ふと手元を見ると、提げた籐編みの買い物籠の細い縁、傘の下からはみ出たあたりにも、僅かに雪が積もっていた。
傘の柄を握り直して、買い物帰りの美汐は薄暗い空を仰ぎ見る。
晴れていたらそろそろ日が沈み始めるくらいの時刻だろうか。幸か不幸か今年もイヴから大雪で、明日もホワイトクリスマスになるのは間違いない。太陽がどこまで傾いているかは、厚くて重たい雲の下から見上げる美汐には知る術もなかったが。
湧き出すように際限なく降り続く雪は、見上げていると、雪というよりは塵か何かが舞っているようだ。
「お菓子には程遠いですね」
ぽつりと呟いてた言葉に自分で苦笑を漏らしてから、再び美汐は家路を辿り始める。
さくりと雪を踏みしめる音。
傘の上をさらさらと雪が滑る音。
その他には自分の衣擦れと吐息くらいしか耳に届く音のない世界にいると、街のざわめきの中にいたのが随分昔のことだったような気がしてきて、立ち止まった美汐は背後を振り返る。
なにしろ世間はクリスマスイヴだから、駅前の商店街にはサンタさんの格好をした店員さんやおめかしをしたカップルで溢れ返って、いつにも増して賑やかだった。空の暗さと相俟って、あちこちの電飾を見続けていると目が疲れてしまいそうなくらいに。
パン屋もケーキ屋もコンビニも店先にはサンタクロースに扮した売り子さんを出していた。ファーストフードのサンタクロースさんはフライドチキンのセット売りをしているらしかった。まるで商店街のシンボルか何かのように例外なく玄関のガラスのドアに提げられた、鮮やかな緑色のクリスマスリースが、人の出入りの度に揺れていた。そういえば、仏具屋さんの自動ドアにまでクリスマスリースが掛けられているのを見て、つい吹き出してしまったことを美汐は思い出す。‥‥‥蝋燭を買い足すついでにリースについて尋ねてもみたが、時節柄、以外の理由は特にないらしい。そんなものだろうか。
ところが、世界の隅々にまで行き渡った熱病か何かのようなあのクリスマスイヴでさえも、その繁華街を少し離れてみれば、雪が降る住宅街の静寂には敵わないものらしい。
しんと静まり返った、底冷えのする世界に立っていると‥‥‥また、自分ひとりだけが今いる場所に取り残されたような気がしてくる。
心なしか、さっきよりも少し大きく足音を立てさせながら、歩き始めた美汐の耳に不思議な音が届く。
金網と雑木の間から覗き込んだ公園の中もすっかり雪景色に変わっている。今が昼間で、聴こえたのがそこを走り回る子供の笑い声であれば、そんな音がすることくらい別に不思議なことではないのだが。
しかし今は、誰かが遊んでいるような様子もない。
ぎしり。金属が軋むようなその音がまた聴こえる。
もう一度、公園の中を覗き込む。
向こう側の入り口から公園の中へ、もう新雪に消されかかったひとり分の足跡があって。
その足跡を目で追う視線は、砂場がある筈の場所を避けるように緩いカーブを描いて、ブランコに辿り着く。
そして、そこに。
こんな雪の日に傘も差さず、ブランコにひとり腰掛けて、僅かに揺らしている誰かが見えた。
ダッフルコートに膝まですっぽり納まった小柄な女の子の足の上には、一抱えもあるような紙袋と、その紙袋や、頭の上や、ダッフルコートの肩に薄く積もった雪。
そのダッフルコートや、僅かに見える赤いカチューシャに、美汐は見覚えがあった。
「こんにちは」
歩み寄って、女の子の頭上に傘を差しかける。
「ん? ‥‥‥あ、こんにちは。また会ったね」
俯いていた女の子は驚いたように顔を上げ、それから、嬉しそうに笑う。
「どうしたんですか、こんな雪なのにこんなところで。風邪を引いてしまいますよ?」
「あー、んーと、そうなんだけど。でも今日はちょっと、いる場所がなくって」
歯切れの悪い言葉。
「何かあったんですか?」
「‥‥‥ううん、何でもない。大丈夫だよ」
無理をして笑っている、とわかってしまう笑顔。
