「恵くんっ! ニュースよニュースっ!」
なんて大声で騒ぎながら、橘さんが喜び勇んで僕の部屋に駆け込んでくるような場合、大概その後はロクな目に遭わない。少なくとも僕についてはそういうことの方が多かった。
もちろん、喜び勇んでる当の本人はそんなの気にしてないだろうけど。
「めぐ‥‥‥って、何よその嫌そうな顔は?」
「何でもないよ。それで、ニュースって?」
訝しむように眉を顰めたまま、まあいいわと呟く。
そうして、少し俯き加減だった顔が上がると、そこにはもう満面の笑みがある。さっきの不機嫌はどこへ行ったのだろう?
橘美亜子。此花学園二年生。まだ学園に正式に認められたワケじゃない、自分の他には僕しか部員のいない新聞部の部長は‥‥‥僕が首を傾げたことになんか、きっと気づきもしなかったんじゃないかと思う。
そして、その予想は、多分正しい。
隣のクラスの長峰さんが、同じく隣のクラスの後藤くんとつきあっている、と自分で吹聴し始めた。
「というワケなのよ」
「ワケなのよ‥‥‥って」
橘さんの「ニュース」に関する説明があっという間に終わってしまったのは、説明の要領がいいせいもあるかも知れないけど、ニュース自体が簡単だったことの方が大きいと思う。でも、そんなことより。
「そんなの、新聞部の仕事じゃないと思うんだけど?」
「そう?」
「だってそれ、ゴシップそのものじゃないか。そういうの載せて喜んでるのは新聞じゃなくて週刊誌とかだよ」
「そんなカタいコト言わなくたっていいじゃない。大体、本当に新聞沙汰になるような事件がそんなにしょっちゅう起こるワケないし。新聞部だからそういうのしか扱わない、なんて決めちゃったら、私たち何もすることなくなっちゃうじゃない」
「新聞はことさらセンセーショナルじゃなくてもいいと思うけど」
「今はそうも言ってられない時期じゃない。新聞部、まだ始まってもいないのよ?」
ぶすくれた顔で橘さんが呟く。
「しかも」
それでも構わず、僕は続ける。
「誰でも知ってるようなコトが書いてあったって、新聞だって雑誌だって誰も読まないさ。自分で言って回ってるんだよね? そういう話が広まるのは速いからね」
「とっこっろっがっ」
‥‥‥引っ掛かった。
「それくらい私だってわかってるわ。でもね、長峰さんの話はもうひとつあるの」
にいっと笑った橘さんの表情は、そういう表情だった。
「本人が言ってる通りなら、この先はまだ私しか聞いてない筈だけど。最近ね、家に帰る時とか、誰かに追いかけられてる気がする、って長峰さんが言ってるのよ」
「誰に?」
「わからないわよ。それをこれから調べるんじゃない」
当然、と言わんばかりに胸を張る。
「‥‥‥調べるの?」
「そうよ」
「僕らが?」
「だから、そうだってば」
「だからなんで? 後藤って奴が気をつけてやればいいことじゃないか、つきあってるんだったら」
「知らないわよそんなの私に聞かれたって」
‥‥‥わけがわからない。
大体、ストーカーの正体を突き止める、なんて立派に警察沙汰じゃないか。
やれやれ。僕は頭を掻く。
また何か変なことにならなきゃいいけど。
翌日の昼休み。
「あ、いるいる。ほら、あれが長峰さん」
橘さんが指差した窓の外、裏庭の中を何人か女の子が歩いている。
「え? どれ?」
「ん、えっとね、いちばん目立つ子」
それは、文章としてだけ考えたら全然具体的じゃない説明なんだけど。
「‥‥‥ああ」
確かにひとり、目立つ子がいた。
別に向こうで話す声が聞こえるわけでも、何かおかしなことをしているわけでもないのに、でも何故か、目を惹く子が。割と美人だとか髪が茶色っぽいとか女の子にしては背が高いとかそういう部分的なことじゃなくて‥‥‥どう表現したらいいのかよくわからないけど、とにかく。
