VIRUS[26601107]  


  

 昨夜の雨もすっかり上がって、風間神社は今日も朝から夏真っ盛りだった。
 いつものようにバイトの子たちの様子を見てまわっていた俺は、鳥居のそばで珍しいものを見かけた。
 竹箒を持ったまま舞奈がぽやーっとしていた‥‥‥いや、舞奈がぽやーっとしているのはまあ別に珍しくも何ともないが、何というか、全体的にはぽやーっとした雰囲気を醸しつつも、何故か目だけはきょろきょろと忙しそうに動かしている、という動作はいつにも増して珍妙だった。だからといって首や体がつられて動くわけでもないあたりがまた変だ。
「‥‥‥何やってるんだ?」
 話しかけてはみたが、案の定返答はなかった。それも別に珍しくはない。
 まあいいや、また雨粒あたりと何かお話でもしているんだろう。ひとりで納得して俺はその場を離れた。



 その晩。
 きしきしと、遠くの廊下が軋む音が聞こえた。俺は慌てて手に持っていた一升瓶に栓をする。
 もちろん隠すのだ。多香子に見つかるといろいろ喧しいし、京華だの凛だのにバレて口止めに中身そのものを要求されたりして結局ここで酔っ払われちゃったりするのも、それはそれで後々面倒そうだし。ってでも俺、実は一応この神社ではいちばん偉い人の筈なんだけどなあ‥‥‥それが何をびくびくしてるんだか。情けない宮司だな、俺って。
 ひとりで落ち込んだり立ち直ったりしている間にも、音はだんだん近づいているみたいだった。取り敢えず文机の下に一升瓶をごろんと転がし、最近は机の上に拡げっ放しの祝詞に目を落としつつ、音が遠ざかるのを静かに‥‥‥待っているんだけど、音は近づくばかりで一向に離れていく気配がなかった。さっさと一升瓶を隠しておいたのはどうやら正解だったらしい。
 障子に顔を向けないようにしながらも、いずれ障子に映るかも知れない影に注意を集中する。
 ‥‥‥それでも何分かはそうやってじっとしていたと思うが、この生殺しのような状況はいつまで待っても何の進展もしなかった。沈黙に堪えられなくなった俺は障子戸を開けて、そっと廊下を覗き見る。
 まず、こっちが音源だと俺が思っていた方向に人の気配はなかった。
 逆方向を見ようと振り返った俺と、
「こんばんは」
 誰もいない筈のそこにしゃがみ込んで俺を見つめていた舞奈の目が合った。
 刹那の、静寂。
「‥‥‥っ!!」
 すぐ間近で、ずがんっ、という重たい音が響いたことまでは憶えていたけど。
 どうやら、驚きのあまり飛び退ろうとして障子戸の角に後頭部を痛打したらしい俺は、不覚にも、そのまま気が遠くなっていく自分を引き留めておくことができなかった‥‥‥。



 後頭部のじんじんする痛み。その後頭部に触れている暖かい感覚。額に押し当てられた冷たい感触。口元にタオルを被せたような微妙な息苦しさ。意識が戻ったような気がする今でも、自分がどうなっているのかわからない。
 恐る恐る目を開けてみると、今度は俺をすぐ近くから見下ろしている舞奈の顔が、何故か逆さまに見えた。
「あ」
 舞奈が小さく声を漏らした。見た目ではわからないが、もしかしたらちょっと驚いたのかもしれない。
 痛む頭を振って起き上がろうとする俺を舞奈の小さい手が抑えた。そのまま、今までの位置へと頭が戻されていく‥‥‥膝枕。
「あれ‥‥‥舞奈‥‥‥俺‥‥‥?」
「さっきはごめんなさい。あんなに驚かれるなんて思いませんでした」
 言いながら‥‥‥そのままの至近距離からぺこりと頭を下げるから、舞奈の額は、今度は俺の額を直撃した。
「ぐあっ」
「‥‥‥あっ、あの、ごっごめんなさ」
 また頭を下げようとして、今度は衝突する寸前で思い止まってくれた。
 片手を俺の額に置いて、もう片方の手で自分の額をさすりながら、舞奈が恥ずかしそうにはにかむ。
「それより舞奈、もしかして俺に何か用があったんじゃないのか?」
 ずっと気になっていたことを聞いてみると。
「あ、はい。これです」
 言いながら舞奈は俺の口元を指差す。
 自分の口に手をやってみると、何故だか知らないが俺はマスクをかけていた。妙な息苦しさはこのマスクのせいだったらしい。
「これ‥‥‥何だこれ? 何でこんなもんが?」
「さっきインフルエンザさんが、去年はいまひとつだったから今年は頑張るぞって言ってました。最近宮司さんはちょっと疲れているみたいなので、インフルエンザさんがはりきってるのを見てたら何だか心配になって、だから探して持ってきました」
「イ‥‥‥インフルエンザさんってもしかして、ウイルスのインフルエンザさんか?」
「はい。流浪の香港A型と呼んでくれ、と言ってました」
 どうもそうすると、昼間きょろきょろしていたのは、あれはインフルエンザウイルスと話していたらしい。
 しかし今更こんな感想もないだろうが‥‥‥インフルエンザウイルスと会話する少女‥‥‥謎だ‥‥‥。
「だけどまだ夏だぞ? 普通そういうのって冬に流行るんじゃないのか?」
「流行ったから仲間がたくさんいると思うのは人間の勘違いで、もともと仲間がたくさんいるから流行らせることができて、流行らせることによって仲間はさらに増えられるんだ、って言ってました。そのために、いつも今くらいの時期から頑張ってるそうです。‥‥‥その日にいきなりできあがるわけじゃなくて、その日のためにたくさんの準備をしなきゃいけなくて。何だか、私たちのお祭りにもどこか似てる、って思いました」
「そうだったのか。でもまあ、そうかも知れないな」
 話しながら俺は、「インフルエンザウイルスが頑張っている」シーンを想像しようとしてみた。
 頭の中ではウイルスだか細菌だかわからない楕円状の謎の物体がダンベルを上げたりロードワークをしたりし始めた。
 ‥‥‥別にそんなことを頑張っているわけじゃないと思う。自分の想像力の貧困さに少し笑えてしまった。
「あの、私、何かおかしいことを言いましたか?」
「いや、ごめん。ちょっとその、頑張ってるウイルスってのを想像しちゃって‥‥‥そうだ舞奈、この時期のインフルエンザって何を頑張るんだ?」
「まずは体力だそうです。今日はロードワークだって言ってました」
 舞奈はそう言って微笑んだ。
 もともとそんなことをする子じゃないが、やっぱり今も、別に俺をからかっているわけじゃなさそうだった。

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