本当は、かの母と娘は背徳の館に棲んでいた。
日常の隙間に人知れず巣を張り巡らせて、
そう、まるで獲物を待つ蜘蛛のように。
本当は‥‥‥
水瀬家の闇は、とても昏く、とても深い。
home, sweet home.
他の家のことなんかそんなに詳しく知ってるわけじゃないから本当はわからないが、多分まあ、水瀬家の風呂は大きい方なんだろうと思う。
例えば実家に今戻ったとしても、あの風呂桶に浸かったままこんな風に両足伸ばすのは無理だろう。あゆは自分がちびっ子だからあんまり関係ないかも知れないけど、名雪にウチの風呂見せたら狭くて驚くかな。そんなことをちょっと思う。
だからあっちでは、自分の身体をもっと小さく折り畳んで、こう、体育座りか何かみたいに‥‥‥思い出した通りに縮こまってみて、
「ふいー」
息を吐きながら、もう一度、手足をぐっと伸ばして。
「やっぱ風呂はこっちがいいなー」
耳たぶが水面に触れるくらい、深くまで身体を沈める。呟いた声の後ろ半分はお湯の中で泡に変わって、目の前でぶくぶく割れる。
「‥‥‥あ」
ごぼん、と大きな泡がひとつ上がった。
そういえば、あゆも名雪も、「お湯は落としておいてください」って言われたから多分秋子さんも、今晩はもう風呂に入った後の筈だ。
あの三人が浸かった後のお湯。
‥‥‥いや、女所帯に男ひとりの境遇からすれば別にいつものことでしかないんだが。
意識してしまうと途端に少し気恥ずかしくて、目を逸らすように視線だけ上にずらすと、小さめの窓硝子の向こうに、たくさんの小さな星と、綺麗な三日月が見えた。
そんなこんなで、のぼせそうなくらい風呂に浸かった俺が、脱衣所から廊下へ出たところで。
『あ、名雪さん、そこ』
『ん? きもちいい?』
僅かな衣擦れの音と共に、そんなおかしな会話が耳に届いた‥‥‥ような気がしたのは、きっと長湯でのぼせたせいに違いなかった。
『んー、でも、あんまりよく見えないよ。ねえ、もうちょっと明るくしよ?』
まず、自分の耳を疑って、それから。
取り敢えず頬を抓ってみたが、ちゃんと痛かった。
脱衣所のドアの擦り硝子に指先で触れてみたが、ちゃんと冷たかった。
『え、でも、それは』
両耳を塞いだら、聞こえる声がちゃんと遠くなった。
『それは‥‥‥でも、ボク‥‥‥恥ずかしいよ‥‥‥』
耳栓にしていた指を退けると、遠くなった声がちゃんと近くに戻ってきて、馬鹿みたいにぽかんと口を開けて俺はその場に棒立ちになった。
声色と口調から察するに、その声の主は名雪とあゆで、声は居間から聞こえているようだ。
だが、居間に続くドアはきちんと閉じられ、中が暗いか明るいかもわからない。もちろん、中で名雪とあゆが一体何をしているのか、それも。全然。
『でも、暗いと危ないよ? わたし、なんか変なとこ刺しちゃうかも、だよ?』
ナニをだよ。
『でも、そんなトコ、あんまり綺麗じゃないと思うし』
だからドコがだよ!
まあ待て。
落ち着け俺。
はい深呼吸。すーはーすーはー。
‥‥‥よし。
では冷静に考えてみよう。
今のところ、ドアの向こうから聞こえる声が名雪があゆをいぢめて遊んでいる声にしか聞こえないワケだが、桃色っぽくて何となくアレげな妄想がもやもやと膨らむばかりの頭では、健康な男子であるところの俺がそんな現場に踏み込んだとしても、上手く立ち回って問題を解決して後に禍根が残らないハッピーエンドな未来の可能性なんか全然想像できないワケで、しかしだがしかし、俺がこうして躊躇っている間にも、あゆは着々と名雪の毒牙に、って毒牙ってなんだ一体いやいかんいかん考える側から中身があっちへ行ってしまうっ!
