ピアノが鳴っていた。
無遠慮に、かなりの音量で。
こんな早くに起きるつもりはなかったのに、時ならぬその音につい目を覚ましてしまっただけの尚にも‥‥‥人間の暦は九月で秋になったかも知れないがそんなことはこちらの知ったことではない、とでも言わんばかりの勢いで窓から雪崩れ込んでくる夏の朝日は、社会全般と一緒の生活をしているわけではない尚にも、容赦なくその牙を剥き出しにする。
ひとつ頭を振って、気怠げに尚は身を起こした。
目を覚ましても途切れることなく、隣室で響き続けるピアノの音もまた、ここが夢の中や概念上のどこかでなく、現実世界の只中であることを尚に教えている。
一体、誰が何をしているのか。
そんなことは、尚と、今ピアノの前にいるもうひとりにとっては、自明のことでしかない。
「朝から頑張ってるね、砂緒」
隣室に繋がる入り口から、おはようの代わりに尚はそう声をかけ、
「あら。ごめんなさい、起こしちゃったかしら?」
言葉の割には悪びれた様子もない口調で、振り向きもせずに砂緒は答える。
素肌の上に男物のシャツを纏っただけの背中はそうして答える間も忙しく腕を動かし続け、だから、その華奢な両腕が奏でる曲も、まだ止むことはなさそうだった。
まるでその曲が終わるのを待ちかねていたように、キッチンではお湯が沸いて。
「ひとつ聞いていいかな」
「何?」
「もしかして、僕を起こすつもりでやってた?」
紅茶のカップを砂緒に渡しながら、尚はそんなことを砂緒に訊ねた。
「‥‥‥ん。実は、そう」
砂緒は少し恥ずかしそうにはにかんで、聞き取れないような微かな声で『ごめんなさい』を続け、
「それよりも、調律」
強引に話を変え、
「あ、やっぱりズレてるかな? 今度直してもらおうか」
「ううん。このままでいいわ」
その上、自分が変えた話をばっさり切って捨てる。
「何だよそれ?」
「いいのよ。ズレてるね、って確認したかっただけ」
困惑顔の尚を他所に、砂緒は澄まして紅茶を一口。
「調律が狂っていることがわかるのも音感の練習のうち。鍵盤やペダルのタッチが違うピアノをいくつも経験しておくことも、ピアニストにとっては練習のうち」
「そんなもの、かな」
「だってピアノは動かせないもの。自分のピアノを担いでコンクールにやってくる人だってそうはいない。だから、自分のピアノだけにこだわって練習をするのは‥‥‥もちろん悪いことではないけれど、でも、少なくともコンクールで実績を作っているレベルのピアニストに限って言えば、それは損じゃないかって近頃は思う。それに」
愛おしげに、白鍵の表面をそっと撫でる仕草。
「こんな気持ち忘れてた。どれも同じ、私が弾いたら弾いた通りの音がするって、ピアノはそれだけの楽器だって、多分私、こっちに来るまではずっとそんな風に思ってた。でも違ったのよ。このピアノを弾いたらこのピアノの音がするの。音楽室のピアノは音楽室のピアノの音。当たり前みたいだけど、そういうことが、最近は少し嬉しい」
あれから、砂緒は時折、妙に饒舌になる。
それは砂緒の他に尚しかいないせいかも知れない。
ピアノの話をしているからかも知れない。
挫けてしまったことへの後悔。それでも蟠るピアノへの未練。‥‥‥何もかもが上手くいかない自分への溜め息で胸が塞がってしまっていたあの頃の砂緒は、奏でる音も、話す言葉も、こんなに楽しそうではなかった。
眩しいものを見つめるように、尚は少し目を細める。
「‥‥‥何よ」
憮然と呟いて、それから砂緒は、一瞬前までの自分を誤魔化すように、殊更大きな音をたてて紅茶を啜る。
「それで、僕を起こしてどうするつもりだったの?」
尚のひとことで、話は振り出しに戻った。
「ん。特に、何をどう、ということはないんだけど‥‥‥ほら、今日は始業式だし」
「そんなの、夜になってからじゃないか」
定時制なのだから、始業式も夕方からだ。
「だから、今からもう学校へ行かない?」
訝しげな尚の顔を楽しそうに覗き込んで、
「それで、どこかへ寄り道して、寄り道して、寄り道して、寄り道して、最後に学校に着くの」
そんな風に、砂緒は言葉を続けた。
「それは」
極めて斬新な提案であった。
例えば今、そこまで言ったところで阿呆のようにぽかんと口を開けたまま固まってしまった尚の頭の中からは、一生待っていても登場しそうにない類の。
「それは、何?」
今度は目を眇める。
実は、もともと顔立ちがキツめの砂緒は、そういう表情が様になりすぎて少し恐い。
「うん。それは」
一瞬、反応に苦慮してから。
まだ持ったままだった紅茶のカップもろとも、尚は両手を軽く上げてみせる。
それは降参の合図。‥‥‥もしくは、
「何だか、楽しそうだな、って思ったのさ」
それは、大賛成の合図。
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