立冬[26601102]  


  

 暦はまた冬の訪れを告げた。そしてその今日も、もう夕暮れ時を迎えている。別に何がどうということもない、秋晴れの暖かい一日だった。
 こうやってただ何となく普通に暮らしていい日にも、例えば神社を守るために井戸の底を駆け回ったあの日にも、一日分の時間は同じだけ、きちんと流れていたんだろう。長いと思っていた一年だって、振り返ってみればあっという間にひと巡りが通り過ぎ、別れの春から始まったふた巡りめも、後には冬しか残っていない。
「‥‥‥思ってたより、短かったよな」
 校庭だった空き地に座り込んで、校舎の形をした廃屋を眺めながら、俺は小さくそう呟いた。



「なんだ、こんなところで黄昏てたの?」
 校舎から目を離した途端、後ろから声が聞こえた。悠夏だ‥‥‥振り返るよりも速く、
「えいっ!」
 何か黄色いものがすぐ目の前にちらついた。あっという間に首に絡みついたその何かを、しかも悠夏は凄い勢いで引っ張るから、一瞬、本当に呼吸が止まった。
「‥‥‥あれ? ひょっとして、ちょっと苦しかった?」
 慌てて悠夏が腕を緩める。
「ごほっごほっ‥‥‥当たり前だろそんなのっ!」
「あはは、ごめんごめん」
 言いながら悠夏はおかしそうに笑っていて‥‥‥まあ、それだったら別にいいか、と俺は思った。



「で、これは?」
 言いながら、改めて俺は視線を落とす。俺の首に巻きついているそれは何だか黄色い毛糸で編まれたマフラーのように見えたけど、しかし悠夏のことだから、見たままが正しいとは限らない。
「手袋?」
「‥‥‥あんたねえ」
 よっぽと気に障ったのか、その片側に両手をかけて、悠夏はまた思い切り引っ張ってくれた。
「ぅあちちちちちっ!」
 首に擦れて、死ぬかと思うほど熱かった。
「これがマフラーじゃなかったら一体何だってのよ? ‥‥‥って、熱かった? もしかして」
「お前、俺に何か怨みでもあるのか?」
「ふん。これが手袋だなんて意地悪言う奴にはいい薬よ」
 悠夏の手にぶら下がっていたそれは、マフラーと言うには異常に長い気もするが、確かにマフラー以外のものにも見えなかった。
 そのまま、その手を俺に差し出す。
「はい。あげる」
「‥‥‥俺に?」
「ん。もうほら、カレンダーだって今日から冬だし。寒いと嫌だなって思って」



 とにかく何とか笑ってればさ、秋だって冬だって、また好きになれる気がするじゃない?
 そう呟いて悠夏は笑った。
 悲しい気持ちを無理に押し殺したような、見ていて切なくなる笑顔だった。



 つられて、思いだしたくないことを思い出してしまう。見事に誰ひとりすら幸せになれなかった去年のこと。
 堂島の手下に寄ってたかって壊された上に火までつけられて神社は全壊。辻夫おじさんは入院しなきゃならないような酷い怪我と火傷で生死の間を何度も行ったり来たりする羽目になった。俺も悠夏もあの堂島の屋敷に連れ込まれて、そこにどういうわけか英理子先生まで出てきて‥‥‥何があったかなんて振り返りたくもない。しかも、そうやって俺たち三人を好き放題弄んだ挙げ句、今から考えたって犬だったのかヤマノカミだったのかもわからないような得体の知れない何かに襲われて、堂島は意外なほど呆気なく死んでしまった。
 とにかく堂島はいなくなった。結果だけ見れば万事これでよかったのかも知れないけど、どうにもならないなりにも必死で戦ってきた親父や辻夫おじさんにしてみれば、こんな都合よく棚からぼたもちが落ちてきましたみたいな結末じゃ納得いかないって気持ちだって本当はあったと思う。口に出して直接そう言ったりはしないにしても。
 本当に、誰も‥‥‥あんなにみんな必死だったのに、誰も、幸せになれなかった。
 だけど、きっと悠夏は、いつまでも悲しいままではいたくなかったんだろう。
 思い切ることさえできるなら、区切りになるものなんて何でもよかったのかも知れない。
 冬至の日からは秋じゃなくて冬。
 そんな些細なことでも。
 こういうことは何をやっても大概長続きしない気分屋の悠夏が、中でも特に向いてなさそうな編み物相手にいつにない根気を総動員してとうとう編み上げてしまった、いかにも平和そうなこの黄色いマフラーが‥‥‥無力で惨めで、悲しくて仕方なかったあの秋や冬のことを、きちんと思い出にして自分の心の奥にしまい込むために、一年かけて自分の中で準備をしてきた、その最後の仕上げだったように思えて。
「よく‥‥‥頑張ったな‥‥‥」
「え? やだちょっと‥‥‥ねえ‥‥‥あ、あの‥‥‥?」
 いきなりのことに当惑しているらしい悠夏を、それでも俺はいつまでも、ぎゅっと抱きしめていた。



「そろそろ飯にしようか」
「‥‥‥何それ」
 唐突に腕を解いていきなりそんなことを言う俺に、それまで目を閉じていた悠夏はあからさまな抗議の視線を向ける。
「何だよ。ここが外だってこと、さっきはあんなに気にしてたくせに」
「それは‥‥‥だってあんたがいきなり‥‥‥馬鹿っ‥‥‥」
 真っ赤になってそっぽを向いた悠夏の首に黄色いマフラーをかける。そして、反対側の端を自分の首に。こうすると、長さとしてはそんなに余裕があるわけでもないが、まあ何とかふたりいっぺんに使えないこともない。
「ねえ‥‥‥やっぱり、長過ぎたかな? 編むの初めてだから加減とかわかんなくって」
「あれ? こうやって使うつもりで長くしたんじゃないのか?」
 とぼけてみせると、悠夏は耳たぶまで真っ赤になってしまった。
「そっ、そんなワケないでしょ!? もう‥‥‥馬鹿なんだから‥‥‥」
 困った顔で俯いている悠夏をマフラーで引っ張って俺は校舎に背を向ける。



 去り際、もう一度だけ、俺は校舎を振り返った。
 校舎の向こうの山へと夕日が沈んでいく。
「辛いことしかなかったとか‥‥‥そういうことでもなかった、筈だよな‥‥‥」
 声に出したつもりはなかった。でも悠夏にも聞こえたのか、悠夏はあったかい両手で俺の手を握ってくれた。大丈夫だよ、とでも言いたかったのかも知れない。
「今晩は鍋にしよっか?」
 口は口で全然違うことを言っていたが。
「‥‥‥何だそりゃ」
「仕返しよ。さー飯よ飯っ」
 俺たちは校舎を後にした。後はもう、どっちがどっちを引っ張っているのかわからなかった。

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