こんな時にはどうすればいいんだ俺?
そうだ、
「秋子さんだ」
掠れた声が呟いた。
それは、確かに、俺の声、だった。
口に出して言ったつもりはなかったのに。
‥‥‥慌てて両手で口を押さえる。
頭上と足元から凍りついた時間がにじり寄ってくる。
心なしか、廊下で固まった俺だけでなく、居間の中まで不自然に静まりかえってしまった気がする。
頭の中に響くのは、ただ、自分の胸の鼓動だけ。
かさり。
どっちがどこでどう身を捩ったのか知らないが、次の衣擦れの音を聞き取るまでの、長い、長い沈黙に続いて。
『外、誰かいるよ? ね、止めよう、名雪さん?』
恐る恐る、あゆの訊ねる声。
‥‥‥バレてる?
固くなった自分の身体がさらに固くなる。
『誰もいないよ。それよりほら、ここ、もう少し退けて?』
『うぐぅ‥‥‥でも‥‥‥』
何か恥ずかしいことをしているに違いないのにろくに確かめもしない名雪のおおらかさに今は感謝‥‥‥つーか、何でそんなに積極的なんですか名雪さん?
声に出して突っ込んでやりたいのを必死で堪える俺の耳に、容赦ない絶望の音が、ある声を伴って、届いた。
『でも確かに、名雪の言う通りにしないと、ちょっと危ないかも知れませんよ、あゆちゃん?』
い、いらっしゃったんですか。秋子さんもそこに。
‥‥‥最初から、秋子さんもそこに!
『それとも、懐中電灯の方がいいかしら?』
しかも何か、名雪をけしかけてらっしゃいますか?
『んー、よく見えれば別に何でも』
ドコをだ! ドコを!
『ええっ‥‥‥でも‥‥‥』
恥じらうようなあゆの声は、しかし、今にもふたりに押し切られてしまいそうに弱々しい。
つーか秋子さんは大人だからきっと味方だと信じてたのに、名雪と一緒によってたかって一体あゆにナニを!
大人なんて、大人なんてえええっ!
非常に不利な戦線を立て直すべく、相沢二等兵には作戦司令部への引き上げが命令された。実際は何のことはない、さっきまでいた脱衣所に逃げ戻っただけだが。
磨り硝子のドアをぴしゃりと閉めて、今まで息を殺していた分を取り返すように荒い息を吐きながら気持ちを落ち着ける。
しかし厄介なことになった。
アレを今すぐどうにかするのは実はそんなに難しいことじゃない。踏み込むだけでいいんだから。
だが、明日も明後日も、というか俺と名雪は今高校の二年だから恐らく最低でも俺たちが高校を卒業するまで、俺の水瀬家での居候暮らしは続いていく筈だ。
加害者はその水瀬家家長及び令嬢。
今にも籠絡されかかっているのは俺と同じ居候の身。
迂闊に踏み込んで俺の平穏な居候生活が崩壊するのは避けなければならない事態といえるだろう。ええとほら、全員女なんだから別に減るモンや失くなるモンはまあないだろうし。いや、やり方次第じゃ失くなる方は何かあるかも知れないがそれはさておき。
『うぐぅっ! ひどいよ祐一くん! そんな簡単にさておいてないで、ちゃんとボクのこと助けてよぉ!』
頭の中で被害者が叫んだ。
『って、拝んでないで助けてってばっ!』
かんじーざいぼーさつぎょーじんはんにゃーはーらーみーたーじー。
‥‥‥どういう理由か般若心経を一部唱えることが可能な俺、という新たな発見と共に。
どうにもならないようなら被害届の方を闇に葬るが、どうにかできそうだったら何とかする、という柔軟性ばかりに著しく富んだ基本プランが確立した。
すーっと大きく息を吸って、磨り硝子のドアにそっと手を掛け、音をたてないように開いていく。
相沢二等兵、作戦再開。