「何か、派手な子だね」
「性格が滲み出るのよ、きっと。人は見た目に拠るって言うし。ほら、私が聡明で利発でしかもこーんなに可愛いのと一緒で」
何か反応して欲しそうな橘さんは敢えて放置したまま、僕は窓から長峰さんを見下ろしている。諦めたように溜め息をひとつ吐いて、橘さんはその続きを話し始めた。
「恵くんは転校してきたばっかりだから知らないと思うけど、やっぱりほら、可愛いから結構モテるのよね。でも本人は割とこう‥‥‥何ていうの? ちやほやされるのを楽しんでる、っていうのかな。平等に広く浅く、お友達から始めたい人をたくさん連れ回してる感じで」
「ふーん。‥‥‥それで、後藤って奴の方は?」
「そこが不思議なのよね。長峰さんのまわりに男の子はいっぱいいたけど、誰に聞いても、後藤くんと一緒にいたところを見たことはないって言うのよ。なんでいきなりあんな奴なのかってみんな不審がってる。中には、長峰さんは後藤くんに何か弱みを握られてるんじゃないかとか、そんなことまで言い出す人がいるくらいなのよ」
「つまり、他にも候補者はいっぱいいたのにいきなり後藤が引っ張り出されて、その理由は誰も知らない?」
‥‥‥頷いた橘さんがどう考えるかはともかくとして、僕はそれが怪しいことだとは別に思わなかった。
「だって、誰も確認してないってだけで、本当は本当につきあってるかも知れないんだよね? だとしたら別におかしくも何ともないことだし」
「うーん。そうは思えないんだけど」
「それに、もし仮に違ったとしても、こんなのやっぱり僕らの出る幕じゃないよ。長峰さんがそういうの自分で言い出したのは本当なんだから、やっぱり後藤に何とかしてもらうべきなんじゃないかな?」
「それじゃ新聞部が何かやったことにならないでしょ。記事にもできないし」
「だからどっちみち記事になんかならないって」
「なんでよー?」
どうしてわからないんだろう?
‥‥‥取り敢えず今は、橘さんをどうにかすることの方が、僕にとっては長峰さんのことよりも大きな、頭の痛い問題だった。
「何勘違いしてんの? ほらもう離れて! この角曲がったらアンタの仕事はおしまい!」
長峰さんが、つきあっている筈の後藤に相談ごとを持ちかけない理由、はすぐにわかった。
放課後、校門を出て最初の角を曲がった途端にそう言い捨てた長峰さんは、校舎から出てくる時に自分から組んだ筈の後藤の腕を鬱陶しげに振り払う。そのまま、振り払われた腕を見つめたままそこに立ち尽くす後藤を置いて、長峰さんはさっさと歩み去ってしまった。
慌てて追いかけようとする橘さんの襟を摘んで物陰に引っ張り戻した。
「ちょっと何すんのよ!」
「今行ったらそこの後藤を追い越すことになるよ。覗いてました、って言うつもりかい?」
小声で何か言い募ろうとする橘さんから、僕は向こうに立っている後藤へと目を戻す。
後藤はまだそこに立っているが、ひとつ溜め息を吐くと、とぼとぼと駅への道を歩き始める。背中が見えなくなったのを確認して、僕と橘さんは隠れていた物陰から立ち上がる。
「あれは結局、長峰さんは後藤くんとつきあってなんかいないってコトよね?」
「つきあってると思わせておきたい、っていうだけなんだろうね」
言いながら、僕らはくっと背筋を伸ばす。
「でも何て言うか、長峰さんって随分雑なんだね。電車で一駅くらいはそのままやり過ごすとか、普通はもう少し考えるもんだと思うけど。本当は後藤のことなんて全然好きじゃないっていうか、嫌いなんじゃないのかな?」
「そうかもね‥‥‥あーあ、何かもう、呆れちゃった」
