐理の世界はそこではないと。
他の誰かがくれた世界の絵の話じゃなく、佐祐理の世界の話を聞かせて、と。
舞はそう言っている気がした。
‥‥‥本当は、そこまで考えていないかも知れない。いや多分考えていないだろう。だが、疑うことを思い出した佐祐理にとって、最早それはどちらでもいいことに過ぎなかった。
進路指導の用紙にどんなもっともらしいことが書けるか、なんて実際は大して重要なことではない。
もっともらしくそこに書き込めるような展望らしい展望など何ひとつなくても、舞はいつだって舞だ。例えば高校を卒業した途端に路頭に迷うようなことがあっても、いきなり就職して勝手のわからない職場に放り出されるようなことがあっても、あるいは本当に卒業できなかったとしても、恐らく舞は舞のままで、あるべき場所に泰然と立っているだろう。
そういうことの方が大切だと佐祐理は思う。
では自分はどうだろう。
人生の筋書きなんてとっくに決められていた筈で、それに沿うように今までを生きてきた筈で。
確かに、進路指導の用紙は一度の差し戻しもなく了承され、もうとっくに担任から進路指導を担当する教師の手に渡っている。
だが、それがどうしたというのだろう?
そんなことをいつまで続けたら、佐祐理は、佐祐理の世界のことを舞に話してあげられるのだろう?
「舞、あのね舞、佐祐理は」
「ん」
寄りかかった舞の胸に顔を埋めるようにして、
「何になるかなんて、何でもいいんです。本当は」
小さな声を絞り出す。
「佐祐理は‥‥‥佐祐理に、なりたいです‥‥‥」
生まれて初めてそれを告白した相手も。
「‥‥‥ん」
腕の中で震える肩を抱きしめてくれたのも。
佐祐理の父、ではなかった。
結局まだ名前しか書かれていない進路指導の用紙を半分に切って。
裏返した用紙の片方ずつに、佐祐理と舞のそれぞれが卒業するまでの目標、のようなことを書いて。
もちろんそれは、進路指導の用紙としてはもう使えないから、替わりの用紙を明日もらうことにして。
ふたりはそのまま校舎を抜け出した。
交わされた約束のために、もともと戦っていた舞だけでなく、今から佐祐理も、佐祐理なりの戦争に勝ち残らなければならない。それは舞がそうするような直接的な戦闘行為を意味するものではないが、勝つことの困難さは舞のそれと大差ないようにも思えた。
それでも。
担任に見つからないようにこっそりと校舎を抜け出したふたりは、確かに、笑っていたのだった。
「何だって?」
佐祐理の父は訊き返す。
「‥‥‥もう一度言ってごらん?」
努めて平静を装ってはいるが、内心憮然としているのは声でわかる。
「はい。大学へ進学したいのですが、志望先はこちらに変えたいと思っています」
高価そうな机に置いたパンフレットをこんこんと叩いて示す。数日前の夕食時に父が名を挙げ、佐祐理自身も同意していた大学よりも遥かに敷居が高い、所謂「名門校」のパンフレット。
「しかしそこは難しいだろう? いや、佐祐理が成績がいいのは知っているが、そんなに名の通った大学でなくても別に問題はないじゃないか」
「何の問題ですか?」
佐祐理も訊き返す。
「佐祐理、私はね、そんなところで佐祐理をつまずかせるわけにはいかないんだよ」
「何故ですか?」
「何故って」
経歴に傷をつけないように。
いずれ自分が引き合わせ、やがて佐祐理の夫となるのであろう未だ見ぬ誰か、よりも立派な学歴になってしまわないように。
‥‥‥言えない言葉の続きを急かされている気がして、父は我知らず、苦虫を噛み潰す。
「娘がつまずいて喜ぶ親がいるわけがないじゃないか」
「そうかも知れません」
いつかのように流暢な‥‥‥でも、いつかのような上辺の平穏さを置き忘れてしまったような受け答え。
「お父様の仰るようにしなかったから、余計につまずいたり転んだり、佐祐理はすると思います。もしかしたらずっと後でそのことを後悔するかも知れません」
「だったら」
そんな風にして、佐祐理の戦争が始まった。
「わがままを言ってごめんなさい」
小さく首を横に振りながら、父はこめかみを揉む。
「でも」
父の牙城は堅い。それはわかっていたことだ。
「誰かのためじゃなくて、佐祐理がそうしたいんです」
だが佐祐理は、もう諦めない、と決めている。
駆け出した背中の後ろで鞘が転がる音が響いた。もう今までに何度聞いたわからないくらい、繰り返し繰り返し響いてきた音。
同じような結末がまた同じように訪れるのであれば、舞は今夜も仕留め損ねる。そして明日の朝、佐祐理はまた困ったように笑うのだ。
もう繰り返さない。
今夜でおしまいにする。
舞の決意は固い。
いつもならそのまま見送ってしまったかも知れない魔物の後ろ姿に、今夜は必死で食い下がった。
