日が出ていれば夕暮れも近い頃合いだが、灰色の雨雲に隠れた空からは、夏らしい太陽の光は届かない。
そんな天気だというのに、気温や湿度ばかりがとても夏らしくて、
「ただいまー」
「‥‥‥ただいま」
「うわ、中も暑いねー」
玄関の扉を開けるなり、逃げ場のない屋内でさらに温められた熱気がもわっと溢れだしてきて、ふたりは思わず顔を顰めた。
「窓開けよう、舞」
「わかった」
残念ながら、舞と佐祐理の暮らす築二十云年のアパートに、エアコンなどという近代的な装備はない。
慌ただしく帰宅してきたふたりは、タオルで髪を拭くのもそこそこに、家中の窓を開けて回る。が‥‥‥暑い空気とさらに暑い空気が入り交じるだけで、どうにも『快適』とは程遠かった。
「去年の夏もこんなだったよね」
卓袱台の上にあった団扇で襟元に風を入れる。
「でも、暑いのが夏」
「うーん。舞は偉いねー」
そう言って佐祐理は、自分を扇いでいた団扇で舞を扇ぎ始める。
「‥‥‥お返し」
当然、舞は佐祐理に団扇を向ける。
そうして数分、凄い勢いで互いを扇いだところで、
「疲れたー」
ふたり揃ってがっくりと畳に膝をつく。
「って、わっ舞、濡れてる!」
髪や服からぽたぽたと落ちた滴が畳を濡らした。
「乾いてないから当たり前」
「‥‥‥そっか。雨」
すっかり失念していた。
そういえば佐祐理と舞は、雨の中を歩いて帰ってきたのだった。
一杯に開かれた窓の外で、雨音はまだ響き続けている。
「取り敢えず、シャワー浴びてこようか」
佐祐理の提案に、
「ん」
頷きながら、舞はその場に腰を下ろす。
「どうしたの舞? 先に入ってきてもいいよ?」
「佐祐理が先」
「でも舞、今日はお仕事だったんでしょう?」
「佐祐理もお仕事」
「でも佐祐理のは肉体労働とかじゃないし」
片や、メインはファーストフードの店員業。
「今日は五分しか働いてない」
片やはなんと用心棒稼業。
‥‥‥一緒の大学に入学したふたりは今、アルバイトで稼いだお金を元手に、一緒の部屋で暮らしている。
特待生扱いの佐祐理は大学の学費を免除されていた。舞の学費は舞のバイト先が持ってくれた。いちばん額面の大きな費目について考えなくてよいのは幸運なことだが、それ以外はすべて自力で賄わなければならない。
実は毎月振り込まれている多額の仕送りを佐祐理が無視し続ける限り、苦学生、と表現しても差し支えないであろうふたりの暮らしはこれからも続いていく。
だがふたりとも、それが不幸だなんて考えたこともなかった。
数分続いた不毛な押し問答の末、佐祐理が先にシャワーを浴びてくることになって。
「上がった」
「はーい。着替え出してあるよー」
「ありがとう」
遅れて風呂場に向かった舞が戻ってきた頃、廊下と共用の台所では、佐祐理が寸胴鍋を火に掛けていた。
「今日は暑いから、おそうめんにしようと思って」
「嫌いじゃない」
「すぐできちゃうから、お部屋で待ってて」
「手伝う」
「そう?」
佐祐理は振り返って、
「‥‥‥って舞、取り敢えず服着てよー」
まだ素っ裸のままで背後に立っている舞に気づき、困ったような顔をする。
「あ」
舞はぱたぱたと奥の部屋へ向かい、襖を閉じる。
「できたよー」
別に気温が変わったわけでもないのに、氷水に浸ったそうめんを卓袱台に置いただけで、部屋中が少し涼しくなったような気さえする。
「いただきます」
自分と舞の声を聞きながら、佐祐理はふと、あることに気づいた。
「あれ。雨、止んでる?」
そういえば、雨音が聞こえていない。
代わりに蝉が鳴き始めていた。
「ん」
「そっか。明日はお天気だといいね」
「‥‥‥ん」
そうしてふたりは、冷えたそうめんを啜り始めた。
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