橘さんは欠伸を噛み殺している。
「で、どうするの? もうこの話はこれで終わり、でいいと思うけど」
「それはダメよ。まだ何も解決してないじゃない」
まだこの件から降りる気にはならないらしい。
「それにこの分だと、後藤くんがストーカー、って可能性だってあるでしょ?」
それはないと思うよ。
そう思ったけど、口に出しては言わなかった。
僕らが見ていないところで何がどうなっていたのかはわからない。だけどそれから数日は、表面的には何も起こらないまま過ぎていった。
このままずっと何も起こらなければいいと僕は思っていた。そのうち橘さんも、そんな変なストーカー探しのことなんて忘れちゃうんだろうと思っていた。
でも。
でも、ある日、長峰さんは学校に来なかった。
体調が悪いとかいう連絡が職員室には入ったらしいけど、先生たちもそれ以上の詳しいことは聞いていないらしい。そんな大雑把な内容じゃ僕らの知りたいことはわからなかった。
誰が見てもわかるくらい、今日の橘さんはカリカリしていた。今は眉間にしわを寄せた難しい表情で僕の目の前にいて、何も言わない代わりに、ポテトチップスを噛み潰す音を盛大に部室に響かせている。
「そんなに苛ついたってしょうがないじゃないか」
「でも何とかしなきゃいけないじゃない」
「何とかしなきゃいけないようなことが本当に起こってるのかどうか、僕らはそれも確認してないんだよ?」
「だからっ!」
ばん。両手で思い切り卓袱台をひっぱたく。勢いで跳ねたポテトチップスの袋から中身がぱらぱらと零れる。
「確認しようって言ってるんじゃない!」
「だから、どうやって? 携帯の番号、教えてくれなかったんでしょ?」
何だかもう、その時点でおかしい話だと僕は思うんだけど、とにかく長峰さんは、ストーカー探しみたいな厄介ごとの相談をした相手にも、自分の携帯の番号を教えようとはしなかったらしい。
それがわかっていれば電話をかけるだけで済むようなことが思うようにいかなくて、橘さんが苛々しているのはそのせいもある。
「直接乗り込む」
だから橘さんはこんなことまで言い始めるのだ。
「今から?」
指差した窓の外はもう暗くなりかけている。
「そうよ」
「門限に間に合わないよ?」
「だったら私だけで行く」
慌てて僕は首を横に振る。そのまま放っておいたら本当に行きかねない。
「とにかく落ち着くんだ橘さん。直接確かめることは、この状況で今すぐできることじゃない」
「じゃあ何ができるっていうの? そりゃあんなヤな子だけど、それでも私たちは頼られてるのよ? 何もできないなんて‥‥‥何もしないなんて、そんなワケにはいかないじゃない!」
明らかに、橘さんは焦っていた。
「取り敢えず明日、来るか来ないか様子を見ようよ。それで、来ないようなら、まず後藤と話してみよう」
「‥‥‥後藤くん? どうして? だってその後藤くんが何かやってるかも知れないのよ?」
怪訝そうに僕を睨む。
「違う。後藤は多分、犯人とかじゃない」
「なんでそんなことが恵くんにわかるのよ! それこそ、私たちは見てもいないことじゃない!」
「わかるさ。後藤は」
長峰さんはあんな子だけど。
後藤の方は‥‥‥多分、本気で。
翌日も長峰さんは学校に来なかった。
だから昼休みの食堂で、ひとりで定食の焼き魚をつついていた後藤から、僕らは話を聞くことにしたんだけど。
「長峰さんのことは、俺も、よくは知らない」
俯いたまま後藤はぼそぼそと呟く。
そういえば、僕が後藤とちゃんと話をするのはこれが初めてだった。人づきあいは苦手な方みたいだ。いかにも引っ込み思案そうで、いつも理由もなく下を見てるような感じだ。橘さんはこういうタイプは嫌だろうな。
