ゆらゆらと微かな陽炎が立つコンクリートの階段は自転車でも走れそうなくらいに低く、だがそれだけに物凄い段数を連ねて、なだらかに続く丘の斜面をなぞるように、そこから先へも長々と続いていく。
花束をふたつ抱え、コンビニのビニール袋を手首に引っ掛けた名雪に並んで、重そうな水桶と柄杓、さらに二本の箒を提げた祐一が、その坂道のような階段を上がっていく。桶の水はさっき井戸から汲み上げたばかりの冷たい水なのに、ここまで歩いているうちに、もう上の方は微温みかけているようだ。
吹き出るような汗を拭おうにも両手は塞がっていてどうにもならない。穏やかに白熱する風景を際限なく目に入れていては目眩がしそうで、細めた目蓋の間から照りつける太陽を恨めしそうに見上げながら、
「暑いな今年も」
大袈裟な溜め息と一緒に、思わず祐一は呟いた。
「それ毎年言ってるよ、祐一」
鍔の広い麦わら帽子が作った薄い影の中で、名雪の目がしょうがないなあと笑っている。
「でも時々くらい、雨が降る年があってもいいと思わないか?」
「雨が降ったらお花とか持って歩くの大変だから、暑くても晴れてる方がいいと思うよ? 曇ってて涼しいのだったらいいかも知れないけど‥‥‥ん、でも」
そこでわざと言葉を切って、立ち止まった名雪は祐一と同じように太陽を見上げ、
「ね?」
それから、祐一の顔を覗き込んだ。
「だな」
告げられなかった言葉の続きに祐一は頷いてみせた。
そしてまた、ふたりは歩き始める。
ようやく辿り着いてみると、そこには屈み込んでいる先客の背中がある。
几帳面に畳まれた日傘やハンドバッグと一緒に、傍らに置かれた水桶は祐一のそれと同じように冷水で満たされている。彼女もまた、この重い水桶を提げて、あの目眩のしそうな階段をここまで上がってきたのだろう。
「お。奇遇だな」
祐一はそんな風に声をかけ、
「そうでしょうか?」
手を合わせたまま、振り返りもせずに背中は答える。
「‥‥‥祐一、それも毎年やってるよ。天野さんも」
こんにちはの挨拶よりも先に交わされる軽いやりとりは大体毎年こんな風だ。呆れたような名雪の突っ込みも、二年目以降はほとんど同じだった。
「私も毎年そう思うのですが、相沢さん」
しゃがみ込んでいた美汐は立ち上がり、ようやく祐一たちに向き直る。そこに祐一と名雪が立っているのは実際いつものことだったし、だからそれは、別に今更驚くようなことでもない。
「奇遇、ではないと思います。そういう日ですから」
「実はそう思って毎年ちょっとずつ時間遅くしたりしてみてるんだけど、でも、会うよな」
「そうだったんですか。それは知りませんでした」
「え? ‥‥‥えええ? そうだったの?」
小さく首を傾げた美汐だけでなく、何故かそこで、一緒に時間をずらしている筈の名雪も目を丸くする。
「だんだん名雪が素直に起きなくなってる、と正直に言って欲しいのか?」
「うー、そっそんなことないよー」
名雪の抗弁を聞き流しながら、やれやれ、と祐一は肩を竦める。実はそれは単なる事実で、それだけに始末に負えなかったりもするのだった。
「そのうち、次の日になるまで起きないようになるんじゃないのか? 流石にそうなれば、ここに来る日もずれるだろうとは思うが」
「それは起きたうちに入らないと思います」
「だから、だからそんなことないんだってばー。天野さんも信じてよー」
ぶつぶつと文句を言う名雪たちの前から美汐が一歩退いた。まだ顔を顰めている名雪と、明らかにからかって遊んでいる顔の祐一が、それでも並んで進み出る。
彼らの目の前には、狐のかたちに彫刻された石づくりの小さなモニュメントがあった。すぐ脇に立てられた石碑には、ひとつだけ、「沢渡真琴」の名前。
よお、また来たぞ真琴。元気にしてたか?
