そこに眠っている患者に、近頃医者はやたらと手術を奨めたがっている。
ただ、どうも極端に症例が少ないらしいその病気に関する限り、手術とやらはほとんど人体実験と大差ないくらいのものらしく、今のところは本人も、傍らに座る少女を含めた周囲の面々も、積極的にそれにつきあおうと考えてはいない。
だから、その患者の病状はよくも悪くもなっていない。
人並みの寿命を全うするまで悪化もしないのであれば、こんな状況でも別に問題はないのかも知れない。だが、病状がよくも悪くもならないからといって、永遠に今と同じでいられるというものでもない。その患者の場合、病状がよくも悪くもならないということは、相変わらず他の誰かより余分に寿命を磨り減らし続けている、という意味でもあったからだ。
この期に及んでは、患者自身の自助努力だけで何がどうなるというものではない。現状を打開するために、それ以外の何か、は確かに必要だった。例えば某かの技術革新とか。医学的な某かの発見とか。あるいは。
あるいは。
奇蹟、とか、そういうことでも。
‥‥‥自分の考えたことが余程馬鹿馬鹿しかったのか、少女は誰に見せるともなく、肩を竦める仕種をする。
それから、安っぽい丸椅子を音を立てないように引き、足下の鞄を抱えて、そっと病室を抜け出す。
と。
不意に、からんからん、と乾いた音がして。
振り向くと、たった今自分が閉めたドアの上で安っぽいプラスチックのプレートが踊っている。
空いた手でそのプレートを押さえ‥‥‥それからしばらくの間、表面に刻み込まれた『面会謝絶』の文字を人差し指でなぞってから、溜め息をひとつ残して、少女はその場を離れる。
ドアの向かいに設えられた大きな窓は、何だか嫌がらせのようにさえ思えるくらいの秋晴れの爽やかさで、何もできない自分の無力に唇を噛みながら立ち去っていく少女の背中を見送った。
「あ! 美坂さーん!」
帰り道が駅前近くの大通りに差し掛かった頃、道の向こうで香里を呼ぶ声がした。
まだ秋だというのにダッフルコートにミトンの手袋という季節外れな出で立ちで、女の子がひとり、香里に向かって大きく手を振った。
それから女の子は、片腕で大事に抱きかかえるように持った紙袋を揺らしながら、道を渡ろうとして三回は車に轢かれそうになってわたわたと慌てた素振りを見せ、ようやく渡りきって香里の前に立った頃にはもう泣きそうな顔をしていた。
「すぐそこに横断歩道があるじゃない。なんでまっすぐ向かってくるのよ?」
女の子の危険な大冒険を目の前で眺めていた香里の、それが、ひとことめだった。こんな小さな女の子が相手だろうと香里は容赦ない。
「うぐぅ‥‥‥だって、今日も会えたから嬉しくて」
「車にぶつかったってあなたは何ともないでしょう?」
「ボクは平気でもたい焼きはそうじゃないもん」
小さく鼻をすすりながらいそいそと片手のミトンを外し、女の子は抱えた紙袋を開く。
「だから、たい焼き食べる?」
「そうね」
正直なことを言えば、香里の方は別にそういう気分ではなかったのだが。
「ええ。ひとついただいておくわ」
あまり無下に断るとそのうち女の子が泣き出してしまいそうで、取り敢えず、紙袋の中からたい焼きをひとつ摘み出す。
よく焼けた生地の香ばしさを連れて僅かに立ち上る湯気。口癖のように「焼きたてがいちばんおいしいんだよ」と言う女の子のたい焼きは、今日もやっぱり焼きたてらしい。そういう気分、とかではなくても、実際に手に取ってみれば口元も綻ぼうというものだ。
‥‥‥口元が綻びかけたところで、ふと、我に返った香里は女の子に向き直る。
「そういえばこれ、今日はちゃんとお金払って買ったんでしょうね?」
「だ、だっだだ大丈夫だよっ!」
「どうしてそこで狼狽えるのよ」
「うっ狼狽えてなんかいないよ?」
「こーら」
空いた手で小さなおとがいに手をやり、まともに顔を合わせようとしない女の子の顔をぐっと引き寄せる。