というワケで俺は今、洗面台から持ってきたチャチなプラスチックのコップをドアにそっと当てて、それを使って中の様子を窺っているワケなのだが。
いや、あー、勘違いしないように。コレは別に幼気なあゆが水瀬母娘に蹂躙され、抗う術もなくめくるめく倒錯の世界へと引き込まれていくのをハアハア言いながら盗み聞きしている、とかいうアレでは断じてなく、つまりアレだ、その、そうそう「敵を知り、己は知らんプリすれば百戦危うからず」という基本に‥‥‥あれ何か違ったっけ? まあともかくそういう孟子の、って孫子だったっけか、そういう古来の兵法に則ったリサーチの一環としてだな、
『わ、あゆちゃんのここ』
『うぐぅっ! そんなとこ、いきなり摘んだら‥‥‥』
『柔らかいね。かわいいよ』
コップの底に当てた片方の耳から、さっきよりもはっきりと聞こえてくる音に、今の今まで並べていた言い訳の続きなど全部吹き飛んでしまった。
息遣い。衣擦れの音。
『でも、ボク‥‥‥あ‥‥‥こんなこと‥‥‥今まで』
追い詰められたようなあゆの言葉。
『誰も、してくれなかった? それじゃ、あゆちゃんのお母さんは?』
囁くような名雪の言葉。
『ん‥‥‥んんっ‥‥‥一度も‥‥‥うぐうっ』
ごくり。‥‥‥生唾呑み込んで何のリサーチだ、とか突っ込むの禁止。
『そうなんだ。わたしの時はね、お母さんが』
『名雪、好きだったものね』
『ん。だから、あゆちゃんも好きかな、って』
今明かされる衝撃の真実。
‥‥‥元からそんなだったのかよここの家は!
なんてウチと親戚だったんだ俺って奴はっ!
『んー、お風呂上がりだから、ちょっと湿ってる感じ?』
湿って、って名雪。
『うぐうっ‥‥‥恥ずか、しい、よ‥‥‥』
『あら、でも乾いている時は怪我をしやすいのよ。女の子はそういうことも憶えておかないとね。あゆちゃんも』
『ん、んっ‥‥‥んっ』
‥‥‥っだああああああああああああああああっ!
不本意ながら二度目の戦略的転進。
浅い呼吸を繰り返しながら、再び脱衣所に立て篭もる。
それにしても‥‥‥明日からもこの家で、本当に俺は今まで通りに暮らせるんだろうか。そんなコト全然知らないみたいに、明日の朝、俺はあの三人に笑って『おはよう』って言えるんだろうか。正直、自信はない。
ならいっそ‥‥‥いっそ、あの居間に飛び込んで、俺も喰われてしまったら、その方が楽になれるだろうか。
「っていうか、祐一」
笑って『おはよう』とは言えなくても、秘密に気づいてしまったことを秘密にしているよりは、まだしも。
「こんなところに座り込んで、どうしたの?」
全員が同じ闇の中にいさえすれば、こんな風に普通に名雪とも喋ったり‥‥‥って、
「うわああああああ名雪いいいっ」
いつの間にか。
「本当にどうしたの? 風邪ひいちゃうよ?」
脱衣所の入口に立った名雪が、俺を見下ろしていた。
「どうしたのっていうか、あれ?」
薄暗がりの中でははっきりしたことはわからないが、名雪のたたずまいは、何だか、あまりにも普段通りで。
「なあに? 祐一、さっきからちょっとおかしいよ?」
着崩れた様子も、息が上がったような様子もなく。
「いや、それより、お前‥‥‥そこの居間で、何、を」
恐る恐る、訊ねてみる。
「ん? 変なこと聞くんだね、祐一」
艶やかな唇を笑うかたちに開いて。
「あゆちゃんの耳掃除をしてたんだけど。なんか気持ちよかったみたいで、さっきから寝ちゃってるよ」
無邪気な闇の娘は、そう言って、微笑む。
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