「だって、つきあってるんだろ? 長峰さんはそう言ってるみたいだけど」
「それは、長峰さんがそう言ってるだけ」
そう言って、後藤は寂しそうに笑う。
「知らないと思うけど‥‥‥俺たちは、学校を出るのは一緒だけど、出たらすぐ別れるんだ。多分、学校の中でだけ、長峰さんが誰かとつきあってる、ってことをみんなが知ってればよくて、だからそういうの、本当は、俺じゃなくてもいいんだよ」
学校の外ですぐ離れてしまうことは見たから知っていたけど、そんなこと教えたからって何にもならない。
僕は黙って、後藤の話の続きを待った。
「でも、俺、それでもいいんだ。そういうのでも、長峰さんのためにはなってる。それだけで」
「そりゃそうかも知れないけど」
「いいよ‥‥‥俺がいいって言ってるんだから、それで」
結局、情報らしい情報はほとんど何も聞き出せないまま、僕らは去って行く後藤の丸まった背中を見ているしかなかった。
「‥‥‥何よあれ? うじうじうじうじしちゃってさ。そりゃ長峰さんじゃなくたって、あんなんじゃ誰にもモテないわよ」
視界からその背中が消えた途端、橘さんは大仰に溜め息を吐いた。やっぱり嫌いなタイプだったらしい。
「ますます怪しい気がしてきたわ。そう思わない?」
「全然。思った通り、後藤は違う」
「えー?」
「好きとか嫌いとかで怪しいとか決めつけちゃダメだって。後藤は本当に長峰さんのこと好きなんじゃない?」
「でもストーカーって、好きだから変なコトするんでしょ? それに何よりあの態度! いかにもそういう暗そうなコトしてそうじゃない!」
「違うよ!」
自分の判断で勝手に諦められる奴なら、ストーカーになる必要なんてないじゃないか。
「だけど、あいつはもう」
あいつはもう、いろんなことを諦めてるじゃないか。
「何‥‥‥め、恵くん?」
ストーカーなんて、諦めるのが下手だからそんな風になるしかなくて、だからそうなるものなのに。
放課後、追いかけてみることにした僕らの前で、後藤は自分の家とは反対方向の電車に乗った。
「ほら、この電車って長峰さん家の方じゃない。後藤くん家は反対方向よ?」
そのまま幾つか駅を通過して、降りたのは長峰さんの最寄り駅だと聞いていた駅だった。それからの後藤にも道に迷うような様子はなく、当然のように駅前の繁華街を抜けていく。
「そうだけど‥‥‥」
少なくとも初めてここへ来たような感じはしないし、買い物に便利な繁華街をあっさり素通りするくらいだから、よほどマニアックな店が目当てでもない限り、買い物目的だとも思いづらい。
そうして、十分ほども歩いただろうか。
何の変哲もない、これくらいの街なら街道沿いに時々あるような公園、その奥に茂る小さな林の中に踏み込んで、やっと後藤は止まる。
「ほらあっ! あんなところに何があるっていうのよ! どう考えたって怪しいじゃない!」
「おかしいな。そんなことないと思うんだけど」
「あああもういいわよ! 見てなさい、とっちめて白状させてやるんだから!」
腕捲りでも始めそうな勢いで、物凄い剣幕の橘さんがずかずか出て行こうとする。
ちょうどその時。
後藤がいる筈の、林が、揺れた。
慌てて駆け寄った僕と橘さんの他に、そこには人がふたりいた。暗がりで取っ組み合いになっていて、片方は後藤だろうけど、もう片方が誰なのかはよくわからない。
「こらあっ! 何やってんのよっ!」
「た、橘さん? なんで、なんでこんなところに?」
片方の手が止まった。そっちが後藤だろう。
そして同時に、もう片方の手元のあたりで、かちんと、何か金属の鳴るような音がした。
‥‥‥ナイフ!