「正直に言わないなら、あたし、このまま帰っちゃうわよ? 前に何か話があるって言ってたけどそれも聞いてあげないし、もう二度と会ってあげないわよ? それでもいいのね?」
冷たく言い放つと、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい今日も走って逃げましたごめんなさい」
途端に、女の子はぺこぺこと謝り始める。
「馬鹿。謝る相手が違うでしょ」
おとがいに当てた手を放してぺちんと頭をひとつ叩き、それから、その手で女の子の小さな手を掴む。
「今日はどこのお店?」
「‥‥‥えと、あっちの」
大事そうに袋を抱えた腕が僅かに動く。その腕が示した方へ、香里と女の子は連れ立って歩いていった。
「に、二十個も入ってるの、それ?」
「うん! いっぱい買ったんだよ!」
「だからあなたは買ってないでしょ。それはお財布にお金が入ってる人の台詞」
「うぐぅ」
「ほら、お店の人にごめんなさいは?」
‥‥‥いつものやりとりがいつものように繰り広げられた上で、結局はその日のたい焼き代も香里が払うことになった。
ベンチの肘掛けに頬杖を突いた香里は、晴れて香里のものになったたい焼きを嬉しそうに頬張る傍らの女の子を眺めながら、今までこんなことを何度繰り返しただろう、と考える。
『代償行為』という言葉が何度か頭を掠める。
そうかも知れない、と思う。
今でも病院のベッドで寝ている栞のことを考えると、少し後ろめたい、と思う。
何だか頭の中がそんなことばかりになってしまいそうで、名前も知らないこの子にあまり構いすぎるのはよくないかな、と思う。
「ごちそうさまでしたー!」
結局そんなことばかりをぐるぐる考えている香里のすぐ脇で、突然、女の子は元気に大声を上げた。
「は?」
「え? だから、えっと、ごちそうさまでした。今日もおいしかったー。やっぱりたい焼きは焼きたてがいちばんだよね。こう、皮のぱりぱりしたところが」
香里の手には、最初に紙袋から出したたい焼きがまだ完全な形で残っていたが、
「っていうか、もう食べちゃったの?」
「あ‥‥‥うぐぅ、そういえば全部食べちゃったよ」
ひとり香里が物思いに耽っているうちに、残る十九個はすべて平らげられてしまっているのだった。
「あの、あとひとつかふたつくらい、残しといた方がよかった?」
ふたりで二十個あって、ひとつかふたつってどういう計算? ‥‥‥と思わないでもなかったが、口に出しては言わなかった。仮にちょうど半分受け取ったとしても、その半分でたい焼き十個。受け取らないより困ってしまいそうだ。
「あたしは構わないけど、そんなにたい焼きばかり食べていると身体に悪いわよ。お腹壊したりしないの?」
「平気だよ?」
普通、平気なわけがない、の、だが。
「だってボク、今は人間じゃないから」
ちょっと悲しそうな顔をして、女の子はそう言った。
‥‥‥その、ちょっと悲しそうな顔、の間だけ、その女の子の姿を透かして向こう側の風景が見えていたように香里には思えて、目を逸らした香里はたい焼きを持っていない方の指で眉間を揉んだ。
今更疑う余地もないこととはいえ、受け入れ難い事実というものは得てして受け入れ難いものなのだろう。
そう、たい焼きばかり食べているその女の子が‥‥‥本当は本当に天使である、という事実のようなことは。
「それでね」
ミトンを外した両手をぱたぱたとはたきながら、何でもないことのように、女の子は次の話を始める。
「美坂さんがいい人だってボクはもうわかっちゃってるから、だから、美坂さんにお願いがあるんだ。前から言ってるお願いのこと」
「なあに? またたい焼き?」
「んー、今日は調子がいいからあと三十個くらいなら‥‥‥違うよー。ボクは真面目なお話をしてるんだよー」
未だ原形を保ったまま、いい加減冷めかけた最初のたい焼きを、不満そうな女の子の鼻先にちらつかせてみる。
