「明日だな、保奈美の誕生日」
「そうだね。でも、そんなに気を使わなくてもいいよ? 一緒に住んでる人が驚いちゃうようなこととか、何かするのも難しいんじゃないかなって思うし」
「じゃお言葉に甘えて、今年のプレゼントはぽてりこ一個ということで」
わざとらしく意地悪そうに口の端を歪めて直樹は笑う。
「流石にそれはちょっと寂しいかも」
これ見よがしに悲しそうな表情の保奈美が上目遣いに直樹を見つめる。
「まあぽてりこは冗談として‥‥‥確かに、そういうのはちょっと難しくなったかもな」
九月十日、宵の口。
行儀悪く箸を咥えたまま、卓袱台の前で直樹はひとつ伸びをした。
「去年だって、渡した時にはそうは言わなかったけど、俺がプレゼントどこに隠してたか、本当は気づいてたろ?」
ちなみに去年、直樹が保奈美に用意したプレゼントは、新品の炊飯ジャーだった。
「ん。気づいちゃってたけど、でも中身のことまでわかってたわけじゃないし」
直樹の茶碗にご飯を装いながら、保奈美はぺろりと舌を出してみる。
「それに、普段お掃除してるのは主にわたしだから、この家の中に隠しておくのは難しいと思うな」
それなりに嵩張る段ボール箱が、しかもラッピングされた状態で、普段はあまり使っていない物置部屋に隠してあったことに‥‥‥去年、保奈美は確かに気づいていたが、大体、この家には直樹と保奈美しか住んでいないのだから、保奈美の知らない不審物には何か直樹の企みが絡んでいるに決まっているのだった。
「それもそうなんだよなー」
「だから、内緒にしたいことが何かあるなら、なおくんもお掃除すればいいんじゃないかな」
「おお‥‥‥って、そう言われてすぐ掃除なんか始めたら、何か隠してるのが丸わかりだろ。うん。だから任せた。頑張れ保奈美」
「もう。調子いいんだから」
口では咎めるようなことを言いながら、しかし保奈美はまた、満更でもなさそうに笑う。
「ああ。驚いたっていえば、去年届いたプレゼントはちょっと驚いちゃったかな。あれ、結局誰が送ってくれたんだろうね?」
「誰がって、何人か名前書いてあったろ、手紙に。本当に誰も知り合いがいなかったのか?」
「ん。みんな知らない人だったと思う」
直樹と保奈美が直樹の実家に引っ越し、ふたり暮らしを始めてから一年と少し経った。
あの謎のプレゼントが‥‥‥何故だか『右手で握って振り回す』のにやたらと適した、赤い握りのついたフライパンが『久住保奈美』宛てに送られてきてからも、明日でちょうど一年になる。
「何だっけ。えっと、この辺に手紙を‥‥‥あ、これこれ」
書類の入った抽斗から、保奈美が手紙を引っ張り出してくる。
「『普通のフライパンはもうお持ちでしょうから、殴打用に調整したフライパンをお贈りします』、って」
「そんな物騒な。フライパンなんかで殴られたら怪我するだろ普通に。何考えてるんだそいつら」
同梱の手紙によれば『そいつら』こと差出人は『フライパン友の会』。
その下に、羽根井優希、レイチェル・ハーベスト、シスター天地の名前が連ねられていた。
「でも本当に、人を殴るのには向いてる感じだったよ?」
「そりゃ俺も握ってみたから知ってるけどさ」
とはいえ、この一年の間、直樹や保奈美がフライパンで殴られたことは一度もなかった。問題のフライパンは届いたその場でその赤い握りの部分を外され、普通のフライパン二号として、久住家の台所でごく当たり前に活用されている。
「他は何だか知らないけど、あんなので人殴るシスターがいるとか、ちょっと考えたくないよな」
「あ、それは確かにそうかも」
▽
「‥‥‥くしゅんっ」
「あらシスター、風邪?」
「いえ‥‥‥失礼しました。それで羽根井さん、四人目の方というのは」
「んー。それが、まだ一度も顔出してないみたいなんだよねえ‥‥‥ひょっとしてあのフライパン、もう捨てられちゃってたりして」
「ああいう宛名を書いとけば、少なくとも開けずに捨てるようなコトにはならないと思ったんだけど。アテが外れちゃったかしら?」
