「ごめんなさい相沢くん。来てもらって早々で悪いけど、お使いを頼まれてくれないかしら」
「ん? ああ、いいぞ」
つい今しがた病室に着いたばかりだというのに、祐一は嫌な顔ひとつせず、腰かけた椅子から立ち上がる。
「またバニラのカップアイスだろ? いくつ要るんだ?」
香里は、すぐ側で目を閉じている栞の口元にわざとらしく耳を寄せ、
「違うって。ネーブルのジュレ」
栞の静かな吐息を言葉に見立てて、まことしやかに無理難題を突きつける。
「ね‥‥‥ねーぶ‥‥‥何?」
「ネーブルのジュレ。でいいんでしょ、栞?」
寝ている割にはどこか顔の赤い栞が小さく頷くのを見て、祐一は首を傾げた。
「香里、そのネーブルのジュレって何だ?」
それが何であるかすらわかっていない祐一に向かって、
「知らないわ」
しかし、冷たく香里は言ってのける。
「は?」
「まあ、そういうことだから。お願いね」
「いや、お願いって言われても、あー‥‥‥まあ、わかった」
それでも。
不承不承といった様子ではあるものの、頷いた祐一は病室を後にする。
「さて、どれくらいで帰ってくるかしらね」
静かに閉じられた病室のドアに向かって香里は呟いた。今頃は早足で地下の購買へでも向かっている頃だろう。無論、そんな小洒落たものが購買の棚にないのはとっくに確認済みの香里だった。
「お姉ちゃん、今のはちょっと酷いよ。祐一さん本当に探しに行っちゃったよ?」
実は眠ってなどいなかった栞は途端に抗議を始める。
「でももう片棒担いじゃってるじゃない。観念しなさい」
「そんなこと言う人、嫌いですっ」
「意外と速いかも知れないわよ? 食べ物だってことに気づけば。強力な味方がいるもの」
「強力な味方?」
「名雪のおばさま。もしかしたら栞、おばさまのお手製が飛んでくるかも知れないわよ」
「もう。今日のは検査入院で大したことないんだから。明日には退院しちゃうんだし、そんな大袈裟にしないで欲しいです」
栞が頬を膨らませる。
そう、手術は成功していたし、直接命に関わるような問題が栞の中から取り除かれてから結構経ってもいる。明日をも知れない儚い命に縋りつくように生きていた栞の口から、そんな大袈裟にしないで欲しい、などという言葉が普通に出るほどに。
ただそれでも、心配ないと頭でわかってはいても、祐一が心配しない筈はないのだ。検査入院でも、大したことなくても、明日には退院することが決まっていても、大袈裟にして欲しくなくても、それは他ならぬ『彼女』の身体のことなのだから。
そんなことを誰かに話したことは一度もないが、正直なところ、香里はようやく仲間‥‥‥もっと言えば、戦友、を得た思いだった。
だがしかし。
それも誰かに話したことは一度もないが、その戦友は同時に、香里から栞を取り上げようとする敵、でもあったのだ。
意地悪な未来の小姑候補者は、自分が意地悪であることには自覚的だった。
早くも未来の小姑候補者にいびられている不遇な義弟候補者の方は、病院地下の購買など最初からアテにしていなかった。
病室を出たその足で一階ロビーへ直行し、公衆電話から水瀬の家に電話をかける。勿論、『ネーブルのジュレ』が何であるかを確かめるためだ。
が。
「あ、もしもし。祐一ですが、秋子さ」
『お電話ありがとうございます。水瀬です。申しわけありませんがただいま留守にしております。御用の方は発信音の後にお名前と連絡先、ご用件をお話しください。後刻こちらからご連絡させていただきます』
微かにノイズの混じった秋子の声は、水瀬の家は留守であると告げていた。
そういえば祐一は水瀬家の留守番メッセージを初めて聞いたのだった。やたらと丁寧な言い回しに苦笑しつつ、発信音を待つ。
ぴーと電子音が聞こえた。
「祐一です。えっと秋子さんに質問」
ぷつん。つーつーつー。
「一秒かよっ!」
受話器に向かって抗議したところで、切れた回線が再び繋がるわけでもない。
公衆電話が吐き出したテレホンカードをもどかしげに突っ込み直す。
『ネーブル? んー‥‥‥聞いたことあるような気がするんだけど』
携帯電話で話す時でも、名雪はゆっくりしていた。嫌なスピードでテレホンカードの残り度数が減っていく。
「要するに、何だかわかんないんだな?」
『え、わかるよ? 思い出せないけど』
「それはわかるうちに入らないだろ」
『残念。あ、お母さんは?』
「家にはいなかった」
少し苛立たしげに祐一は話すが、名雪は気づいていないらしい。
『ああ、そうなんだ。‥‥‥えっとね、おへそ』
「は?」
『ネーブル。今、辞書引いたの。フランス語でおへそって意味とか』
名雪は出かけている筈だった。‥‥‥辞書など持って一体どこへ出かけたのだろう?
