「釣り堀ぃっ!」
まさに「飛び出していく」としか言いようのない勢いで、喜色満面のあずさが車から飛び出していく。
「‥‥‥相変わらず凄い勢いだねー」
「‥‥‥まあ、あずさだからねー」
エリナと忠が車の中で苦笑いしている。
早く来ないと置いてっちゃうよー、という声が遠くから聞こえた。
辿り着いたのは旧東京都下。昔は青梅市と呼ばれていた山奥である。忠たちが普段住んでいるのは昔で言えば伊豆のあたりだから、車で走っても片道だけで半日はかかる。こんなところまでわざわざやってきたのは、ここの川辺に釣り堀があると聞きつけたからだ。
ただ普通に魚を釣るだけなら目の前の海へ行けばいいのだが、なにしろそこは海だから、あずさが見たがったニジマスのような川魚はいない。
だからといって仕事を休んでまで出掛けてしまうのはどうかとエリナは思う。しかし、確かに今は別に急ぎの仕事は入っていないし、例によってあずさが見たい見たいと大騒ぎするので忠が折れてしまった。‥‥‥折れるまでの所要時間が三秒程度とやけに短いのもいつものことで、こうなるとエリナは肩を竦めるくらいしかすることがないのも、いつものことだった。
「でも、荷物何にも持ってきてないよね? 釣り竿とか」
「竿なんかは釣り堀で貸してくれるらしいよ。餌もあるって言うし。釣りする時に要るものって他にあったっけ?」
「さあ‥‥‥私もあんまり釣りはしないからよくわかんないわ」
結局ふたりとも知らないのだから考えてもしょうがなかった。
ほら早く早くーとふたりを急かす声は、さっきよりもっと遠くの方から聞こえていた。
目指す釣り堀までは駐車場からさらに数分歩く必要があった。
鬱蒼とした林の中を進んで行くと、突如開けた視界の中にそれがいきなり現れる。柵で囲われた何やら大きなプールの側に小屋が一軒。柵や小屋の壁に立てかけられている大量の棒が釣り竿だろうか。
「ほう‥‥‥」
「へえ、これが‥‥‥」
「釣り堀釣り堀ぃっ!」
初めて見た「釣り堀」というものに保護者ふたりが順応するよりも早く、例によってあずさは真っ先に飛び込んで行く。
「おや、お客さんかね? 珍しい」
「おばちゃん、これが釣り堀? これどうやるの?」
「はいはい、慌てない慌てない。釣り堀は逃げやしないからね。まず、そこからどれでも好きな竿を選んでおいで」
あずさは小屋のおばさんと連れ立って、既に柵の中にいた。
「エリナも早くー」
「もう、あずさが早いのよ。ちょっと待ってったら」
「今度はお父ちゃんとお母ちゃんかい? あれまあ、お母ちゃん綺麗でいいわねえお嬢ちゃんは。あっはっはっ」
「いっ?」
「お‥‥‥父さんとお母さん‥‥‥って‥‥‥あの、いやそれは」
忠とエリナのしどろもどろな説明など、無論、小屋のおばさんは聞いていない。
「ほれ、娘さんもうやっとるよ? 親御さんがのっそりしてたら可哀想でしょうに。ねぇ」
「ねー」
「娘のあずさ」も無責任なもので、今日はおばさんの話の方に口裏を合わせることにしたようだ。
今日何度目かの苦笑を見合わせて、あずさを追ったふたりは小屋の中に入って行く。
数分後、四人は田んぼの中のあぜ道のようなところにいた。どっちを向いても釣り堀になっている。
よく晴れた日差しに横腹の虹色をきらきらと煌めかせて、堀の中でニジマスが踊っていた。
「あれ釣るの? あれがニジマス?」
「そうだよ。綺麗でしょ? そしたらその針に餌つけて」
「餌ってこのイクラですか?」
聞きながらエリナも針に餌を通そうとしている。こんな細かい作業はしたことがないからか、意外に手元が覚束ない。