声になったかならないか、くらいの僅かな音が、祐一の唇から零れた。
「ふー。大体こんなもんかー」
「わっ祐一、それお隣のお墓だよ」
「っと」
手近なところにへたり込むように腰かけた祐一は名雪の注意で途端に立ち上がらされる。
失礼な祐一の代わりにか、隣の墓所に向かって美汐が小さく頭を下げた。
「座るんだったらこっちにすればいいのに」
名雪が指を差すのは、たった今拭き掃除が終わったばかりの、真琴の名前が刻まれた石碑だ。
「ってそれ真琴のだろ。真琴のはいいのか?」
「真琴のじゃなかったらいいの?」
「そういう問題ではありません、おふたりとも。子供じゃないんですから、こういう場所にいる時くらいはお行儀よく」
見かねて口を出した美汐のすぐ後ろを、何人かの子供が騒がしく駆けて行った。
「あれはいいのか?」
「それはそれ、これはこれです」
「ちっ、引っ掛からないか」
「な・に・か・お・っ・しゃ・い・ま・し・た・か?」
いつにない凄みを纏った美汐の怒り顔が祐一の顔にぐっと迫る。
「いいえ滅相もありません」
控えめに表現しようにも『据わっている』の他に形容のしようがない目にしかもこうも至近から睨まれては、いかに祐一といえども平伏するしかないようだった。
「まあまあ、天野さんもそれくらいで。ほら、お掃除も終わったし、休憩にしようよ。ね?」
まだぶつぶつと何か言っている美汐の手に、冷たいラムネの壜が押し当てられる。
本当は、それが水桶から取り出されてくることに関しても何か言いたいことがある様子の美汐だが、それももう何年か前にも言ったことがあった筈だった。そう、確かあの時は、丸のままの白桃が幾つもごろごろと、ついでに鞘ごと果物ナイフも出てきたのではなかったか。
小さく息を吐いて、美汐は壜を受け取る。
ハンドバッグからハンカチを取り出して壜の口を丁寧に拭く。プラスチックの栓を押し込むと、壜の中でビー球が転がる音。口の狭い壜の中で炭酸が弾ける音。
かこんかこんかこんと、続けてビー球が落ちる音が聞こえた。向き直ると祐一は、三本のラムネの封を立て続けに切って、そのうち二本を狐の像の前に立てて。
「今年はラムネだぞ、真琴。お前の好きな肉まんは夏だからコンビニじゃ売ってないけどな、代わりにほら、夏には夏のお楽しみって奴がこんなにあるんだ」
右手で軽く掲げた残り一本の壜に、名雪の手にある壜がかちんと触れた。
この霊園に立ち並ぶ幾つもの墓石の中に、人間が葬られていないものは今のところひとつしかない。つまりそれが、この狐の像だ。
「本当は、あの丘のどこかに建てられたらよかったのかも知れないけれど、そういうわけにもいかないものね」
あの丘がある方角の空を見つめて、前に秋子がそう呟いたことがある。だが、誰のものだかわからないものみの丘にそれを据えるために、何をどう手続きしたらいいのかは結局誰も知らなかったし‥‥‥大体、人が、もしかしたら人の領域ではないのかも知れないそこに、そんな人の追憶のためだけのモニュメントなどを置いてくるべきではない、ようにも思えた。
それに、こうなったことによる余録も少々はある。
例えばそのおかげで、毎年お盆になれば、美汐も墓参りをしようという気になれる。
示し合わせたわけでもないのに毎年相沢さんや水瀬さんに出会って、偶然一緒に墓の掃除などすることになって、たまたま一緒に、今年はこうしてラムネの壜など傾けながら‥‥‥今はまだほんの少しだけでも、あの子の話も自然にできたらいい、と思える。
これがもしあの丘に直接建てられたりしていたなら、墓前で手を合わせるようなことをする覚悟がきちんとできるまでに何年かかるか、美汐自身にもわかったものではなかった。
どうも今年は風がないようで、前にいつ鳴ったか忘れかけるくらいの時間が経たないと、軒先に吊るされた風鈴が次の音を奏でない。