「そんなこと言って」
もうほとんど条件反射くらいの動きで、女の子の小さな両手はたい焼きを追いかけて宙を泳ぐ。
「もう焼きたてじゃないわよ?」
「さっきは焼きたてだったもん」
「それでいいんだったら、世界中のたい焼きはひとつ残らず焼きたてになっちゃうじゃない」
「あれ? そうかなあ? えっと、焼いたたい焼きが焼きたてで、その後冷めちゃってもその前は焼きたてで、えっと‥‥‥あれ? え?」
再び肘掛けに頬杖を突いた香里は、くるくると表情を変える女の子を眺めている。
忙しい子だと香里は思う。
「だからそうじゃなくって!」
「だったら話を進めなさいよ」
「うぐぅ、意地悪‥‥‥えっと」
今、あなたの前には天使がいて、その天使はあなたの助けを必要としています。
天使として不完全であるが故に役割を全うしきれないその天使に代わり、奇蹟使いとなって、幸福の再配分と奇蹟の執行を代行することを望まれています。
「今時、生後三ヶ月の赤ちゃんだってもう少しマシな嘘つくわよ」
聞くだけ聞いた香里は、もうそれ以上はないくらい、呆れ返った顔をしていた。
「あー、信じてないなー? 嘘じゃないのにっ」
女の子の方は必死だった。
「嘘じゃないとしたら、タチの悪い嫌がらせかしらね」
香里はあっさりと切って棄てた。
「栞が‥‥‥あたしたちが今、どれだけその奇蹟が起きるのを望んでるか、あなた何も知らないでしょう? いくらあなたが空飛べるからって、車にぶつかっても怪我しないからって、それだけで、たったそれだけでそんな天使だの奇蹟だのなんてことまで信じさせて」
必要以上に圧し殺したような自分自身の声のことに、香里は気づいていなかった。
「美坂さん」
「だから何だっていうのよ? そんな人からほいほいもらえるような安っぽい奇蹟が何だっていうのよ! 馬鹿にしないでっ!」
ベンチから僅かに腰が浮くくらいの勢いで、思い切り、そう怒鳴ってしまっていたことにも気づかなかった。
「泣かないで美坂さん」
驚くでも怯むでもなく、まるでお姉さんが妹を諭すように女の子がそう言うまで、香里は自分が涙を零していることを知らなかった。
慌てて顔を伏せる。
ブラウスの白い袖にじわりと涙が滲んだ。
「あのね、本当はボク、知ってたよ。栞ちゃんのことも。美坂さんのことも。それでね、ボクの持ってる奇蹟を上手く使えば、もしかしたら栞ちゃんのことはどうにかできるかも知れないんだ。だけどそれは、いきなりタダで、ってわけにはいかないんだよ」
「散々たい焼き奢らせたくせに、まだ食べ足りないっていうの?」
「うぐぅ‥‥‥でも、あの、そういうことじゃなくて、ええと‥‥‥うぐぅ」
上手く説明できないのか、怒鳴られたよりも遥かにしどろもどろな様子になってしまった女の子が頭を抱える。
「怒鳴ったのは悪かったわ。いいから、聞いてあげるから‥‥‥思いついた順番でいいから、全部話してみて」
ダッフルコートの背中に手を置かれて、涙目の女の子が香里を見上げたが、まだ香里はそこで顔を伏せたままだった。
たどたどしくて要領を得ない説明は、そのせいで数十分にも及んだ。
それが一通り済んだ頃、かなりげんなりした顔で、香里は手渡された紅白ストライプのその棒を弄んでいる。
大体長さは香里の膝から下くらいで、握ると片手でちょうどいいくらいの太さの六角形の棒。‥‥‥紅白というより、濃いピンクと赤っぽい白、の方が見た目に近いかも知れない。真ん中あたりから片側の端へ向かう金色と銀色の細長い飾りの束は、途中一か所で複雑な輪を描きつつ何度も交差してから、さらに先まで伸びていく。交差した地点のすぐ上の金文字、やたら難しくて本当はよくわからないが多分『寿』とでも書かれているのであろうその文字の方向からすれば、どうやらそちらが「上」であるらしい。その棒のいちばん上の端はそのまま三方のような形になっていて、その上に載っているのは何やら魚の形をした大きめの飾りだ。棒をひっくり返すと、『寿』の真裏あたりに何か水銀の温度計みたいなものが埋め込まれ、今は大体、真ん中よりもちょっと上くらいを指している。棒のいちばん下からぶら下げられた三つの紐のそれぞれで、一の目しかないサイコロがちゃらりと僅かに音をたてる。
