やっぱり現場をもう一回見てくると言ったまま、先生はさっきから帰って来ない。事情聴取は鹿瀬くん聞いておいてください、そういえばこれが最初のお仕事ですね、なんて、そんな重大なお仕事を普通いきなり新米に任せるもんかなあ?
目の前の女性は手に持ったハンケチを畳んだり開いたりしている。動揺しているのか‥‥‥無理もないか。働いてる屋敷の主人がいきなり殺されたりしたら。私だって、山茶花のマスターが殺されたりしたらどうなるかわかんないし。
「ええ。それで、悲鳴は聞こえましたのですが、踏み込もうにも旦那様の部屋は内側からしか鍵がかかりませんもので、大変難渋いたしまして‥‥‥結局、薪を割る鉈を持って参りまして、扉を破った次第でございます」
「ふむ‥‥‥」
変なことを考えている間にも事情聴取は続いている。諸星警部の質問に今答えている、私よりもひとつかふたつ年上くらいのその女性が、この佐久上家でお手伝いさんをしている篠沢さんという人で、どうも聞いているところでは、佐久上幹家さんの遺体を最初に発見した、つまり第一発見者らしかった。
今をときめく名探偵の御神楽時人先生は、現場になってしまった三階の寝室に設えられた寝台を押したり引いたりしていた。長身の割に非力な先生は、どちらかというと、寝台を動かしているというよりも動く寝台に引き摺られている感じ。‥‥‥何だか絵にならない。
「ああ、鹿瀬くんですか。何かわかりましたか?」
私が部屋に入るなり、視線も寄越さずに先生は言う。どうしてわかるんだろう?
「いえ。どうも、さっぱりみたいです」
「そうですか。まあ、そうでしょうね」
「は? ‥‥‥何ですかそれ?」
「ん? 何がですか?」
「その、そうでしょうね、です」
不思議そうな顔をして先生が振り返った。
「ああそうか。まだ鹿瀬くんにはちゃんと現場を見てもらっていないんでしたね」
先生が一歩、私に近づく。ちょうど先生の背中に隠れていた寝台が見えた。今頃のように、背筋を何か冷たい塊が撫でていった感じがした。
見た目が頼りなさそうでも、こんな部屋の中で泰然としている先生は凄いと素直に思った‥‥‥。
ここは、殺人事件の現場、だったんだ。
そこに、血に染まったままの重そうな寝台がひとつ置いてある。寝台の脚には結ばれた敷布が縛ってあって、もう一方の端は寝台から一歩か二歩のところにある窓の外へ消えていた。ちょうど、命綱か何かのように。
いっぱいまで跳ね上げられた窓は家の裏庭に面している。なんでもこの屋敷は、裏側に見える眺望がいいということで、殺された佐久上幹家さんわざわざ三階建てにしたものらしい。
窓から外を眺めてみる。こんな事件でもなければ素直に景色だけ楽しめたのに。
敷布の命綱は二階の窓よりちょっと上くらいで途切れていた。窓から外にぶら下がっているその命綱は、昨夜の雨を随分飲み込んでいた。手に持ってみると意外なくらい重たい。
この部屋の鍵は、内側からしかかけられない。あの篠沢さんというお手伝いさんが鉈で扉を壊さなければ中に入れなかったのは、その鍵がかかっていたからだ。だから多分、犯人はこれを使って逃げたのだろう。だけど。
だけど。
「何か気がついたことはありますか?」
「えっと、さっきの事情聴取で聞いたんですけど、この扉には内鍵しかついていないそうです。ですからやっぱり、犯人はこの敷布を使って窓から外へ逃げたと思うんですけど‥‥‥それにしては‥‥‥」
「それにしては?」
「あの、私、初めてだからよくわからなくて、何か変なこと言ってるかも知れませんけど‥‥‥あの、地面に足跡とかつかないのかな、ってちょっと思ったんです。昨夜は雨でしたし、地面は土ですから、足跡くらいあってもよさそうな気がするんですけど、それがないってことは」
「それがないってことは?」
「そこから先がよくわからないんです。ここからしか逃げられないのは確かなんだから、後は、犯人がどうやって足跡をつけずに外へ逃げたか、だと思うんです‥‥‥何だか、昨夜が雨じゃなければ、ただ『犯人は外へ逃げた』ってわかるだけだった筈なのに、雨が降ったから急に密室殺人事件になっちゃった、ような」
「ふむ‥‥‥なるほど」
腕組みしながら先生は何か考えている。
「‥‥‥あの、先生?」
「ああすみません。いや、初めてにしてはなかなかよく読めているなあと思ったものですから。そう‥‥‥後一歩、惜しいところまで踏み込んでいますが、まだ見落としている可能性があると思います」
言いながら先生は嬉しそうに微笑んだ。
‥‥‥本当かなあ?
いやそれより。
「見落としてる可能性、ですか?」
「ひとつだけヒントをあげましょう。もしも鹿瀬くんがこの事件の犯人だったら、と考えてください。鹿瀬くんは、この事件を密室殺人事件にするために、雨が降る日をわざわざ選んで実行すると思いますか?」
え?
「逆でもいいです。晴れている日でなければ、この犯行を実際にやり遂げることはできない、と思いますか?」
‥‥‥え?
