智子は、藤田浩之のことが大嫌いである。
心の中にしまい込んだ内緒の閻魔帳は、不本意ながら、嫌いである筈の藤田浩之に対する罵詈雑言でいっぱいになってしまった。
今日もまた、登校した校舎の中で、藤田浩之が智子を追い越していった。
僅かに顔を顰める智子には気づいた風でもなく、あかりと志保とマルチを従えて、ばたばたと階段へ駆けていった。
去り際、智子に向かって小さく手を振ったように見えた藤田浩之が、本当は誰に手を振ったのか、智子にはわからない‥‥‥下駄箱に手を突っ込んだまま周囲を見まわした智子の首の動きに引っ張られて、指先が引っ掛けていた上履きが足元へと墜落した。
真っ赤になった顔を見られないように、落ちてしまった上履きを必要以上に睨みつけながら、智子は心の中で、閻魔帳に新しいページを追加した。
図書室はいい。誰にも気兼ねなく、ひとりでいることができる。
昼休みのほとんどすべてを、智子は図書室で過ごす。本当は読む本など何でもいいから、智子は入口からいちばん遠い本棚から、その上端の左端から順に読み進めることにしている。入学以来ずっとそんなことを続けていたら、二年生になった今にして既に、図書室の蔵書の半分弱は読破していた。そのままのペースで推移すると、三年生になってしばらく経ったくらいの時点で、蔵書をすべて読み切ってしまう計算になる。別に本人はそれを喜ぶわけではなかったが、一応、頑張った成果、と言って言えないこともない。
‥‥‥ところで、そんな智子が、昼休みだというのに最近あまり図書室にいない。何故か、藤田浩之や雅史やあかりや志保やマルチやレミィや、その辺の連中と一緒に昼食をとることが多いからだ。
智子の何かが、周囲の明るい話題に貢献できるとは思えない。‥‥‥では何をどうすればいいのか、そんなことを智子が知っている筈もない。智子は他人に気を配ることがあまり得意でないから、自分にできないことは他人もしてくれなくていいと思っていて、他人に気を使わせないためには自分がひとりでいることがいちばん簡単だと思っていた。
まさか、こんなにも他人に冷たい智子をそのまま平然と内側に置いておける集団がある、などとは夢にも思ったことはなかったが、どうやら藤田浩之とその一党は、まさにそういう集団らしかった。愛想笑いのひとつさえ浮かべた憶えのない智子が、それでもまるで当然のようにその景色に馴染んでしまっていることを、いちばん不思議に思っているのは他ならぬ智子自身だ。
あんまり不思議だったから、智子は一度、藤田浩之に聞いてみたことがある。
「何の嫌がらせや? 毎日毎日こんな屋上へ連れ込んで」
答えて藤田浩之が宣った台詞はこうだ。
「だっていいんちょー、晴れてんだぜ? 屋上でメシ食った方がうまいって絶対」
それは別に、智子のためでも、藤田浩之のためでもないのだった。
‥‥‥何にどう腹が立つのかは智子自身にもさっぱりわからなかったが、とにかく何だか無性に腹が立ったので、左手は藤田浩之に引かれるに任せたまま、智子は空いた右手に極太の赤ペンを握り、心の中の閻魔帳にその台詞を大きく記しておいた。
「もうこれ以上、うちに関わらんといて」
雨降りのある日、智子は藤田浩之にそう言ったこともある。
「‥‥‥本当、いいんちょーって直球だな」
藤田浩之はそう言って苦笑いした。
「さ、昼メシ行くぞ。今日は雨降ってるから体育館だけど、食い終わったらいいんちょーもバスケやろうぜ」
しかもその上、藤田浩之は全然聞いていなかった。
「せやからっ」
藤田浩之がいつものように掴もうとした左の袖口を智子は振り払う。
「迷惑やって言うてるやん!」
咄嗟に、やり過ぎた、と智子は思った。
ところが、智子が恐る恐る見上げた藤田浩之は、優しげな笑みすら浮かべてそこにいた。
まるで初めから何も起こってなどいないかのように、平然と。
「あのさ。迷惑なら迷惑って言ってくれた方が俺たちもいいけど」
急に力をなくして、ぶらりと垂れ下がった智子の袖口を握り直しながら、
「本気でそう思ってるなら、本当に迷惑そうに見える顔して言ってくれよ‥‥‥置いてかないでって顔に書いてあるような奴に『迷惑だから』なんて言われて、はいそうですかってそのまま置いてけるような甲斐性なしとは、俺たちは違うつもりだからさ」
結局そのまま体育館へ連れて行かれてしまう自分に苛立つ気持ちはあるものの、いい加減分厚くなった心の中の閻魔帳では智子の知っている悪態のレパートリーなどとっくの昔にすべて網羅されてしまっていて、だからもう智子には、そこに何を書いたらいいかさえ、容易には思いつけなくなっている。
仕方がないので智子はその日、恨み言の代わりにバスケの点数をメモしておくことにした。
夏休みになったら海へ行こうと藤田浩之が言ったのは、学校帰りの坂の途中だった。