基本的なコンセプトは『おめでたい』とかその辺なのだろう。‥‥‥恥ずかしげもなくこのデザインを出してくる頭よりもおめでたいものがこの世にあるとは、香里にはとても思えなかったが。
「確認する気も起きないくらい馬鹿馬鹿しいんだけど一応聞いておくわ。何これ?」
「あ、いちばん上? 鯛だよ。ほら、おめでたいことには鯛がつきものだっていうし。かわいいでしょ?」
怪訝そうに軽く振ってみると、手元のサイコロが当たる音に合わせて鯛の飾りがふよふよと揺れ、口が開いたり閉じたりする。もしかしたらその鯛は三方の上に置かれているのではなく、少し浮かんだ状態になっているのかも知れない。どうやっているのかは知らないが。
「‥‥‥何、これ?」
「だからそれはさっき説明したのにー。これは奇蹟スティックっていって」
「却下」
「えー?」
女の子の方は見るからに不満顔だ。‥‥‥その不満顔から察するに、それをデザインしたのもこの女の子自身なのかも知れない、と香里は思う。棒のてっぺんにわざわざ鯛がついているあたりが特に怪しい。ひょっとしてこれはたい焼きのつもりだったんじゃないだろうか。
「ともかく」
一呼吸置いて、おもむろに香里は女の子に向き直る。
「制服とか、普通の服を着ている時に持って歩けないようなデザインは勘弁して欲しいわね。別に変身するわけじゃないんだから」
別に変身するわけじゃないんだから、の部分を必要以上に強調しつつ香里は言うが、
「え、でも変身できるよ? っていうか、変身しないといろいろ」
言いたいことがわかっているのかいないのか、香里の前で女の子はさも不思議そうに首を傾げる。
「しないわよ。大体こんなの、ただの木の棒とかでいいでしょう? やり直しを要求するわ」
「えー? なんでー? かわいいのにー」
そんなに気に入ってるなら自分でやってちょうだい。
言いかけて、香里は止める。
だからといって今更、香里が手伝わないわけにもいかなかった。これ以上ないくらい現実離れした馬鹿馬鹿しい状況ではあるが、ともかくも香里は今、目の前の女の子によって栞の生命を人質にとられたも同然、でもあったからだ。
なにしろ、香里がそれにつきあっていれば、もしかしたらそのうち本当に栞を回復させることができるかも知れない。自分の考えの馬鹿馬鹿しさに肩を竦めたような、奇蹟、とか、そういうこと、をアテにしてもよいのだ。ただしその代わりに、香里自身は死ぬほど恥ずかしいが。
どうしてこんなことになってしまうのだろう。
あたしは一体、どこで何を間違えて、こんな棒を振り回す羽目に陥ってしまったのだろう。
悔しそうに唇を噛んで香里は奇蹟スティックとやらいうその棒を握り締めるが、棒のデザインがあんまりなせいで、悲愴な筈のその姿が何だかちっとも様になっていなくて‥‥‥そんな風にして、本人も気づかないうちに、香里の不幸は始まっていたのだった。
「美坂ー、来たぞー」
放課後。
香里に呼び出された北川が校舎の裏へやってきた。
「悪かったわね、急にこんなところに呼び出して」
「ん、構わないけど。でも、どうしたんだよ、いきなり?」
「すぐ済むわ。じゃあ後ろ向いて、そこでじっとしてて」
言われた通りに振り返った北川の頭の上で、こん、と小さい音がした。
「は? 何? 美坂、何だ今の?」
「何でもないわよ」
どうやらこの温度計みたいなものが『幸福ゲージ』という部分らしい。その値が、大体だが目盛りの半分くらい、上がった。
「ふーん‥‥‥北川くん、最近何かいいことあった?」
「ん? いいこと? いや、あー、別に」
