傾きかけた遠い太陽の下の、薄暗い灰色の空の下。
人影も疎らな冬の砂浜にふたりは立って‥‥‥空と同じく、薄暗い灰色の水面が波打つのを眺めていた。
「ここに来るまでに何人かいたけど、ばかやろー、なんてぽんぽん叫ばれて、海は気を悪くしないのかな」
詩希はいつだって突然だ。
「大丈夫なんじゃないか?」
海のように広い心を持っているから。言おうとして尚は止めたが、
「海のように広い心を持っているから?」
直が言わなかったことを愉快そうに口にして、楽しそうに詩希は笑った。
「尚君の考えそうなことくらい、私にもわかるよ」
尚にも‥‥‥詩希の考えていることは、わかっているつもり、ではあったが。
それは、尚も知っている悲しい事実を猫君に告げに来たようにはとても見えない、屈託のない笑顔。
少なくとも尚の目には、詩希はそのように見えていた。
「猫君。今日は、何ていうか、残念なお知らせがあるんだ」
彼の亡骸を埋め直した、ささやかな墓標を前にして。
「実は、私と猫君と、それから‥‥‥」
流石に少し沈痛な面持ちの詩希は、そこで初めて言葉を詰まらせ、
「みんなで暮らした、あのお家、なんだけど」
ややあって、何かを決意するように、小さく息を吐く。
「ごめんね猫君。お家、盗られちゃった」
恐らくは、詩希の両親が亡くなった直後から。
まだ未成年である詩希の法的・経済的な後見人という立場に、あの手紙を寄越した親戚夫婦が納まっていた、という事実が発端にあるらしい。
その時に詩希がそうと気づかなかった、その段階で既に、趨勢はほぼ定まっていたのであろう。現世のできごとに頓着しない詩希の性格が、この件についてだけは完全に裏目に出た形だ。
考えてみれば、財布を取り上げることはせず、詩希自身が経済的に自立している状態にしておいたことも、財産の運用のようなことに目を向けさせない企みの一環、であったのかも知れない。
そうして財布の紐を詩希から取り上げない代わりに、彼らには最初から別のお零れに預かる心積もりがあった。
再三に渡って詩希に一緒に住むよう呼びかけていたのも実はその心積もりのためで。
それでも、詩希が佐倉の家で日々を過ごしている間は大人しくしていたようだったが‥‥‥その詩希が尚の部屋に半ば居着くようになったと嗅ぎつけるや、箍の外れた親戚夫婦は、留守がちになった家の中に残されていた僅かな家財道具を放り出し、佐倉一家の思い出の家にあっという間に『借家』の看板を掛けてしまった。
何のことはない。親戚夫婦の狙いは、最初から、不動産としての佐倉家を掠め取ることにあったのだ。
後見人として財産を預かる立場が法的に後ろ暗いものでない以上、この顛末におかしな点は特にない‥‥‥付け入る隙を見せてしまったばかりに、散々に踏み躙られてしまった詩希の心情を抜きにすれば、だが。
囁くような小さな声で、猫君と思い出を語りあう詩希の背中を見つめながら‥‥‥頭がいいのも考えものだ、と尚は思った。
あの『借家』の看板を巡る事態の真相が明るみに出ても、嫌だとか、納得がいかないとか、そんな風に騒ぐことを詩希はしない。
『そういうやり方って、ありなんだね』
尚が知っている限りでは、ただ一度、あの看板の前でそんな風に呟いただけで。
頭では、納得できてしまっているのだろう。親戚夫婦の小賢しいやり口や、とっくに取り返しのつかないところに追い込まれていた自分の立場、といったことに。
財産としての一軒家が自分にとって大切だとは、詩希は元々考えていなかったせいもある。
だが、だからといって全部を肯定できはしない。財産としての一軒家に詩希がいくら無頓着でも、佐倉家で自分自身が生まれ育ち、家族や猫君と一緒に暮らしてきた、そういう思い出にまで無頓着ではいられない筈だ。
『ごめんね猫君。お家、盗られちゃったよ』
尚の中にまだ残っている詩希の言葉に対して、自分をどうすればいいのか、よくわからずにいた尚だが、
「わっ、尚君?」
耳の奥で繰り返す音から滲みだす想いに後押しされるように‥‥‥ごく自然に、尚は詩希の背中をぎゅっと抱きしめた。
「泣いてもいいよ。喚いたっていい。いけないことなんかじゃないよ。それくらい大事なものを、詩希は失くしてるじゃないか」
「うん。‥‥‥でもね、それはもういいよ」
「いい、って」
「だって、私はそれでお金に困るわけじゃないし。思い出だって、私が自分で持ってるよ。猫君も持ってる。それにあれは、未来じゃない」
「え?」
「未来の思い出。私と尚君が、今、一緒に歩いてることの思い出。それは元々、あそこにはあんまりなかったから。だから大丈夫」
「‥‥‥本当に、それでいいの?」
「うん。盗られ方はちょっと悔しかったけど、それよりも、次に住む人がしあわせだといいな、って今は思う」
「ねえ尚君。私たちがやっても、海は許してくれるかな」
尚の腕を解いて、向き直った詩希は笑う。
「もしかして‥‥‥ばかやろー?」
「そう」
「どうかな」
口ではそんな風に答えるが、多分、許してくれるだろう、と尚は考えていた。‥‥‥なにしろ海ときたら、海のように広い心を持っているのだから。
「一緒に行こうよ、尚君」
繋いだ手を詩希が引いて、
「‥‥‥そうだな」
ふたりは波打ち際へと駆け出す。
そして。
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