遠くや近くのあちこちでは相変わらず五月蝿いくらいに蝉が鳴いている。
窓の外にある風景はあらゆるものが強い光に縁取られ、世界が熱に浮かされているように祐一には見えた。Tシャツの襟元を団扇で扇ぎながら、目を灼くような白い風景からテレビの方へ時々視線を逃がす。
テレビは野球の実況中継を淡々と続けている。息詰まる投手戦、という種類の試合展開は、興味のある向きには見応えがあるのかも知れないが、取り敢えずこの居間にそれを喜ぶ野球ファンはいなかったから、テレビはただ点いているだけで、誰も観てはいなかった。
「毎年そこだよな」
居間の中から祐一が声をかける。
「ええ。特等席ですから」
「何のだよ?」
「お庭です」
短く答えて、美汐は湯呑みのお茶を啜った。
お盆が来る度、真琴の墓の前で祐一たちに会うようになってから、美汐の年中行事には何となく『水瀬家でお茶をご馳走になる』ことも追加されていた。
水瀬家の居間の縁側から眺める小さな庭の景色が好きで、大体はそこに腰かけて、真夏も盛りだというのにひとりだけ熱い緑茶を啜りながら、静かに庭を見つめていた。もう何年も居候していて、庭も見慣れてしまっている祐一には、いつまでも飽きもせずに縁側に腰かけている美汐の気持ちは本当はよくわからない。
「きっとね、天野さん家はマンションとかの上の方なんだよ。わからないけど、そうじゃないかなって思う」
ストローから唇を離して、名雪が耳打ちした。
「そんなこと、どうしてわかるんだ?」
「だから、お庭がないお家なんだよ。それに、そういうお家って大体ペットは飼っちゃいけない決まりになってるから。それで天野さん‥‥‥その、だから、うー」
名雪は唇を噛んだ。そんな蒸し返すようなことを言うつもりじゃなかったのに、と小さく顔に書いてあった。
「よくご存じですね」
美汐の背中が答える。名雪としてはひそひそ話のつもりだったが、実際は全部筒抜けだったようだ。
「あ‥‥‥えっと」
美汐の言葉から伝わってくる、昨夜の献立を言い当てられた、くらいの簡単さが余計に気まずくて、俯くしかない名雪の頭を祐一が撫でる。‥‥‥言葉を伴わないことまでもが筒抜けになっているかのように、美汐はくすりと笑みを零した。
「いいんです水瀬さん。気にしないでください」
「って本人も言ってることだし、な、名雪」
「相沢さんは少し気にしてください」
「‥‥‥あのな天野」
他愛ないやりとりに笑いあう間にも、何気ない真夏の一日はゆったりと過ぎてゆく。
ややあって。
「あら」
美汐の声と。
縁台に湯呑みを置く、ことん、という音。
「みーしーおーっ!」
必要以上に勢いよく手を振りながら、全力で駆けてくる真琴の姿が見えた。
「あら」
美汐の声と。
縁台に湯呑みを置く、ことん、という音。
「こんにちは、真琴」
「なんだ。みしお、あんまりおどろかないんだね。なんかつまんないなー」
辿り着くなり、不満そうに口を尖らせる。
もちろん、驚いていない、というわけでもないのだが、そもそもお盆とは大雑把に言えば『彼岸のたましいが此岸に還る日』だということを美汐は知ってもいる。
驚いたように見えなかったのは‥‥‥お盆だし、という予感のような、もしかしたら期待のような何かが、頭の片隅、本人の意識のちょっと外側くらいにあったから、かも知れなかった。
「つまんない、って‥‥‥そういう問題ですか?」
「ん。そーゆーもんだい!」
我侭に断定してみせて、それから、駆けてきた真琴は美汐の膝の上にぴょんと飛び乗る。
「ね、さっきの、えっと‥‥‥しゅわしゅわーってなる、えっと、ら、ら」
「ラムネ?」
「そうそうラムネ! あれすっごくおいしかったよ。あたし、こんどもあれがいいな」
「あれは私が持って行ったのではありませんよ。相沢さんたちに直接言ってください。きっと喜びますから」
