日が出ていれば夕暮れも近い頃合いだが、灰色の雨雲に隠れた空からは、夏らしい太陽の光は届かない。
そんな天気だというのに、気温や湿度ばかりがとても夏らしくて、
「結構降ってるね」
いっぱいに開いた窓の外へノースリーブの両腕を伸ばしながら、言わずもがなのことを詩希は呟く。
「窓閉めないとエアコンの効きが悪くなるんだけど」
本当は、尚としてはすぐにも窓を閉めて欲しいのだが、
「いいよ。だって、夏って暑いものじゃない」
恐らくはそれも承知の上で、顔だけ室内に振り返った詩希はそう言って笑う。
「もうすぐ出掛けるんだし、エアコンは切っちゃおうよ」
「‥‥‥やっぱり、出掛ける?」
「ん。尚君は、家で待ってる? 今日は雨降りだし」
尚にはそう言うが、例えば今日みたいに雨降りだからとか、自分がちょっと体調を崩したからとか‥‥‥だから行かない、という風には、詩希は考えない。
「猫君と、雨降りの話をしようと思うんだけど」
縋るようでも嘆くようでもなく。
今でも詩希は猫君と、ごく他愛ない世間話をする。
そのために、詩希と尚は今日もそこへ‥‥‥猫君の亡骸を埋めた、あの砂浜へ向かおうとしている。
いつまでもそこに通い続けていて本当にいいのか。
尚としては、内心、そう思わないこともない。
だって猫君はとっくに死んでしまっている。
猫君を埋めた砂浜は猫君ではない。
砂浜も猫君の代わりにはなれない。
もう、猫君はいないのだ。
だから、遺された詩希も、通学と墓参りだけを延々繰り返すような日々から、そろそろ猫君のいない現実へと帰らなければならないのではないか。
いつまでも通っていたくても、学校からはあと半年ほどで追い出されるだろう。出席率はともかく、詩希や尚の成績では恐らく留年などさせてもらえない。
だが猫君の方は‥‥‥詩希自身が思い切らない限り、永遠に卒業しないままでいることだってできる。
それはどうなんだろう。
内心、そう思わないこともない‥‥‥そこまで考えて、不意に尚は小さく笑みを零す。
「どうしたの?」
そういえば、尚ひとりだけが、偉そうに詩希のことなど心配している場合ではない。
理由はそれぞれ違っても、現実から足を踏み外しかけたところを歩いているのは尚も詩希も同じことだ。
そこから詩希が帰らなければならないというなら、尚だって帰らなければならない、のではないのか。
「‥‥‥いや。何でも」
「本当に?」
疑わしげに聞き返す言葉の割には愉快そうな目つきで、詩希が尚の顔を見上げた。
「本当だよ」
「うーん、何だか怪しいなあ」
ぶつぶつと呟きながら、詩希は窓の外に目を戻す。
「もしかして、不安?」
唐突に、詩希は呟いた。
「何が?」
「毎日、猫君に会いに行ってること‥‥‥私が、猫君のこと、本当はちゃんと乗り越えられてない感じ」
時々、詩希は妙に鋭い。
「うん」
頷いてみる。
「酷いなあ。信じてくれてなかったんだ」
そう言いながらも、再び向き直った詩希は笑っている。
「でも多分、尚君が心配してるのとは違う感じなんだよ。何て言うのかな、うん、日記みたいな」
縋るようでも嘆くようでもなく。
「日記?」
今でも詩希は猫君と、ごく他愛ない世間話をする。
「そう。きっと、そんな感じ」
「‥‥‥ああ」
詩希にはわかっていた。
そのことを尚は改めて知った。
猫君が話を聞いてくれるから砂浜へ行くのではない。
詩希はただ、砂浜の日記帳に、日記をつけているのだ。
窓際の壁を手探りして、指先に触れたリモコンのスイッチをぴっと押す。
音量としてはごく僅かだったエアコンの駆動音も途絶えたふたりの部屋で、窓の外から穏やかに染み込む雨音が大きくなる。
「そろそろ行こうか、詩希」
「そうだね」
そう言いながらも、窓際に並んで立ったふたりは、しばらくそこから動こうとはせずに。
「結構、降ってるね、尚君」
「止みそうにないな」
そうして、ただ、降り続く雨を見つめていた。
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