かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
昨夜はちょっと眠たかったから、失敗して親指を少し切った。
痛かった。眠くなくなっちゃうくらい痛かった。
今でもまだ、親指の傷口がじんじんと疼く。
どうしたんだ名雪大丈夫か。
祐一は尋ねてくれるけど。
うん、お料理してて、失敗しちゃったんだよ。
答えたら、そうか、なんて頷いて、それでおしまいだった。
包丁で切ったんじゃないよって本当は言いたい。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
机の上を照らすのはスタンドライトの明かりだけ。
手元には、砥石と、タオルと、水の入ったボウル。
手元でずっと繰り返す音は、幾つかの目覚まし時計が順番に騒ぎたてる音に紛れる。
わたしの部屋で目覚まし時計が鳴っている、それくらいのことで、この家の人はもう誰も驚かない。
お母さんも。
祐一も。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
昔、授業で鉛筆を削るのに使った、横に「肥後守」って書いてある折り畳み式のナイフ。
ずっと机の引き出しの奥に仕舞ったままだった、誰でも持っているようなナイフ。
毎晩、わたしはそれを研ぐ。
祐一のことを想いながら。
七年も前に告白したのに、七年経ってもわたしに振り向いてくれない、祐一のことを、想い、ながら。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
入院している栞ちゃんが病室から抜け出してきて祐一はとっても嬉しそうだった。
たい焼きの袋を抱えて祐一のまわりを走り回るあゆちゃんは今日も可愛かった。
今日も祐一の帰りが遅かったのはきっと舞さんと夜中に部活動をしているからだ。
膝の上でマンガを読んでいる真琴が齧りかけた肉まんを祐一はぱくっと咥えて奪い取った。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
研ぐことだけで磨り減らしてしまったそのナイフでは、昔削った鉛筆の他は、時々自分の指を切るくらいだけど。
それでも毎晩、わたしは、それを研ぐ。
七年も前に告白したのに七年経ってもわたしに振り向いてくれない祐一のことを想いながら。
振り向いてくれない祐一の胸にナイフが突き刺さる感触を思い浮かべながら。
バターをナイフで切るみたいに、祐一をナイフで切る感触を想像しながら。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
殺せちゃうくらい深い傷をあげたら。
生命と引き換えなら、名雪が好きだ、って言ってくれるかな。
‥‥‥祐一はきっと、悲しそうにこっちを見て、そして、首を横に振るんだろうな。
心の中にもう誰か住んでる人がいたら。
きっと祐一は、ナイフで刺されたくらいじゃ、その誰かのこと、裏切らないよね。
本当は優しくて芯の強い、祐一のそういうところがわたしは大好きだけど。
その誰かがわたしだったらいいけど。
その誰かがわたしじゃないのはもうたくさんだよ。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
だけど、わたしは。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
目覚まし時計が騒ぐのを止めたから。
研ぐことだけで磨り減らしてしまった、何も切る宛てのないナイフを、砥石と一緒に、引き出しの奥に仕舞い込む。
スタンドライトの明かりを消すと、わたしの部屋はしんと静まり返ってしまう。
そして、それでもまだ、耳の奥に残っている音を感じながら、今夜もわたしは、眠りに、落ちる。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
祐一、大好きだよ。
ずっとずっと愛してるよ。
だけど。
かしゅっ。かしゅっ。かしゅっ。
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