「でもゆういち、いまおきてるからダメだよ」
首を巡らせるが、表の眩しさに慣れた目でいきなり屋内を覗き込んでも、様子はいまひとつよくわからない。
「‥‥‥って、私も起きてるじゃないですか」
「そう?」
不思議なことを呟きながら真琴は姿勢を変えた。美汐の太股に頭を載せて独占し、日に焼けた縁台の上でくるんと丸くなる。
「ここまでずーっとはしってきたから、ちょっと、つかれちゃったかも」
そこに真琴の頭があるのが美汐にはわかったが、しかし重さは感じられなかった。
すぐにうとうとし始める真琴の金髪を何とはなしに指で梳いていたら、何だか美汐まで眠たくなってきて。
他所のお庭で寝てはいけないのに、などと殊勝なことを思いながらも、抗いきれない美汐の意識は、真っ白い闇の中へと少しずつ溶け出していった。
「いつの間にこんなことになってるんだ天野は」
縁台に腰かけ、窓枠に凭れかかってすうすうと寝息を立てる美汐の手が、膝の上の何もない空間をそっと撫でるように揺れていた。
「あれ。寝ちゃってる?」
「いいよ起こさなくても。そのままにしとこう」
揺り起こそうとする名雪を祐一が制する。
「まあ、簾でも降ろしといてさ」
「ん。そうだね」
軒先にたくし上げられていた簾がするすると降ろされて、美汐の上に影を作る。
「んー、膝より下と、あとサンダルだから足が出ちゃってるね。バスタオルでいいかな」
穏やかに紫煙をあげる蚊取り線香を湯呑みの代わりに置いて、名雪は台所へと向かう。
その名雪がキッチンに入るのとほぼ同時に、廊下で電話の呼び出し音が鳴った。
「っと‥‥‥はい、水瀬です」
名雪の代わりに祐一が受話器を取る。
『あら。秋子です。祐一さん、もう戻っていたんですね。名雪も?』
「いますよ。替わりましょうか?」
『お願いします』
「はい‥‥‥あ、名雪名雪、秋子さんから」
バスタオルを出してきた名雪がちょうど後ろを通りかかって、受話器と交換したバスタオルを片手に、祐一は再び縁側へ出る。
「祐一ー、お母さんがねー」
ふわりと膝にバスタオルを被せたところで、電話口から名雪の呼ぶ声が聞こえて。
実はしばらく美汐の寝顔を堪能してやろうと企んでいた祐一は、苦笑をひとつ置いて大人しくそこを離れた。
「すずしくなってきたねー、みしお」
微かな声が耳に届いて、美汐は目を開けた。
太陽の時間はそろそろ終わりかけているらしい。赤く染まった青空を連れて、夕陽は遠い山の向こうへ沈もうとしている。
いつの間にか、ひたすら喧しい蝉の声も、控えめな鈴虫の声と交代していた。それだけでも大分涼しくなったように感じられる。
「起きていたんですか?」
「ん。ちょっとまえから」
「そうですか‥‥‥ああ、いけません。私も少し眠ってしまいました」
多分、その間も、美汐は真琴の髪を梳いていた。
眠りながらでも手は動いていたらしい。そうと知った途端に肩が凝っているような気がして、ぶらぶらと手首を振って凝りを解す。
「みしお、まだねてるよ?」
「え?」
真琴はさっきもそんなことを言っていなかったか。
そのことについて考えようとしてみたが、何故だか、何も思い出せそうになかった。
「でも、あたしは、そろそろもどらないと」
「どこへ?」
「あっち」
寝転んだままの真琴が暮れかけた空を指差す。
「それでね、みしお。きょうはね、みしおにおねがいがあるんだ」
「何ですか?」
「なまえ。あたしのなまえのよこにね、もうひとつ、なまえ、かいてあげてよ」
ふと、髪を梳く手が止まる。
「あたしのなまえはかいてあるから、このばしょはあたしがいたことをおぼえてて、だからときどき、かえってこれるけど‥‥‥ね、みしお、あいたいって。すっごくあいたいんだって。だから」
「そう、ですか」
横になった真琴の頬に、ぽつぽつと雫が落ちる。
「あれ? みしお、あめ、ふってきた?」