「わかったわ。ありがとう」
「って、本当にそれだけなのか?」
「それだけよ? ‥‥‥何を期待していたのかしら?」
「んー。まあ、わかった」
「ありがとう」
不審そうに首を傾げながら校舎裏を離れる北川が、
「いてっ」
つまづくような石があるわけでも特にぬかるんだりしているわけでもないただの土の上に、突如、転んだ。
やっぱり首を傾げながら立ち上がって、ふと振り返り、照れたように笑う北川に手を振りながら、香里はひとつ頷いた。
人間と奇蹟スティックの間で、幸福値のやりとりはそんな風に行われる。
だから、今でもあの病室に篭ったきりの栞に奇蹟のような大きな幸福を渡すためには、棒よりも少しだけ幸せな人から、少しずつ幸福を分けてもらうしかない。途中で不幸な人に幸福を渡してもいけないし、度を越して幸福な人を突然不幸にするわけにもいかなかった。
目盛りひとつにも満たない幸福を奪われた北川は、つまづくような石があるわけでも特にぬかるんだりしているわけでもないただの土の上に突如転んだ。‥‥‥プラスにせよマイナスにせよ、例えば目盛り十個分も幸福値が一度に移動したらどんなことになるか、なんて香里としても考えたくはなかった。
そんなことを考える機会なんて栞の時だけでいい。
生涯一度でも充分すぎるくらいだった。
と、なると。
「ん。変身すれば空も飛べるし、誰がどれくらい幸福か、見たらわかるようになるよ?」
飽きもせずたい焼きを齧りながら、こともなげに女の子は言った。
やっぱり。‥‥‥香里はかくんと項垂れる。
「でも、でもね美坂さん、美坂さんが考えてるようなやり方じゃダメだよ。大体、奇蹟スティックは幸福を分けてあげるためのもので、分けてもらうためのものじゃないんだよ? 分けてもらってばっかりいると、いつまで経ってもお仕事が終わらないよ?」
「わかってるわ。栞のことが何とかなったら、その後は何でもやってあげるわよ」
「うぐぅ‥‥‥それじゃ順番が逆だよ」
「あなたが人間に戻れないからじゃなくて?」
女の子は本気で困った顔をしているが、香里は敢えて、それには取り合わなかった。
「それもあるけど‥‥‥でも、ううん、そうじゃなくて‥‥‥あの、それにボク、栞ちゃんのことも少しは知ってるつもりだけど、何ていうか、栞ちゃんはそれじゃダメじゃないかな、って」
「考えたってしょうがないわ」
顔色も変えずに、香里は右手をまっすぐ前に差し出す。何もない空間に裂け目のような光が射して、次の瞬間には、どこにもなかった筈の奇蹟スティックが手のひらの上に浮かんでいた。
「行くわよ」
奇蹟スティックを握る右手が僅かに震えた。
「だけど」
「行くしかないのよ、あたしには」
続けて何かをぶつぶつと呟く香里の瞳が、冥い熱情に煌めいた。やがてその熱情は香里を取り巻く光となってその姿を覆う。
そこから光が消えた時、香里の姿もまた、既にそこにはなかった。
幸福値の再配分は、人知れず行われるべきである。
だから変身している間、その姿が誰に見えるようにするかは香里自身が決めてよい。‥‥‥格好が恥ずかしいのはあくまでも香里個人に閉じた問題であって、第三者からどう見えているか、は取り敢えず考えなくてもよい。
「だからってねえ」
怪訝そうな顔で、香里は自分の着ている服を摘む。
「誰が考えるのかしら、こういうの」
「ボクだよ? カッコいいでしょ?」
傍らで能天気に笑う女の子を、きっ、と香里が睨んだ。
「うぐぅ‥‥‥カッコいいのに‥‥‥」
「だったら自分で着なさい」
「着れるんだったら着てみたいけど、ボク背が低いから似合わないよ、きっと」
「似合っても嬉しくないわよ。大体あなた、こんな格好のことなんてどこで憶えてきたの?」
「ん? えっとね、学校の校庭に落ちてた雑誌の写真とか、そういうの」
「な‥‥‥」
なんてものに影響されてくれるのよ。
それ、まるっきりエロ雑誌じゃないの?
