野明神社の境内を時ならぬ風が吹き抜ける。
長い髪を抑えて、振り返った鈴の視線が見晴るかす方向。
その遙か先には、恵たちの暮らす東京がある筈だ。
「どうした鈴」
「あ、い、いいえっ」
百能の声がする。‥‥‥まだ鈴は、思わず姿勢を正してしまう。
「そんなに固くならなくてもいい。もう私たちしか残っていないのだ、いちいち肩肘張っていては疲れるだろう?」
くすくすと百能が笑う。
あの忌まわしい事件を経て、いちばん変わったのは百能だと鈴は思う。
自他を厳しく律しようとする姿勢の部分は相変わらずだが、以前と比べれば随分と振る舞いが明るくなった。何か憑き物でも落ちたかのように。
鈴が見ていた空を百能も見つめる。
新会に鈴が呼び込んだ風は新会の有り様を変えた。
‥‥‥事件が起きた、ということではない。彼らがいなくても事件はあの通りに起きた。それはあくまでも新会内部の問題で、彼らの問題ではない。
彼らは、暴かれない筈の真相を暴いてみせた。そうでなければ今ここに一緒に立っていた筈の紀伊は、それ故に今、ここにはいない。
それが変えたことのひとつ。
そしてもうひとつには、
「私はね、鈴。それこそ、光妙子様がまだおられたあの頃は、正直に言って、お前のことが嫌いだったよ」
「‥‥‥はい」
「しかしそれも、言ってしまえば『ないものねだり』であったのだろうと、今はわかる気がする」
「え?」
吹き抜けたあの風は、少しだけ、人を変えた。
「そうか、あれは東」
空を見つめたまま、百能は小さく呟く。
東。
五行の木。
青。
春。
彼らは、あれは東より、春より来たる風。
木・生・火。
‥‥‥呼び込んだのは。
「鈴。木はどうだろう」
「え? 何がですか?」
「火の他は誰もいないではないか」
「もっ、百能、様?」
引き攣り笑いを浮かべる鈴に、何でもないことのように百能は続ける。
「今すぐに勤まるかどうかの話をしているのではないよ。ゆくゆくは、ということだ。時間が掛かるのは致し方ないが、こうなった以上いつまでも見習いのままでいられては困るし、その覚悟もしておいてもらいたいのだ。それともやはり金がいいかな? 広虫様のこともあるし」
「あの、そんな‥‥‥えっと、か、考えさせてください」
俯いたままの鈴の背中を、もう一度、風が押した。
「ほら、あの無礼者たちも応援してくれるようだぞ」
百能の言葉にはっと顔を上げた鈴が振り返る。
今また吹き抜けた風も、やはり東から来たもののようだった。
|