全速で詰め寄った勢いを乗せて、消えかけた真っ黒い靄のようなそれの真ん中を白刃が貫き通す。しかしそれは何の手応えも残さず、靄のように拡散してしまう。
そのまま右へ薙いだ切っ先の動きを嘲笑うように、反対側にぼやけた像を結んだ黒い靄は、人の姿に似たかたちをとった。向かって左側、人でいえば右手に当たるのであろう位置から長い闇が伸びる。
剣、のつもりだろうか。
舞の胴を払うようにまっすぐに闇が襲いかかり、咄嗟に立てた虎徹さんと打ち合って火花を散らす。
その火花によって黒い靄の中に浮き彫りになった魔物の顔には、見覚えがあるような気がした。
「ゆういちくん」
呟いた自分の声が、他人の声のように耳に届いた。
恐らくはもう会うこともないであろう懐かしい名前を、まだ憶えていた、ということが舞は嬉しかった。
再び靄に沈んだ魔物の唇が笑うかたちに歪んだ。もしかしたら、舞につけ込む隙を見つけたことが嬉しかったのかも知れない。
そうだとしたら‥‥‥目論見は外れた。
魔物がその「ゆういちくん」自身でないことくらい、舞にはとっくにわかっている。今更、顔だけ真似されたくらいのことで、斬ることを躊躇いはしない。
だから次の瞬間には、笑うかたちに歪んだその顔は縦に両断されていた。
慌てたように拡散した闇色の靄は夜に紛れて消える。
‥‥‥取り逃がした。
また決着はつかなかった。
でも、次は勝てる。
初めて舞はそう確信する。
「強くなる。ゆういちくんに助けてもらわなくても、魔物に勝てるくらい」
小さく呟いて、白鞘が転がっている筈の教室へ戻る。
「それで、私が佐祐理を守る」
「昨日もだめだった」
「あ、あははー」
大体いつも通りのやりとりに、
「でも、昨日は勝てそうだった」
そんな風に、舞は言葉を続けた。
「へ?」
舞が有利だった話を聞くのは今度が初めてだ。
まだ佐祐理は知らないことだが、多分、魔物は取り返しのつかないミスを犯してしまったのだろう。余計なことを思い出させなければ、舞の決意はもう少し挫けやすいままであったかも知れない。
私が佐祐理を守る、というだけのことなら、今までだってずっと、舞はそう思ってやってきたのだから。
魔物に勝ったら、ゆういちくんのこと、ずっと昔のいろんなことを佐祐理に話そう。
舞はそう決めた。
‥‥‥何もなかった筈の「魔物さんを倒した後」が、舞の胸の中にひとつ芽吹いた。
「それで、佐祐理は?」
「んー。難しいよ」
大して難しいことでもなさそうに佐祐理は答える。
進展らしい進展はまだないが、いずれは押し切れるだろうと佐祐理は信じている。いや、是が非でも押し切らなければならない。それさえもできないようでは何も変えられない。
「でもきっと大丈夫だよ。試験も多分、推薦がとれると思うし‥‥‥だけど舞、試験は大丈夫?」
父を説得する話をしている時よりもよほど不安そうな顔をして、舞に訊き返す。
実は、下手をすれば卒業すら危うい舞は、無謀にも、佐祐理と同じ大学の入試を受けようとしていた。
単純な学力勝負では他のどの受験生が相手でもまったく歯が立たないであろうことは火を見るより明らかだ。だから今から勉強を頑張って、二年分以上のハンデを半年で埋め合わせようとか、そんな風に頑張るつもりは舞にも佐祐理にもない。
一芸一能入試。
その大学はたまたま、そういうかたちでも僅かながら学生を受け入れている。ただ、入学以来ずっと学年主席の座をキープしてきた佐祐理が必要とするシステムではないから、それがあるということに佐祐理が気づいたのは志望校を切り替えた後のことだった。
だから、そのために志望先を替えたわけではない。が、ともかくも、今の舞に直接大学生になれる可能性があるとすればそういうアクロバティックな方法しかないのも事実であり、そういう意味でもラッキーだった、と言って言えないことはなかった。
「大丈夫。虎徹さんがついてるから」
その虎徹さんを使って何をどうするから「大丈夫」なのかは佐祐理にはさっぱりわからないのだが、
「魔物と戦うことの方がよっぽど難しい」
舞がそう言うから、多分、そうなのだろう。
佐祐理はひとつ頷いて、欠伸を噛み殺しながら少しだけ前をゆく舞の背中を追う。
見上げた空は、その朝もよく晴れていた。
ふと立ち止まって、太陽に手を翳した佐祐理の方へ、舞は急に向き直って、
「ん? どうしたの、舞?」
「おはよう、佐祐理」
たった今思い出したように、ぺこりと頭を下げた。
「おはよう、舞」
丁寧にお辞儀した佐祐理が頭を上げるのと、遠くからチャイムの音が響いてきたのがほとんど同時で。
「舞、急がないと!」
「ん」
五月の陽差しは、慌てて駆け出した少女たちにも優しかった。
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