「今のところ動機はまったくわかりませんが、手口は大体わかっています」
すぐ帰ってきます。その間の宿題にしますから、もうちょっと考えてみてください。
今度はここに私を置き去りにして、先生は諸星警部に会いに行ってしまった。
見落としている可能性。
窓から下を眺めながら私はぼんやり考える。
命綱代わりの敷布が風にふらふら揺れていた‥‥‥この敷布では、地面に直接降りるにはちょっと短い。ということは、二階の窓からもう一度屋敷に侵入した? でも、忍び込もうとしている人が窓を割って飛び込むようなことをするわけはないから、二階の窓から忍び込むためには窓が開いていることが条件になる。昨夜は雨だったから、偶然窓が開いていた、なんてことは多分ないと思う。私だったら、私がこの事件で晴れていることを期待したなら、雨が降った日は事を起こさない。じゃあ、晴れだったらその窓は開いていただろうか。でもそれも多分違う。普通、夜寝る時には窓は閉める。それはきっと天気の問題じゃない。なのに開いていた、とすれば。
窓は開いていなかった。あり得ない。
窓が開いていたのは偶然だった。それも恐らく違う。
窓は自分で開けておいた。でも住み込みのお手伝いさんは何人もいる。誰かがまた閉めてしまうかも知れない。確実なようで、本当は確実じゃない。
窓を開けておいてくれた人がいた。
‥‥‥窓を開けておいてくれた人がいた。
ああ、そうだ。どうして気づかなかったのだろう。
どうして私は、犯人はひとりだと思っていたのだろう。共犯者がいれば、窓を開けておいてもらうことはそんなに難しいことじゃない。
「という風に、共犯者がいて、下の窓からもう一回屋敷に侵入したんじゃないかと思ったんですが」
「なるほど。でも、この屋敷の窓は跳ね上げる窓ですから、開けておいたら硝子が障害物になりそうですね」
‥‥‥確かに、この屋敷の窓はすべて、この部屋と同じように、上に向かって跳ね上げられて開ける窓だ。
開いているということは、窓枠の上には窓硝子があるということだから、上から侵入するためにはそれを避けなければならないし、そうするためには、せめて二階の窓枠いっぱいくらいまでは命綱がなければならない。窓枠の上で途切れてしまうようでは足りないだろう。
「それに、窓を使う必要は別にないんですよ」
「え? 違うんですか?」
「ええ。それに、実は敷布も使いません」
「え、だって‥‥‥え?」
わけがわからない。
「三階の窓から下まで降りたにしては敷布がちょっと短いこと、飛び降りれば飛び降りたなりの痕跡が残る筈なのにそれがないことは、鹿瀬くんが考えた通りです。加えるなら、両手で押せば動くくらいの重さしかない寝台ですから、人ひとりがぶら下がれば窓際の壁まで引き摺られる、と考える方が自然ですが、床には寝台が引き摺られた痕も、それを元に戻した痕もない、ということも裏づけになるでしょう」
「でも先生、それじゃ犯人はどこから」
「実は、篠沢さんには目的がふたつありました。ひとつは犯行の現場が密室だったことの証人になること。もうひとつは、その密室にまだ残っている犯人を部屋から出すことです」
「え‥‥‥?」
それじゃもしかして、犯人はその時‥‥‥
「中から鍵がかけてあって開かない扉を鉈で壊して、第一発見者の篠沢さんは部屋に入って来る。普通、密室殺人事件の起こった現場に犯人が一緒に閉じ込められているとは考えないでしょうから、その時敷布がこうなっていれば、まずはそちらに注目するでしょう」
先生は腕を組んだ。
「しかし、実はその時犯人はまだそこに、まあ例えばその寝台の下あたりにでも潜んでいて、壊された扉から屋敷の中へ逃げたわけです‥‥‥上手いやりかただと思います」
それから。
結局、後から判明した事実を並べてみると、手口についてはあの場で先生が推理した通りで‥‥‥驚くほどあっさりと、事件は解決へと向かっていった。
真犯人もお手伝いさんで、実は屋敷の中の佐久上さんは立場を悪用してやりたい放題だったこととか、そのせいで泣いているお手伝いさんは何もそのふたりだけじゃなかったこととか、血に塗れた犯人の姿を目撃していたお手伝いさんは本当は何人もいて、でも事情を察したお手伝いさんたちは、誰が言い出すでもなく、目撃していた事実を全員でひた隠しにしていたこととか、いろんな事実が次々明るみに出はしたけれど。
「後味が悪いですか?」
「実は、ちょっと。っていうかあの‥‥‥怒らないでくれます?」
「ええ」
「あの名探偵の御神楽時人が事件を解決したのに‥‥‥私、今まで、解決したら事件は終わりだって思ってたんです。でも結局、関わった人は誰ひとり救われてなかったなあって‥‥‥実はただ単に謎解きが終わったっていうだけで、それ以外のことは何ひとつ終わってないんだなあって、ちょっと思っちゃって」
「そう、それは僕もいつも思います。悲しいことです。でも‥‥‥言い訳に聞こえるかも知れませんが、探偵はそういう仕事なんです。何かが破綻したから僕たちに出番がまわって来る。ということは、僕たちが真実を探り当てても、それは間違いなく、もともとの何かが破綻した後のことなんですよね」
訥々と先生は語る。
「探偵は常に誰かの悲しみと隣り合わせの仕事なんです。あ、もしかして、この仕事のこと嫌になりましたか?」
「いえ。それは大丈夫ですけど」
「それはよかった。じゃあ、事務所に戻りましょうか。桧垣くんも待っていることですし」
先生に促されて、また私は歩き始める。
席や書類の話じゃなくて‥‥‥やっと今、御神楽探偵事務所の一員になったんだと、その時、私は思った。
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