「おや舞ちゃん、まだ帰ってなかったのかね」
店主は陽気に声をかけながら、ドアの近くに立っていた舞の背中を軽く叩こうとした。
が、その手が触れるよりも早く、振り向き、身を翻らせる動きまでも斬撃の速さに転化しながら、舞は店主に向けて虎徹さんを鞘走らせようとして、それから、そこに立っているのが店主‥‥‥つまり用心棒である舞の守るべき相手だと気づいて、半ばまで抜きかけた刃を力任せに鞘に戻した。
「そろそろ儂の声くらいは憶えてもらえんものかな」
冗談めかして笑う店主の姿はまさに単なる好々爺でしかないが、あっさり斬殺されかねない状況にありながら小動さえしなかった胆力の方に凄みを見出す種類の人間も世の中にはいる。例えば、店主がチャイニーズマフィアの頭目であることを知っている連中だ。敵であれ、味方であれ。
「‥‥‥ごめんなさい」
「いや、構わんがな。それでお前さん、何を見ておった?」
「お店」
細く開いたドアの前から舞が身を引く。替わって隙間から向こうを覗き込んだ店主の目に映るのは自分の店、多宝酒家のフロアだ。今日もよく賑わっている。
ひとつ頷いて、店主は舞に向き直った。
「こんなところから覗いとらんでも、普通に席におればいいものを」
「でも」
「佐祐理ちゃんが一緒じゃないと嫌かね?」
「それもあるけど、それだけじゃない」
俯いたまま、ぶつぶつと舞は呟く。
「誰も虎徹さんを持ってない」
「用心棒はそんなに沢山は要らんからの。お前さんがひとりいてくれれば、儂の命ひとつくらい、充分じゃて」
「うん」
今度は何の抵抗も受けず、ぽん、と店主は舞の肩に手を置く。
「それでお前さん、どうしたいね?」
「え?」
「いつもいつも、何でもかんでも羨ましそうにしとるが、一体、舞ちゃんはどうなりたいんだね?」
「え‥‥‥私、は」
まだ俯いたまま、随分と時間をかけて、考えに考えてから、
「‥‥‥佐祐理」
とだけ、答える。
「そうか。なら、佐祐理ちゃんにいろいろ教わったらいい。そこに佐祐理ちゃんはいなかろう?」
「そうだけど」
「なあ舞ちゃん」
こほん、と店主は咳払いした。
「そこで指を衡えて眺めているようなのはな、欲しがってるうちには入らんのだぞ? 欲しいなら大声上げて欲しがりなさい。みっともなく駄々を捏ねて、格好悪く大騒ぎしなさい。もちろん、欲しがる者には手に入れる力が要求されるぞ? 失敗もする。痛い目にも遭う。散々頑張ったところで何も手に入らんこともある。だがまあ、それでいいのじゃ」
「‥‥‥?」
わからんでいい。そう言って店主は笑う。
「今できないということが、一生できない、ということではないよ。それさえ知っておればよい。なんせ若いのじゃからな。それがわかったなら、後は求めることじゃ」
「求める、こと?」
「なに、先生がいるじゃろ? 取り敢えず佐祐理ちゃんがな」
困惑する舞を他所に、店主はもう一度、声をあげて笑った。
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