「あれは悪巧みが過ぎるのではないかと思いますわ、レイチェルさん。‥‥‥それはそうと、では今年もまた贈るのですか?」
「それも何だかわざとらしいし。どうしたもんだか」
▽
「あ、そうだ。せっかく思い出したんだから、一周年記念ってことで、元に戻してみようか? あのフライパンのグリップ」
何か思いついた顔で、保奈美がそんなことを言う。
「え? 保奈美、もしかして捨ててなかったのか?」
「うん。一応あれも誕生日のプレゼントでいただいたものだったし、ゴミに出しちゃうっていうのも何だか気が引けて」
「‥‥‥あー。そうかもな」
その返答をとても保奈美らしいと直樹は思ったが‥‥‥案外、贈られた相手が自分であったとしたら、自分だって捨てずにとっておいたのではないか、と次には思う。
「で、元に戻してどうするんだ? まさか俺を」
「殴って欲しいの?」
「んなワケあるかっ」
「ふふっ。言われなくても、こんなのでなおくんを殴ったりしないよ」
笑いながら席を立った保奈美は、フライパン二号と、あの赤い握りを持って居間に戻り、
「ただ元に戻すだけ。んー‥‥‥明日、朝ご飯作るまでの間、かな」
きしきしと音をたてながら、
「殴るかどうかは別にして、一年に一度くらい、本当のかたちに戻れる時があってもいいのかも、って今ちょっと思って」
材質のよくわからない赤い握りをフライパンの柄に被せていき、
▽
次に顔を上げた時、
「ん。できたよ、なおくん」
保奈美は見知らぬどこかの店の床に座っていた。
「って、あれ? え?」
目の前にあった卓袱台も、その向かいで笑っていた直樹の姿も、今、保奈美の視界の中にはない。
それどころか‥‥‥すぐ目の前はその路地の突き当たりで、あるものといえばバーカウンターと幾つかのテーブル席、バーテン、握ったままだったフライパン二号。
そして、保奈美に手を振る数名の女性。
「やだ、わたし裸足」
立ち上がった保奈美は、素足でそこに立っていることに気づく。
慌てて周囲を見回すが、何度見回しても、そこは久住家の中ではない。当然、家の中で普段履いているスリッパも、出掛ける時に履いていく靴も、見つけることはできなかった。
「あ、来た! おーい保奈美ちゃーん! こっちこっちー!」
同い年くらいの、長いポニーテールの女性が、保奈美に向かって手招きをしている。
その脇、向かって右側には、真ん中の女性よりもやや年上の‥‥‥何か不思議な格好をした、活発そうな短髪の女性。
真ん中の女性を挟んだ反対側に、グレイのスーツを着込んだ、落ち着いた印象の女性。
「どうなってるんだろ」
呟いて、ひとつ息を吐いてから、保奈美は女性たちの席へ向かう。
「すみません。わたし、今まで家で食事してた筈で‥‥‥その、何がどうなっているのか、事情が全然わからないんですが」
「あー、大丈夫大丈夫。心配しないで、あたしたちは事情わかってるから。何か飲む?」
「え‥‥‥」
「あれ。カクテルとか嫌い? この店、大体何でも揃ってるわよ」
にこやかに笑いながら、短髪の女性はあっという間に話を持って行ってしまった。
「ええと」
その女性が保奈美に何を薦めているのか、には保奈美も気づいていたのだが‥‥‥急にそういわれても、こんなシチュエーションで、しかもどこだかわからないこんなバーで、ろくに飲んでみたこともないカクテルなどを注文する気にはとてもなれない。
「でもわたし、今日は持ち合わせが」
大体保奈美は、今は財布も持っていないのだ。
「いいからいいから。保奈美ちゃんの分は、今日はこっちのシスターの奢りだから」
「え‥‥‥ちょ、ちょっとレイチェルさん」
急に話を振られたスーツの女性はやや慌てた素振りを見せる。
「シスターが全部奢るかどうかはともかくとして、今日のところはそんなに心配しなくても。ほら、まあ座って座って」
「ともかくって、何ですか羽根井さんまで」
真ん中の女性に勧められるままに、保奈美は四人席の空いた椅子に腰掛ける。
「あの、本当に何でもあるんですか?」
バーカウンターの奥でバーテンが頷く。
「んー。まあ、そうだね。古今東西、人間が飲むものだったら大抵は揃ってると思ってもらっていい‥‥‥は流石に豪語し過ぎかな」