『あと、オレ』
テレホンカードの残り度数を使い果たし、無情にも通話はそこで打ち切られる。
それで祐一が手に入れた情報はといえば。
ネーブルはフランス語でおへそ。
ネーブルはオレ。これは言いかけだったから何か続きがあるかも知れない。
携帯が嫌い、とか言っている場合じゃない。俺も携帯を買おう。そう祐一が決意したのは、実はこの時だったらしい。
書店で売り物の辞書を引いた。
ネーブルオレンジ、という果物があるらしい。ネーブルが臍という意味の他に果物の名前でもあるのは、その果物の下の方が臍に似た形をしていたから、と書かれていた。‥‥‥ネーブルとはオレンジもしくはそれに似た果物。ここに行き着くまでに、既に一時間近くが経過している。
「で、ジュレって何だ?」
しかし問題は、実はそのジュレの方で。
悲しいかな、ネーブルの意味が載っていた辞書にも、ジュレの意味までは載っていなかった。
一旦、祐一は水瀬の家に戻る。
病室に戻ってギブアップ、という考えも頭をよぎったが、香里相手にギブアップを申し入れるのは何だか悔しかったし、大体、入院中の栞が欲しがっているのだから、やはり『彼女』の『彼氏』であるところの祐一としては、何とかそれを用意してあげかった。そして、この水瀬の家には逆転の可能性が眠っていると祐一は信じていた。最初に秋子と連絡を取ろうとした時から、どうにもならなくなったらここへ戻ろうと心に決めていたのだった。
台所のマガジンラックに放り込まれた本をばんとテーブルに並べ、お菓子のレシピらしき本を中心に次々と斜め読みしていく。‥‥‥ネーブルの正体がオレンジの一種であることや、検査だけとはいっても一応入院している栞がそんな重たいものを食べたがるとは思えないことなどを考えて、ジュレはデザートの一種であるに違いない、と当たりをつけたのだ。
だが残念なことに、台所のマガジンラックにもジュレの作り方が書かれた本はないようだ。
落胆した祐一が本を戻していると、電話の呼び出し音が聞こえた。
祐一は取り敢えず放っておく。必要以上に丁寧な秋子のメッセージと電子音に続いて、先方の声が廊下に小さく響く。
『秋子です。祐一さん、次で取ってください』
流石というべきなのか、秋子自身のメッセージは見事に一秒に納まっていた。
慌てて電話に駆け寄った祐一の前で、再度、呼び出し音が鳴る。今度はすぐに受話器を取る。
「祐一です。秋子さんですか?」
『はい。留守番電話に何か入っていましたが、私に御用ですか?』
比喩でも誇張でもなく、それは天の声に聞こえた。
『ごめんなさい。ネーブルオレンジのジュレは、今は切れてしまっているわ。昨日まではあったのだけれど』
「あ‥‥‥った、んですか?」
『ええ。ちょっと緩いジャムみたいな壜があったでしょう? 刻んだ皮が入っていたような。あれがそうです。それと』
受話器の向こうで少し考え込むような声がする。
『栞ちゃんがお見舞いに欲しがっているのなら、ああいうジュレではなくて、本当にゼリーのように食べられるものの方がいいかも知れません。材料さえ揃っていれば作り方は簡単ですから、作ってあげてはいかがですか?』
天は更なる試練を祐一に与え給うとしていたが、今更、それくらいの試練に怯む祐一ではない。
「あ、祐一さん!」
「あら」
面会受付も終了しようかというギリギリのタイミングで、ようやく祐一が病室に戻ってきた。手に持った紙袋を小さな脇机に置く。
「どこに売ってたの?」
「売ってる場所は調べてない。秋子さんに」
やっぱり、秋子さんね。早合点した香里は頷こうとしたが。
「教えてもらって俺が作った」
「‥‥‥え?」
その時の香里の表情は、今朝方、突然『ネーブルのジュレ』を要求された時の祐一の表情にとてもよく似ていた。
今朝方は薄目を開けて祐一のことも見ていた栞だけがそのことに気づいて、それがおかしくて栞は笑った。つられて祐一が笑い始め、香里は照れたように明後日に目を向ける。
「ほら、お姉ちゃんの負けです!」
「そうね。今日のところは、これくらいで勘弁しておいてあげるわ」
負けを認めている割に台詞は尊大な香里だが、満更でもなさそうに頬が緩んでいたのでは、甚だしく迫力に欠ける点は否めなかった。
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