言おうとしたが呆れて二の句が継げなかった。
代わりに、深く深く、溜め息をひとつ。
例えば今、目の前で並んで歩いている名雪と相沢くんは、最近どうやら上手くいっているらしい。ただ、万事に醒めている相沢くんの方が、幸福値は若干控えめだ。
定石に従って相沢くんの肩に軽く触れると、
「祐一ーっ!」
長く伸ばした金髪を風に靡かせながら、向こうの角から凄い勢いで走り込んできた女の子が、そのままの速さで相沢くんに突っ込んだ。デニムのジャンパーが、学校帰りで詰襟姿の相沢くんの鳩尾に沈む。
「ぐあっ!」
「ちょっと真琴ちゃん! ダメだよ、もう少しスピード落とさないと」
まだ名雪には何もしていないのに、名雪の幸福度が少し下がった。
「だって真琴そんなに重たくないもん。これくらい支えられないと、真琴がお嫁さんになった時に困っちゃうよ?」
もうひとり、真琴ちゃんと呼ばれた女の子の幸福度は、突っ込む前に比べれば随分と跳ね上がっている。今、その子に何かをしたら、奇蹟のような不幸でも簡単に押しつけてしまうことができそうに思えた。
だからといって原因を作った張本人かも知れない自分がそのままこの場を見過ごすのも何だか悪いような気がして、香里は少々の幸福を名雪に分けてみることにした。
「ほら真琴ちゃ‥‥‥あれ? え?」
相沢くんに駆け寄る背中に触れると、何故か名雪はそこでバランスを崩し、手を触れかけた真琴のジャンパーを勢いで突き飛ばして、今まで真琴が収まっていた位置に名雪が転がり込む形になる。
「うがあっ!」
その下で相沢くんが呻く。下敷きにされっぱなしで不幸なのかと思いきや、真琴の代わりに名雪が転がり込んだことで少し幸福値が上がっているようだ。そういうことをまったく顔に出さないところが、相沢くんの相沢くんらしいところなのかも知れない。
少し笑って、ふわりと空へ舞い上がった香里はその場を後にする。幸福値の収支、という意味ではあまり大きく得るものはなかったが、今回だけは、それはそれで別に構わなかった。同じ幸福値でも、受け取る相手は見ず知らずの誰かの方が気が引けなくていい。
遅れて上がってきた女の子は何やらその三人が気になるようで、離れた距離を時々慌てて縮めるように香里の後を飛びながらそわそわと後ろを振り返っていたが、香里はそんなことは気にも留めていなかった。
「ねえ、ちょっと早過ぎだよ美坂さん」
「そんなことないわ。それに相手はちゃんと選んでいるもの。凄く不幸になった人なんていなかったでしょう?」
「それは‥‥‥そうだけど」
女の子は咎めるように言うが、本来の用途に照らせば間違っているとはいえ、明確な目的のために行動する香里は、それくらいの言葉には揺るがない。
結局、幸福ゲージが目一杯になるまでには数日を要した。香里は今、その幸福値をすべて注ぎ込んで病床の栞に奇蹟を起こすために、まっすぐに病院を目指して空を駆けている。
「ねえ美坂さん、やっぱり多分ダメだよ、それじゃ。栞ちゃんはきっとそれじゃダメだから、だからもう一度」
必死に追い縋って、女の子は香里を止めようとする。
「あなたなんかに栞の何がわかるっていうのよ!」
思わず、香里は声を荒げた。
「わかるよ! ボクは、ボクの身体は、栞ちゃんと同じ病院にずーっと一緒にいるんだよ! 頑張ってるのわかるから、気持ちが焦ってるの、本当、凄くわかってるから‥‥‥こんなこと言っちゃいけないって思うけど! でも、今の美坂さんより、多分ボクは美坂さんより栞ちゃんのことわかってるっ!」
だが今度は、女の子は退かなかった。
とうとう前に回り込んだ女の子は両手を広げて香里を止めようとする。
「そこをどきなさい」
「嫌だ」
「どきなさいっ!」
「嫌だああっ!」
叫んだ女の子を力づくで押し退けて、香里はそのまま、まっすぐに病院を目指す。
「お姉ちゃん?」
ドアを開けずに病室に滑り込んだ香里は、ここに来るまで、何の物音も立てていなかった筈だ。あの『面会謝絶』の白いプレートも、今はドアの向こう側でじっとしている筈だ。
なのに、栞はそんなことを呟いた。譫言のように。
「来てくれたんだ」
衣擦れの音がして、栞の顔が確かに香里の立っている場所を向いていた。僅かに微笑む。
「どうしてわかるの?」
掠れた声で呟いた時にはもう‥‥‥女の子が『それじゃダメだ』と言った意味が、香里にはわかっていた。
「そんなことより栞、あなた悲しくないの? こんな病室にずっと閉じ篭りっぱなしで、せっかく高校に入ったって始業式くらいしか出られなくて、それで」