「ああ、そうかも知れません。ほら、夏の‥‥‥お天気は、変わりやすい、ですから」
雲のひとかけらも見当たらない夕焼け空の下に、ほんの束の間、天気雨は降り続いた。
次に美汐が目を覚ました頃には、簾の向こうの空はとうに暗くなっていた。
膝のバスタオルのさらに上に、腰のあたりから夏掛けが掛けられていて、その夏掛けに不自然な‥‥‥まるで誰かの頭がそこにあったような凹みを見つけて。
ずっと動かしてでもいたかのような痺れの残る手で、目尻に残った涙の痕を拭って、美汐は小さく笑う。
「あ。天野さん、起きたかな?」
身動ぎに気づいたか、名雪と祐一が降りてきた。
「すみません、眠ってしまったようです」
「そんなの気にするなって。俺も堪能したし」
「たっ‥‥‥な、何をですか?」
「膝枕」
ぼんっ、と音がしそうな勢いで、美汐の顔が一気に真っ赤になる。
「ゆっゆっゆっ祐一の馬鹿あああっ!」
あまりといえばあまりの仕打ちに止まってしまった美汐の代わりに、名雪がばちんと祐一の頭を叩いた。
「ててっ‥‥‥あのな。名雪お前、あれからだってずっと俺と一緒にいただろ? あれでいつ俺が、天野に膝枕してもらえたんだ?」
「あ、そういえばそうだね。うん」
感心したように頷く名雪の横で、祐一は頻りに頭をさすっている。叩かれ損としか言いようがない。
「あの、つまり、それで私は、ひっ、膝」
改めて夏掛けの窪みに目を落とし、
「なんてことをするんですか相沢さんっ」
憮然と美汐が呟く。
「何もしてないって、だから」
飄々と祐一は答える。
「ほら、起きたなら顔洗ってこいよ。夕飯にしようぜ」
「いえ。ですがそこまでお世話になるわけには」
「あらあら、それは困りましたね」
向こうから秋子が口を挟む。
「実はもう作っちゃったんですよ。天野さんの分も」
「え‥‥‥」
「用意したのに残してかれる方が迷惑だよな、天野?」
タオルを投げて渡しながらいかにも人の悪そうな笑みを浮かべた祐一は、
「そんな意地悪そうな顔ばっかりしてるから、天野さんに信用してもらえないんだと思うよ、祐一」
途端に名雪から至極もっともな突っ込みを入れられ、ぐうの音も出せなくなっていた。
座りっ放しで凝り固まった足をよろよろさせながら、美汐が縁台に立ち上がる。
振り返って居間を覗いてみると、確かに、食事の用意は済んでいるようだった。奥で秋子がにこにこ笑いながら美汐を見ている。
「あの、お願いがあるんです」
秋子の前に端座した美汐はそんな風に話を切り出し、
「了承」
「え、あの‥‥‥え?」
用件も説明しないうちから了承されて驚いた。
「さっき、真琴が来ていたでしょう?」
まるで見ていたかのように秋子は訊ねる。
「え、真琴? どこに? どこ?」
真琴がそこにいたのは確かに『さっき』であった。今頃になって名雪が周囲を見回したところで、帰ってしまった真琴はもういない。
秋子には本当に見えていたのかも知れなかった。
「真琴にお願いされたのでしょう?」
「はい‥‥‥いえ。いいえ」
一旦は頷いてから、
「確かに、真琴からもそう言われました。でもそれは真琴だけのお願いではありません、私の」
決然と顔を上げ、しかし美汐は敢えて言い直す。
「それは私の望みでもあるんです」
やわらかな笑みを湛えて、秋子はもう一度頷いた。
「ええ。もちろん了承です。それでは、お食事でもしながら、そのことはみんなで相談しましょうか」
『みーしーおーっ!』
どこか遠いところから大声で呼ばれた気がして。
『あーりーがーとーっ! まーたーねーっ!』
振り返ると、見上げた月のさらに上に腰掛けた真琴ともうひとりが、物凄い勢いでぶんぶんと手を振っているのが、美汐には見えたような気がした。
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