その夜もまた、真琴は性懲りもなく祐一に悪戯を仕掛けようとしていた。
そこまではいつものことだったが、たまたま祐一がそれに気づかなかったことに加えて、真琴のやり方がいつになく‥‥‥どちらかというと反応を楽しむタイプの真琴にしては珍しく、攻撃自体がシンプルでしかも悪辣だったのが決定的だった。
したこと自体は簡単だ。寝ている祐一の掛布を剥いで、ついでにTシャツを少し捲り上げる。窓を目一杯まで開いて、廊下へ続くドアも開けっ放しのまま祐一の部屋を後にする。
そして今朝、見事に祐一は風邪をひいていた。
「どうしたの、祐一?」
やたら嬉しそうに枕元に立つ真琴を忌々しげに祐一は睨み据える。
「わたし学校行くけど、祐一、大丈夫?」
「大丈夫じゃねー‥‥‥」
「もう。真琴ちゃんでしょ? 悪戯は悪戯で済むくらいにしておかないとダメだよ」
悪戯で済んでりゃいいってもんでもねーぞ。
そう言ってやるくらいの元気もなく、結局は開けた口を少しぱくぱくさせただけで、祐一の頭は枕に沈む。
「今日はお母さんもお仕事だし‥‥‥早く帰って来るようにするけど、真琴ちゃん、祐一をよろしくね」
そう言って踵を返し、名雪は階段を降りていく。
ちょっと神妙そうな顔をしていた真琴が、名雪の背中が消えた途端に、にやっと笑った。
‥‥‥こういうのも「成長」って言っていいなら、一応まあ、「成長」ではあるんだろうなあ。
ずきずきと痛む頭の片隅で、祐一は妙なことに感心していた。
「祐一ー、遊ぼーっ!」
「寝かせてくれ‥‥‥」
それからも、祐一が寝つきかけると測ったように真琴が襲ってくる。それは最早、拷問と言ってもいいくらいだった。
「どうしたの? 祐一、具合悪いの?」
あれだけのことをしておいて「具合悪いの?」もないものだが、どうやら真琴はまだ、自分が祐一に何をしたのかよくわかっていないらしい。
「いいから、静かに、しててくれ」
さしもの真琴でも、とりあってくれないだけでなく、辛そうにしている祐一を間近で見ていると、だんだん不安になってくる。
「祐一‥‥‥」
呟いた真琴の声から、いつもの生彩がぼろぼろと剥がれ落ち始めていた。
「名雪? 名雪!」
『わ‥‥‥どうしたの? 真琴ちゃん? 何かあった?』
「祐一が‥‥‥祐一が」
切迫した真琴の声のせいか、電話の向こうの名雪が息を呑むのがわかった。
『落ち着いて真琴ちゃん。ゆっくりでいいから、何があったか話して』
「何だか具合悪くて‥‥‥熱が下がらなくて‥‥‥」
『うん。他には?』
「ないけど‥‥‥」
『そう』
少し、落ち着いたようだった。
『それは、風邪ひいてるんだから当たり前だよ。大丈夫だから落ち着いて』
でも確か、今日は炊飯器にはごはんも残ってないし。名雪が呟く。
『台所でタオルを水に濡らして、よく絞って、祐一のおでこに載せるの。それで、時々でいいから様子を見て、タオルが温かくなったらまた水で濡らして』
「うん」
『わたしも早く帰るようにするけど、それまではごはんも作れないかな‥‥‥』
電話を切って数分後。
今度は、真琴は冷蔵庫の中を引っ掻き回していた。
冷たいもの。冷たいもの。冷たいもの。
‥‥‥もう、頭の中には「祐一の熱を下げる」ことしかない。
そして。
「祐一、ごはん」
「あ?」
のろのろと起き上がった祐一の膝の上に、深めの皿と、箸が置かれた。
「‥‥‥あ?」
銘柄は祐一も知らないが、多分それはシリアルなのだろう。
牛乳をかけて食べるものだということは、確か真琴も知っていた筈だが。
どう見てもそれは牛乳ではなくて。
「何だこれ?」
「グレープフルーツ」
おずおずと真琴が答えるが、意味がわからない。
一口、啜ってみる。‥‥‥確かにそれは、グレープフルーツのジュース、ではあった。真琴は嘘はついていない。ただ、体調を崩したせいでおかしくなった味覚には、果汁100%の渋味ばかりが強調されてしまう。おまけに冷たい。やたらと冷えている。祐一は顔を顰めた。
「あのな真琴」
「ん」
「俺は、風邪ひいて、熱があるんだ」
「‥‥‥ん」
「そういう、調子の悪い時は、あんまりこういう、冷たいもの食べると、よくないんだ」
切れ切れの言葉で祐一が話す。
「でも‥‥‥でもっ! でも、あたし、祐一がこんなに具合悪くなるなんて思わなくてっ! ちょっと寒いだけだと‥‥‥思っ、たのに」
「泣かなくていいから」
祐一が真琴の頭を撫でた。
「だから、今度は、身体壊さないような、悪戯に、しといてくれ」
「わかった。わかったから、わかったから、祐一」
真琴の声がどんどん小さくなる。
「あたしのこと‥‥‥嫌いにならないで」
もう一度、祐一は真琴の頭を撫でた。
「祐一、具合どう?」
帰ってくるなり二階に上がった名雪が祐一の部屋を覗き込むと、眠っているらしい祐一の胸のあたりに真琴が突っ伏している。
口元が穏やかに笑っているのを見て、安心したように頷いて。
額の上でずれかけたタオルを交換しようと入ってきた名雪は、机の上に置かれた、深めの皿と箸に気づいた。
「あれ? シリアル? ‥‥‥お箸?」
ほとんど減っていない皿からグレープフルーツのジュースを少し啜る。
「全然違うよ、真琴ちゃん」
呆れたように名雪は呟いたが、真琴は祐一と一緒にすうすうと寝息を立てるばかりで、勿論、聞いてはいないのだった。
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