奥から顔を出したもうひとりの男が付け加えた。
「それじゃ、アイスティを」
「‥‥‥あはははっ! 何よ、仲よくなれそうでよかったじゃないシスター! いいわ。マスター、あたしたちにもアイスティね」
「畏まりました」
奥から出てきた男の方が『マスター』らしい。にこやかに返事をしながら近寄ってきて、カクテルグラスふたつと、色合いからしてアイスミルクティでも入っていたのであろう、ストレートのグラスを下げていく。
「でも、今までお酒飲んでたんじゃなかったんですか? 急にアイスティなんか飲んで、酔いが醒めちゃったら」
「ゲストに合わせるのもホストの務めってものよ」
レイチェル、と呼ばれていた短髪の女性は笑いながら少し居住まいを正し、
「改めて、自己紹介するわね。あたしたちがそのフライパンの荷主」
他のふたりもつられたように椅子に腰掛け直して、
「またの名を『フライパン友の会』」
そうして保奈美は、一年前に突然フライパンを送りつけてきた張本人たちと、初めて顔を合わせることになった。
「というコトで、わたしたちは日夜、フライパンの新たな可能性にチャレンジし続けているワケだけど」
羽根井優希、と名乗った真ん中の女性は得意げにそんなことを言ってみせたが、彼女のいう新しい可能性とは、要するに『おたまでフライパンを叩くと喧しいので寝坊すけの店長でもすぐ起きる』といったことであるらしい。‥‥‥その『店長』とやらが誰で、今ここにいる優希とはどういう関係なのか、肝心なところが意図的にぼかされているらしいその説明からではいまひとつ掴めなかったが、それは恐らく、わたしとなおくんのようなことなのだろう、と保奈美は察する。
「はあ」
さらにわからないのは残りのふたりで、本当にフライパンを何か対人用の武器の一種だとでも勘違いしている人の話にしか聞こえなかった。
きっちりとスーツを着こなした大人びた女性の口から『マジ殴り』などという物騒な単語が飛び出すに至っては、ついさっき彼女が自分で言った『ミッション系の学院に住み込みで、礼拝堂を預からせていただいています』という言葉の信憑性について、保奈美としても少々考え込まざるを得なかったし、
「それで、こんなグリップがついたフライパン、ですか」
「そうよ。っていうか、殴ってないの? 旦那」
意外そうな‥‥‥人を殴るのがさも当然であるかのような、だから保奈美がおかしいかのような顔で訊き返すレイチェルの態度にも、やや理解し難いものを感じざるを得ない。
「殴りません」
「それじゃ朝はどうやって起こしてるの?」
興味津々といった面持ちで優希が訊ねる。
「どうやって、って‥‥‥普通に、掛け布団を剥がしたり、窓のカーテン開けたり」
「そんなんで起きてくれるんだー? んー、ちょっと羨ましいかも、保奈美ちゃんの旦那さん」
「ですから、わたしたちはまだ結婚はしていなくて」
「あら、婚約してて一緒に住んでて、もう似たようなものじゃない」
そんなことまでどうして知っているのだろう、という疑問が頭の片隅をふっと過ぎった。
「ね、ここだけの話、ちょっと嬉しかったでしょ? 『久住保奈美』って送り状」
「う‥‥‥」
「そこの優希ちゃんでも一回やった手なんだけど、内心、かなり嬉しかったみたいよ? まーったく、あっちもこっちもお熱いことで」
ノリノリのレイチェルが楽しそうに悪態を吐き、
「所詮この世はしあわせものの天下よねー」
優希と保奈美は揃って真っ赤な顔を俯かせた。
「‥‥‥ところで、ええと」
その脇から、やや困惑顔のシスターが口を挟んだ。
「先ほどから少し困っているのですが、結局私は、どちらの名字でお呼びすればいいのかしら?」
「っ! ごほっ、ごほっ」
それが、俯いたことの言い訳か何かのように、ちょうどアイスティを口に含んだ途端のことだったので、噎せ返った保奈美は苦しそうに咳き込んだ。
「あら。ごめんなさい‥‥‥その」
「虫も殺さないみたいな顔して、結構やるわよね、シスターって」
「天然って恐いねー」