例によって例の如くのやりとりの後、またも断り切れなかった智子を半ば置いていくようにして、藤田浩之はすたすたと先を歩いてゆく。
「浩之ちゃん、本当は優しいでしょ?」
自分が優しくされてでもいるかのような嬉しそうな顔で、追いついてきたあかりが急にそんなことを言う。
「優しいっちゅうか‥‥‥なんも考えてへんっちゅうか」
「でもね、あんな風に考えないのって、本当は難しいと思うんだ。私は考えちゃう。好きとか嫌いとか、最初にそういうこと考えちゃう。浩之ちゃんみたいに、何も考えないで取り敢えず手を出してみる、なんて私にはできないと思うし」
「言うてくれるやないの」
「え? 何が? ‥‥‥私、何か変なこと言った?」
多分、あかりはただ単に、藤田浩之は優しい、と思う自分の考え方について述べているだけだ。それが智子へのあてつけに聞こえることまでは考えていない。大体、智子のことが嫌いなら、当の智子相手にそんなことは言わないだろう。そういう言葉はこっそり隠しておくものだ。
だからあかりは、智子のことが嫌いでない自分の気持ちは智子にちゃんと伝わっている、と心の底から信じている。きっと、それだけのことでしかない。
「ああ、もうええよ。何でもない」
自分ひとりだけ、そんな嫌なことに気を回してしまうのが嫌になって、智子はぞんざいに言葉を切る。
あかりが小さく首を傾げた。
「‥‥‥ほんまのこと言うとな」
藤田浩之は随分前の方を歩いている。智子がその背中を見つめていることには、こんなことを言う自分の側に、藤田浩之にだけはいて欲しくないから、絶えず自分と藤田浩之の距離は測られていなければならない、以外の理由はない筈だった。
「うち、怖いねん。優しいされたら溺れてしまいそうやから。信じたもんに裏切られるんは切ないことやって、嫌になるほどよう知っとっても‥‥‥やっぱりまた、ここに溺れてしまいそうなんや。ほんまは恐い。また裏切られたら、うち、よう生きてかれへん。せやから友達なんか欲しいない。ひとりでいたいんや」
「そう‥‥‥でも、それはもうダメだよ」
楽しそうに自分の顔を指差すあかりに、今度は智子が首を傾げる番だった。
「だって、私のことは信用してくれてるんだよね? だからそういうの、私には話してくれるんだよね? そうしたら、ほら、ひとりはもう友達がいるんだから。友達は要らないなんて、ひとりになりたいなんて、もうそんなのとっくに手遅れだから‥‥‥だから安心して、そういう風に辛いことが話せる人を、これからどんどん増やしていったらいいよ」
迂闊だった。
藤田浩之は藤田浩之だけだと思っていたのに、ここにいるのも藤田浩之だった。
とんでもない相手にとんでもないことを喋ってしまった、と智子は後悔したが、それもまた手遅れだった。
後になってよくよく見回してみると、別にあかりが特別なのではなかった。
わかってしまえば何のことはない。程度に多少の差はあるものの、藤田浩之の周囲にいたのはひとり残らず藤田浩之だったのだ。「類は友を呼ぶ」と誰かが言ったが、相変わらずの面々がいつものように顔を揃えた昼休みの屋上を見渡す限りでは、どうやら、本当のことらしい。
今更いくら舌打ちしても後の祭。それこそまさに、手遅れ、なのだった。
その後もずっと、いろんな相手に幾つもの手遅れを積み重ねた。そんな手遅れを当たり前のように笑って許してくれるその場所に、居心地の良さすら感じ始めた頃‥‥‥智子は、胸の中だけに大事にしまってあった、その分厚いノートの所在を思い出していた。
ページを繰っていると、何やら苦笑いがこみ上げてくる。
最初のうちは、確かにそれは閻魔帳だったのに。
『屋上でメシ食った方がうまいって絶対』という発言の何がいけないというのか。
昼休みに遊んだバスケの点数に一体何の恨みがあるというのか。
海へ行く前にあかりたちが見立ててくれた水着やパーカーのどこが不満だったというのか。
‥‥‥最早それは、誰がどう見ても、閻魔帳、などと呼べる代物ではなかった。
今でも智子は、そのノートを大事に胸の中に置いている。
思うように何かを嫌えなくなった自分のことが、しかし智子は思ったよりも嫌いではなかった。
ひとりではない、という窮屈を自分に押しつけた藤田浩之のことも、昔ほどには嫌いになれなかった。
それでも、本当の気持ちを大声で晒してしまうことには、智子にはまだ抵抗がある。
それさえも恐らくは時間の問題でしかない、と気づいてしまっている自分にまた腹が立つ。
だから智子は未だに、自分の心の中に勝手にずかずかと上がり込み、自分の大事な閻魔帳を寄ってたかってただの日記帳に書き換えてしまった挙げ句、
「慌てなくても大丈夫だって」
などと言って笑う藤田浩之のことが‥‥‥大嫌い、だと思うことにしている。
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