「そうだ。本当にいる場所がないのでしたら、こんな寒いところにいないで、これから私の家に来ませんか?」
「え? だって、でも」
左の肘に買い物篭を提げ直して、その手で女の子のミトンの手を取る。
その腕を辿って這い上がってきた縋るような弱々しい視線は、最後の最後で美汐の瞳に触れることを避けた。
「大丈夫です。それに」
美汐はミトンの手を引いて、目を伏せた女の子を立たせる。
「実は私も、今晩は家にひとりなんです」
俯いたまま小さく頷いた女の子の動きに合わせて、大きな紙袋ががさりと音を立てた。
今度はふたり分の足跡を雪の上に刻みながら、美汐は女の子と連れ立って歩いている。
女の子を傘に入れるために美汐の左肩が大きく傘からはみ出してしまっていたが、背の低い女の子はそのことには気づいていないようだった。
「大きな紙袋ですね」
「うん。ケーキと、あと、クリスマスリース」
「ケーキですか」
「秋子さんに作ってもらったんだよ。友達とかと食べるんだよって、ちょっと嘘ついて」
秋子さん、と名前で呼ばれても、美汐には誰のことだかわからないが。
しかしそれよりも。
「嘘、ですか?」
‥‥‥不意に。
「あのね。ずーっと大好きだった、会いたかった人に、この間ボク、やっと会えたんだ」
女の子はそこに立ち止まる。
「七年も会えないでいたから、会えるだけでいいって‥‥‥会えるだけでいいってボクは思ってるって、自分のこと、そう思ってた」
道路のアスファルトに積もった雪のすぐ上を掠めるように紙袋が揺れている。
「でも違ったよ。会えたんだってわかったら、今度は、ボクのことをいちばん好きでいてくれないのはどうしてって、そんなこと思っちゃうんだ」
ぎしり。
「その人のこと、今でも好きだよ。その人がいちばん好きな人のことも、本当にボク、すっごく好きだよ。でもね、でも、やっぱり」
ブランコの鎖が軋むあの音が、
「今日みたいな日に、その人たちとみんなで一緒にいるのは‥‥‥」
力なくぶら提げられた腕の付け根のあたりから、
「いくらボクがふたりとも好きだっていっても、ちょっと、辛い」
美汐の耳の奥には、まだ届き続けている、ような気がしてくる。
傘を左手に持ち替えて、美汐は女の子のミトンをそっと握る。
握り返す力の情けない弱さが、女の子の悲しみの深さを物語っているように感じる。
「家に着いたら、泣いてもいいですよ」
「いいの?」
「ええ」
だから美汐はそんなことを言った。
「泣き疲れたら、そうですね、お風呂に入って、ごはんを食べて、ケーキも食べて」
ありきたりな慰めや、どこにでもある励ましや。
そういう種類の言葉が‥‥‥本当に悲しい人に対してはまったく無力であることを、美汐自身がとてもよく知っていたから、かも知れなかった。
「ああ、でもその前に」
「え?」
「その紙袋、リースも入っているんですよね。せっかくですから玄関に飾りましょう」
時節柄、という理由でクリスマスリースを用意する習慣は天野家にはなかった。美汐の家の玄関は、今日もまだ、いつもと同じ玄関だ。
「そうだけど‥‥‥でも、いいよ。ボクが作ったんだけど、ちょっと下手だから」
「あら。下手でもいいじゃないですか。頑張って作ったんでしょう?」
「ん、頑張ったけど」
「それなら、それはあなたが頑張った証拠じゃないですか。飾らないなんて勿体ないことですよ」
「笑われ、ないかな」
言葉で答える代わりに、右手のミトンを握り直す。
「さ、行きましょう」
「‥‥‥ん」
街灯に照らされた吐息が白い。
もともと暗かった空気の色が、すっかり夜の色になっている、と美汐は気づく。
出掛ける前に考えていたより随分と長い時間が経ってしまったようだが‥‥‥ともかくも。
もうひとつ角を曲がれば、美汐の家が見えてくる。
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