「危ない! そいつ何か持ってる!」
って言ってるのに、
「だああああああああああああああああっ!」
当たり前のように、全っ然、聞いてはいなかった。
凄い勢いで制服のスカートを靡かせながら、橘さんはその勢いをまったく緩めずに、暗がりへ突っ込んでいく。
「天っ!」
軽い体重の代わりに充分以上のスピードを乗せて、
「誅ううううううううううううううううううううっ!」
上空から降ってきた橘さんのドロップキックは、転がって取っ組み合っているふたりをまとめてその場に押し潰した。追いついた僕は、橘さんの一撃でそいつが取り落としたバタフライナイフを拾い上げる。
どっちの勝ちとかはないけど‥‥‥まあ強いて言えば、乱入した橘さんのひとり勝ち、くらいの感じで、取っ組み合いは一応終わった。
「こっち? 後藤くんがストーカーなんじゃなくて?」
「俺が? ストーカー? なんで?」
後藤は困ったようにかりかりと頭を掻いた。
「こっちのこいつがナイフなんか持って、何するつもりだったかは知らないけど、俺は別に何も」
「っていうか、誰なのよこれ? ウチの学校の生徒じゃないよね?」
そこで伸びている謎の男を橘さんが指差すけど。
「名前は知らない。学校で見たこともない」
そうかも知れない。
「だったら、後藤くんは何しに来たの?」
「俺? 俺はその、長峰さんが昨日から休んでるから、ちょっと、気になって」
そこで説明止めたらストーカーと変わんないよ。
「でも長峰さん家の場所とかはどうして知ってたの? 多分、教えてもらってないでしょ?」
「うん。聞いてないよ。‥‥‥だから一回だけ、追いかけたことは、ある」
「それじゃやっぱりストーカーじゃないの」
あちゃー。
「でも、でもそれだけだよ! それにこの、この公園までしか来たことないし。家までは俺も」
「なんで?」
「こいつがここで長峰さんと会ってたから、引き返した」
ふむ。
「それで、こいつは何しに来たのかな?」
「わかんないよ、そんなの。でもナイフとか、いろいろ物騒だけど。今日だって、ここで俺のこと見つけて、すぐ殴りかかってきたし」
後藤が長峰さんの何なのか、こいつの方は知ってたってことかな。‥‥‥だとしたら、
「そうね、後藤くんはともかく、こっちは本当にストーカーみたいなことをやってたのかも知れないわ」
「ともかくって、だから俺は」
なおも何かを言い募ろうとする声は、別の物音に掻き消された。
僕らが振り返ったあたりの地面に、女物の高そうなハンドバッグが落ちていた。そこに、高そうな革靴と真っ赤なパンプスがあった。高そうなダークグレーのスーツと赤いツーピースがあった。
‥‥‥別の物音。
ゆっくりと、そこにから目をあげた僕らは。
怪訝そうな顔をした知らない男と。
何かに脅えたような顔をした長峰さんを見た。
「ねえ、こういうの、何股って言うのかな」
小声で呟きながら、橘さんが露骨に嫌そうな顔をする。
「そんなこと僕だって知らないよ。三股までは決定みたいだけど、これで全部かどうかだってわからないだろうし」
「そうよねえ‥‥‥ま、いいわ」
溜め息。
「それで長峰さん。あなたの言ってたストーカーみたいなの、一応ひとりは私たちで捕まえたんだけど」
「え? ひとりは、って?」
「長峰さんにこんなにたくさん彼氏がいるって知らなかったもの、私たちは。他に何人彼氏がいるかも知らないし、そのことに気づいた何人くらいがまたストーカー始めるかも知らない。もう、どっちだっていいしね」
「‥‥‥それは」
「何のことだ、涼子?」
「い、いえ、これは、何でも」
ばつが悪そうに、長峰さんは唇を噛んで俯く。
「何でもないなんて、そんなワケないじゃないっ!」
声を上げる橘さんの肩を僕は押さえた。
「いいよ橘さん。放っておいてあげよう。この関係がとっくに破綻してることくらい、みんなもうわかってる」
「だってそれじゃ」
「いい加減気づいてよ橘さん」
強引に、こっちを向かせた。
「死神殺人事件を解決したのに、それから何もできてなくて焦ってるのはわかるよ。だけど間違っちゃダメだ。僕らは別にヒーローでも正義の味方でもない。新聞部なんて肩書きがあったからって、僕らは世の中全部の当事者になんかなれないんだよ」