「そうだよ。そしたら、そこの堀に針を入れる」
「なるほど。では‥‥‥うりゃっ!」
気合一閃、忠が海釣り仕込みの豪快なスイングを見せ‥‥‥
「ひっ!? うわっわわっちょっちょっと忠っ!」
途端に、素っ頓狂な声を上げ、慌てて自分のお尻のあたりを押さえるエリナ。
「ちょっとちょっとうわっ忠いっ、だから戻して竿、竿っ、わっわっ私が落ちるっ」
「あー、スカート釣ってるー! えっちー!」
日向ファミリー、本日最初の釣果はエリナのスカート。
どうにか転落を免れたエリナは地面にへたり込んでしまった。
「お父ちゃん、釣りっていうと海の人だね? あんたみたいな人も時々いるんだけどねえ、お母ちゃんのスカート釣ったのはあんたが初めてだよ。釣り堀はそこなんだから、遠くに投げなくたってそこに放ればいいじゃないよ」
たしなめるようにおばさんが言うが、声は笑っている。
「はい‥‥‥ごめんエリナ」
「馬鹿あっ」
むくれたようにぷうっと頬を膨らませ、涙目で忠を見上げるエリナに、忠が申し訳なさそうに手を差し出す。
「はい、お嬢ちゃんは準備いいのかい?」
「うん」
「お父ちゃんみたいに遠くに投げなくていいからね。そこに放れば魚はいるんだから。後はね、魚が餌に食いついたら竿をくっと引っ張るんだよ」
「はーい」
返事をしながら、あずさが釣り堀に針を落とす。‥‥‥待つこと数秒。
「あずさ、引いてるぞ!」
「へ? うわわわっ」
「引っ張れ、竿引っ張れあずさ!」
「うん‥‥‥えーいっ!」
あずさに釣り上げられたその魚は、見事な水滴のアーチを描いてあずさ達の頭上を飛び越え、目の前と同じように背後にもある堀へと飛び込んだ。
‥‥‥そんなこんなで大騒ぎの一日も、もうそろそろ夕暮れにさしかかろうかという頃。
「あ。忘れてた」
三人合わせて二十匹ほども釣り上げたあたりで、忠がいきなりそう言った。
「何が?」
「忘れ物したよ。クーラーボックス」
「‥‥‥なるほど」
エリナが頭を抱える。
「どうしたの?」
「んー、この魚どうやって持って帰ろっかって話をしてたんだけど」
「えー? 持って帰れないのー?」
「クーラーボックス持って来なかったんだよ、そういえば。何でも一式貸してくれるって話に油断したかなあ」
「でも、でも大丈夫だよ。あそこに発泡スチロールの箱がいっぱいあるもん」
あずさが小屋を指差す。
「そうね。あの箱貸してもらいましょうか? すみませーん、あの、釣った魚なんですけど‥‥‥」
エリナがおばさんの小屋に向かっていく。
「貸してくれるといいね‥‥‥」
「貸してくれなかったらこの魚は今すぐ全部バーベキューだな。そしたらあずさ、嫌んなるほど食わせてやるから覚悟しとけよ」
「あ、あずさはそれでもいいな。っていうかあずさ、そっちの方がいいかな?」
喋っている所にエリナが帰ってくる。
「貸してくれるって。っていうかこれ、そのための箱みたいよ? あっちでドライアイスも詰めてくれるって」
「なんだ。あずさ、よかったな」
「うんっ!」
「おばちゃん、またねーっ!」
「どうもお世話になりました。また来ますんでよろしくお願いします」
「またスカート釣らないでよ?」
「う‥‥‥」
挨拶する忠に、エリナの合いの手はシビアだった。
「はいはい‥‥‥くくっ‥‥‥また来るんだよ‥‥‥」
言いながらおばさんはまだ笑いが止まらないらしい。
夕日を背に、賑やかな家族を載せた車は家へと走り出した。
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