開いた玄関のすぐ先は台所だ。
そこに立って夕食を作っている佐祐理に向かっていきなり手に持ったビニール袋を突き出し、
「あ、おかえりなさい、舞」
帰ってくるなり。
「蟹」
ただいま、さえもすっ飛ばして、それだけを舞は言った。
「うわ。ズワイガニだねー」
袋の中身は大きな一杯のズワイガニだった。北海道の旅行客向けの店であっても、何千円も払わなければ買えないような代物であろう。
「どうしたのこれ? ‥‥‥あ、楊大人?」
楊大人とは、舞のバイト先である中国料理店「多宝酒家」のオーナーだ。
「仕事かと思ったけど、そうじゃなかった。今日は、蟹をもらっただけだった」
そうはいっても、世の中一般のことに関しては万事に不器用な舞は、別に店員業に従事しているわけではなかったのだが。
「‥‥‥でもお金は?」
「いいって言われた」
「いいのかなあ?」
佐祐理は少し首を傾げて、それから、何やら得心のいったような顔をして頷いた。
「まあ、せっかくだから、いただいておこうね。ええと、おっきいお鍋は‥‥‥っと」
ぱたぱたと動き回り始めた佐祐理を置いて、舞は居間に引っ込む。
「お待たせしましたー」
殻ごとボイルされて真っ赤に染まった蟹が、卓袱台の真ん中にどーんと置かれた。こんな乱入者さえなければ今日のメインディッシュであった筈の野菜炒めの皿は、追いやられた卓袱台の隅で、何やら肩身が狭そうにしているようにも見える。
早速、舞が長い脚に手を伸ばす。
根元からもぎ取った一本の脚は、ふたつの関節によって繋がれたみっつの大きな節からなる。いろいろと角度を変えて、手に取ったその脚を珍しそうに眺めてから、
「って舞、そのまま齧ったら固いよー」
佐祐理が注意する間もあらばこそ。
既に舞は、殻のついたままの脚に噛りついていた。しかもどうやら本当に殻まで噛み砕きながら食べているらしい。ごりごりと、固いものが潰されていく音が口の中から聞こえている。
「蟹さんの殻は食べないんだよ、舞」
言われて舞は口から脚を引き抜く。いちばん太い付け根から最初の関節の手前まで、身がないばかりでなく、既に殻も筋も残ってはいないのだった。
「どうやって食べるの?」
「ええと、こう」
舞と同じように根元から切り離した脚を、それぞれの関節のところでぱきっと折る。次に、添えてあった大きな鋏で、それぞれの殻の端を斜めに切り落とした。
「こんな風に端のところをちょっと切って、ここから身を引っ張り出して」
密度の高そうな、重そうな身の部分が、斜めに切られた脚の殻からすっと抜けてくる。
「ん。おいしい」
「‥‥‥わかった」
それに倣って、舞も脚の殻と再び格闘を始める。
ふたりとも無言のまま、しばらく時間が経った。
あらかた片づいてしまった蟹の殻が、さっきまで蟹の載っていた大皿に積み上げられている。
「蟹食べてると」
「ん?」
「みんな無口になっちゃうよねー」
佐祐理は笑う。
「ん。おいしかった」
舞も笑う。
「でも、初めて食べた」
「そうなの? ‥‥‥そっか。殻ごと食べちゃったもんね、少し」
「それはそれで、おいしかった」
苦笑いする。佐祐理にはちょっと真似できそうにない。
「でも」
「ん?」
「食べてる最中、何もお話しないのは、寂しい」
残念そうに舞は言う。
「んー、蟹食べる時ってみんなそんなだよ。殻があるから」
「そうなんだ」
「それなら、殻がなかったらお話もできるから、次があったら殻から身を外しちゃって、それからお料理しようね」
殻の山を見つめて舞は頷く。
「そういうのは、今日のよりもっと、嫌いじゃない」
‥‥‥蟹が登場したおかげで半分くらい残ってしまった野菜炒めは、ラップがかけられたことによってますます肩身が狭く見えるようになってしまっていた。
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