傾きかけた遠い太陽の下の、薄暗い灰色の空の下。
人影も疎らな冬の砂浜にふたりは立って‥‥‥空と同じく、薄暗い灰色の水面が波打つのを眺めていた。
「わざわざこんな時期に海なんか来なくても」
それが不満なわけではないのだが、直樹はそう言うことにする。
「あたしのナイスバディが見れなくて残念?」
不満でそう言っているわけでないことは伝わっているからか、茉理は少し冗談めかして答えることにする。
「そういうことはもう少し水着が似合うようになってから言おうな、茉理」
「むっかぁ」
ひっぱたくとか、抓るとか。
この失礼な男に何か報復してやろうと茉理が動く前に、
「って、わっ!」
直樹はいきなり、茉理の身体を横抱きに抱え上げてしまった。
「なっなな何するのよ直樹いきなりっ」
茉理にしてみれば、それはものすごい不意打ちであった。既に報復どころではない。
「ほら。こんなに軽いだろ、まだ」
「あ‥‥‥その、うん」
確かに過日、床に伏したまま、点滴だけで命を永らえていた頃は、やつれた手足は針金のようだったし、抱き上げた直樹の方が悲しくなるくらい、その身体は軽かった。だが、隔離が解かれて半年以上にもなる今、順調に回復を遂げた茉理は、直樹が口で言うほど軽くはない。
実は今だって、所謂『お姫様だっこ』の体勢を維持するために‥‥‥頑張っていることを茉理に悟られないように、直樹は結構、頑張っているのだ。
「ありがと、直樹。‥‥‥でもやっぱり、降ろして」
「大丈夫か?」
「ん。そんなにね、直樹ばっかり無理なことして、あたしのこと大事にしようとしなくても大丈夫だよ。あたしの身体だもん。まだちょっと痩せてるけど、体重とか、結構戻ってるのもわかってるし」
どうやら茉理は、直樹がそうして頑張っていることに気づいていたらしいが、
「そうか。じゃ降ろ‥‥‥あ」
「‥‥‥ちょっと! 『あ』って何よ『あ』って!」
どうやら既に、
「っと、っとっとっと」
「うわっうわっ直樹ーっ!」
直樹は頑張りすぎていたらしかった。
どさり、と音をたてて、直樹と茉理は折り重なるようにその場に倒れる。
「馬鹿直樹っ」
顔から砂を払いながら、恨めしそうな目で直樹を見下ろす茉理に、
「ごめん、茉理」
面目なさそうに直樹は呟いた。
「おしおき」
転がったままの直樹に馬乗りになった茉理が、砂塗れの両手で直樹の顔を押さえた。
「どこがだよ」
「うるさいうるさいうるさい! そんな馬鹿直樹なんか、こうしてやるんだからっ!」
唇に唇を押しつけたのは茉理だったが、先に舌を割り入れたのは直樹の方だった。
‥‥‥何がどこまで『おしおき』なのか、確かに、これでは少しわかりづらいかも知れない。
「でも茉理‥‥‥なんで今っていうか、こんな冬なのに、今朝になって急に『海へ行こう』なんだ? 夏だって来ただろ? 水着は着なかったけど」
「だって、冬の海も見てみたかったから。やりたいこともあったし」
真冬の砂は重く冷たい。
直樹の傍らに転がり落ちて、直樹と並んで砂の上で仰向けに寝ていた茉理は、結局すぐに半身を起こす。
「ほら、直樹はいつも『時間はたくさんある』って言うけど‥‥‥そう言ってくれる気持ちって本当、すごくわかるんだけど、でもやっぱり、本当はそんなにたくさんはない、ってあたしは思うから」
去年の今頃、もう治らない筈の病に冒された茉理は、時計塔の地下に隔離されていた。
半年ほども続いた苦闘の日々は、茉理が何か悪いことをした罰でも、何かおかしな生活習慣を維持していたせいでもない。その原因を作った誰かを今でも恨んでいるとか、そのせいで神様に台無しにされた半年間を悔やんでいるとか、そういう気持ちもないではないが、
「だからね、できるって思ったらすぐやりたい。行きたいって思ったらすぐ行きたいの」
そんなことよりも、
「それでもね、本当に終わっちゃう時には、それまでが百年あっても千年あってもきっとあたしは後悔する、って思うけど」
自分のせいでも直樹のせいでもないのに、理不尽な『さよなら』の予行演習を強いられてしまった今はもう、
「でも‥‥‥だから、それがいつのことでも、できるだけやり残したことがないようにしていられたら、って」
誰に、いつ、どんな不幸が降ってくるか‥‥‥それは誰にもわかりはしない、ということについて、昔のように無関心ではいられないのだろう。
「じゃ、ちょっと行ってくるね、直樹」
「どこへ?」
「海。やりたいことがある、って言ったでしょ」
元気よく立ち上がって、茉理は背中の砂を払う。
「いっぺんね、冬の海に向かって『ばかやろー』って叫んでみたかったんだ‥‥‥それで、あの病気のことはおしまいにしようかな、って」
それは何となく、いつかどこかで観た光景、のような気がした。どこで観たのだろう。レンタルビデオで借りてきた何かの映画だったろうか。それとも。
「まあいいや」
「何が?」
「何でもないよ。ほら茉理、行って来い」
「‥‥‥ん」
駆け出した茉理の背中が波打ち際に立つ。
大きく息を吸い込むように、背中を反らすのが見える。
そして。
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