悔しい。悔しい悔しい悔しい。
口に出さなくても、何が言いたいかはよくわかった。
それから。
すぐにその場を離れた僕らは、その後がどうなったかを直接は知らないけど‥‥‥後藤が言うには、結局誰も、長峰さんのところに残らなかったらしい。
ちなみに、その残らなかった「誰も」の中には、後藤も含まれるらしい。長峰さんに関するいろんなことを諦めたまま、でも長峰さんの言葉にしがみついていた後藤は、とうとう、長峰さん自身を諦めたということになる。
「何て言うかな、気が楽にはなったよ」
だからといって急に格好よくなったわけでも背筋が伸びたわけでもないけど、そう言って笑った後藤の背中をぱんっと叩いた橘さんは、前ほど苦手そうにはしていなかったみたいだ。
「それにしても、長峰さんはなんであんなコト、急に言い出したのかな?」
「あんなコトって?」
「後藤くんとつきあってる、って話」
前と同じように窓から長峰さんを見降ろしながら、橘さんは首を傾げた。前と違うのは、長峰さんがひとりで歩いていることだった。
あれから、長峰さんのあの派手な感じは、何だか少しくすんでしまったような感に見える。もっとも、それで大体他の子と一緒くらいには目を惹くんだから、やっぱり神様は与えるとこには与えてるのかも知れない。
「それはわからないよ。本人も言いたがらなし」
ただ、もしかしたら、と思うことはいくつかある。
そういう関係が面倒になったんじゃないかな、とか。
それと、最後に現れたあのスーツの男は本当に本命で、あの男にバレないうちに他の関係を整理しようとして、でも結局、間に合わなかったのかも知れない、とか。
「やっぱり、よくわかんないな」
本当かどうかはわからないから、僕はそれを口に出しては言わなかった。
「恵くん、何か隠してない?」
橘さんは僕を軽く睨む。
「何が?」
「‥‥‥まあ、いいわ」
意外にあっさりと追求を切り上げて、橘さんは窓の外の長峰さんたちに目を戻す。
新聞部としては骨折り損で終わった事件だった。
でも、もともとがプライベートなことなんだから、そこをぼかして誰も傷つけないように記事を書くだなんて最初からできないことで、だから本当は、骨折り損で終わるくらいのことは、橘さんにも最初からわかっていた筈だった。
世の中全部を何とかしてあげられるんじゃないか、っていう橘さんの勘違いとか、焦りみたいなものは、少し治まったように見える。それでいいと思う。
死神殺人事件みたいなことはそうは起こらない。あれはあれで結果的に新聞部の存在をアピールすることになったけど、僕らのまわりの事件が全部、殺人事件に発展するわけじゃないんだから、
「橘さん、もうちょっと新聞部っぽいこともやった方がいいんじゃないのかな?」
「ん?」
「だからさ。何か起こったから新聞を作るとかじゃなくて、何もなくても定期的に何か書くとか。新聞ってそういうことだと思うんだけど?」
「‥‥‥はっ、初めて」
振り向いた橘さんは、何だかやけにきらきらした目で僕を見つめた。
「初めて恵くんが、新聞部の運営に関する積極的で建設的なな意見をっ! ようやく、本っ当にようっやく、部員としてやる気になってくれたのねっ!」
‥‥‥嫌な予感が、ちょっと、した。
「あ、や、でも、それはだから、あくまで橘さんが」
「言い出しといて何もしないとか言わないわよね?」
にっこり。
慌てて目を逸らす僕の耳元に橘さんが頬を寄せる。
「安心して。私は長峰さんとは違うから」
「え?」
囁くように、橘さんは言葉を続けた。
「私、信じてないものを信じてるなんて言わない。でも、恵くんのことは信じてる。本当だよ」
だから、これからも振り回すからね。
それは要するに、そういう宣言なんだけど。
散々振り回されていい迷惑の筈なんだけど。
あんまり悪い気はしなかった、のはどうしてだろう?
‥‥‥頷いて見せるのも何だか癪で、逸らした視線をそのまま窓から下に落とす。長峰さんの背中はちょうど、裏庭から校舎の中に消えたところだった。
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