例えば、早く治ったらいいなあと栞が言うのは、どうして治らなければ自由に学校へも行けないのだろう、という不運の裏返しなどではなかった。
「どうして? だって、それでも私、まだ生きてるよ? これからよくなるかも知れないし、よくならないかも知れないけど‥‥‥でも私、ちゃんと生きてて、ひとりなんかじゃないって、今はちゃんとね、わかってるから」
つまり栞はもう、そういう自分の身の上を嘆いたり呪ったりなどしていなかったのだ。
しかも幸福値に至っては、目一杯にまで幸福を溜め込んだ筈の奇蹟スティックのそれを、僅かだが上回っているようにさえ見えた。香里がそこにいるのがわかるせいかも知れない。
なるほど、今ここで奇蹟スティックを栞に向けても何も起こりはしないだろう。もしかしたらかえってよくない結果が出てしまう可能性もある。
「っていうかお姉ちゃん、その格好どうしたの?」
「え‥‥‥」
慌てて香里は自分の胸元を手で隠す。他にも隠したいところはたくさんあったが、到底、人間ひとりの両手で隠し果せることが可能な面積ではない。
今更のように真っ赤に染まる頬は、纏った服の色によく似ていた。つまり‥‥‥極端に布地の少ない真っ赤なボンテージルックと、やたらに大きな赤いとんがり帽子、そして赤い裏地の黒マント、それぞれの赤い色に。
「魔法使いの女王様?」
「言わないで。あたしも恥ずかしいんだから」
「お姉ちゃん、そういう趣味があったの?」
「言わないでってば! ないわよそんな趣味!」
「くすっ」
「笑うの禁止!」
「あんまり騒ぐと看護婦さん来ちゃうよ?」
「‥‥‥っ!」
ところで、変身を解けば変身前の制服姿に戻る、ということに香里が気づくのは、それからしばらく経った後のことだった。
「‥‥‥と、そんな感じかしらね。まあ、こんな変な話、信じなてくれくてもいいけど」
「信じるなって言われてもお姉ちゃん、さっき入ってくる時にドア開けなかったでしょ? それに、そういう事情でもなかったら、さっきの格好は本当にお姉ちゃんの趣味、ってことになっちゃうと思うよ?」
「しーおーりー」
「きゃあごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
さておき。
事情を説明しても栞は動じなかった。
「それで、その女の子が人間に戻れたら、手伝った人もひとつ奇蹟がもらえるらしいわ。だからそれまで」
「私に使ってくれなくてもいいのに」
「黙りなさい」
「う‥‥‥」
「栞のためじゃなかったら、誰がこんな、こんな恥ずかしい真似するもんですか」
香里の背中がむくれた声で呟く。
栞が憧れた、あの制服を纏った背中。
「だから栞、お願い、もう少しだけ待ってて‥‥‥待ってるってあたしに言って。そうじゃないとあたし」
「ん。待ってる。待ってるから、お姉ちゃん」
「ありがとう」
香里が立ち上がる。丸椅子の足が僅かに音をたてる。
「まじかるみらくるふぁんたすてぃっくらでぃかるふぇいたるえんじぇりっく」
次にその背中が呟いた奇妙な呪文が、ひとつ言葉を増す度に、赤い制服を包み隠すように光は勢いを増して、
「わんだーわーくすーぱーせっしょん、きゅー」
その光が弾けた時、そこに立っているのは。
「やっぱり、魔法使いの女王さ」
言いかけた栞の声に、
「それ言うのも禁止っ!」
『こんぷりーと』
ふたつの声が応えた。
病院の外には、所在なげに女の子が浮かんでいた。
「ダメ、だったでしょ?」
恐る恐る香里に声をかける。
「そうね。ダメだったわ。あなたの言った通りよ」
香里の方は意外にさばさばした様子だった。少し安心したように、女の子が微笑む。
「だから、こうなったらあなたには、一秒でも早く人間に戻ってもらうわ」
「え、でも、そんなに急がなくても」
「あたしは急ぐのよ‥‥‥っと、それともうひとつ」
早速どこかへ飛び立ちかけて、ふと思い出したように、香里は女の子に向き直った。
「いちばん大事なことを聞き忘れていたんだけど」
「え?」
「あなたの名前」
今頃そんなことを訊くのも間が抜けた話ではあった。
「ああっ! そうだね、言ってなかったよ。ボクの方は美坂さんの名前とか知ってたから、気がつかなくって」
女の子がぴしっと姿勢を正す。
「ええと、ボクはあゆだよ。月宮あゆ。これからもよろしくね、美坂さん」
「短いつきあいだけどね」
「うぐぅ‥‥‥」
意地悪なことを言いながら、香里はあゆが差し出したミトンの右手をそっと、しっかりと握った。
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