けらけらと笑いながら、レイチェルと優希のふたりは聞こえよがしに悪口を言い合っている。
「あなたたち‥‥‥」
まだ結婚はしていなくて、と主張しているのは保奈美自身なのだから、正解は『藤枝』に決まっていた。
「‥‥‥あの」
だが、そこで保奈美はきょろきょろと店内を見回し、自分たちの他に誰もいないのを確認してから、
「久住‥‥‥でお願いします‥‥‥」
さっきよりも赤い顔をさらに俯かせて、消え入りそうな微かな声で呟いた。
取り留めのない話はその後も暫く続いたが、
「ああ、もうこんな時間‥‥‥せっかく集まったんだから、今日は五人目の話もできたら、って思ってたんだけど」
腕時計に目をやって、残念そうに優希が言う。
「五人目?」
「あそこは候補者がいっぱいい過ぎて、もう誰を選んだものやら。ひとりに絞るのが難しかったから、先に保奈美ちゃんにコンタクトをとってみた、っていう事情も実はあるんだけど。この人たち」
どこからともなく取り出され、テーブルに並べられた三枚のスナップ写真。
一枚は、メイドのような服装に身を包んだ小柄な少女の写真。
その横にあるのは、どこかの学校の制服らしきものを着た、両脇の髪をリボンで纏めた少女の写真。
三枚目は、ウェイトレスのような格好がよく似合う、髪の長い少女の写真。
「誰の写真?」
「ええとね。左から、ミアちゃんに麻衣ちゃんに菜月ちゃん。この中からひとり、『フライパン友の会』に入ってもらえれば、と」
「‥‥‥って、あれ?」
そこまで聞いて、保奈美は首を傾げた。
「あの、もしかして、わたし」
「大丈夫大丈夫。心配しなくても、ちゃんと頭数に入ってるわよ」
レイチェルはそう言って笑うが、保奈美は別にそういう心配をしていたのではない。
「まあ、この続きはまたの機会にしよっか。だから保奈美ちゃん、そのフライパンのグリップは捨てちゃダメだよ?」
「え、これ?」
思い出したように、保奈美は傍らのフライパンを手に取る。
「そうそう。そのフライパンとグリップはセットだから。ちゃんと繋がってないと秘密基地にも来れないし。もしかして、今までずーっと外しっ放しだったんじゃない?」
秘密基地ってどこだろう、と保奈美は思う。
「本当にお料理で使ってるなら、ずーっとそのままにしといて、とは言わないけど。時々ね、そうやって元に戻してもらえたら、このお店にも来れるし」
まさか、このバーが秘密基地とやらなのだろうか。
‥‥‥嫌な予感に頷くように、目の前の三人が、保奈美が手にしているのと同じフライパンをそれぞれに掲げてみせる。
「うーん。まだ意味がよくわからないんだけど」
「別に難しいことではありませんから。すぐにわかりますよ、久住さん」
律儀に『久住さん』を語尾につけて、シスターは保奈美に話しかけた。
「さて、それじゃ今日のところは解散ということで」
▽
「あれ」
次に気がつくと、そこは久住家の居間で。
「保奈美? ‥‥‥どうした?」
茶碗と箸をそれぞれの手に持ったまま、直樹が保奈美を見つめている。
「どこ、って‥‥‥わたし、どうなってた?」
「どうなってたって、グリップ填めただけだろ?」
「どれくらい?」
「え? だから今だろ、フライパン直ったの」
どうやら、保奈美があのバーに行っていた間、こちらの時間は流れていないようであった。
「そっか。うん」
納得したようにひとりで頷いて、握ったままだったフライパンを傍らに置く。
「あ、そうだ、なおくん。今度一緒にバーに行ってみない?」
もともと飲酒の習慣がなかったせいもあるが、ふたりとも大学生とはいえ未成年でもあり、そういった店へ行ったことはあまりなかった。
「バー? いいけど、どうしたんだ急に?」
「ん。‥‥‥美味しいカクテルのこととか知らないでバーとかに誘われるのも、ちょっと寂しいなって思っただけ。だから練習」
「練習って、誰に誘われるんだよ」
「なおくん、誘ってくれないの?」
再び、これ見よがしに悲しそうな表情と、上目遣いの保奈美。
「いや誘っていいなら誘うけど。って、俺もカクテルとか全然詳しくないけど」
他の奴には誘われるなよ。
‥‥‥口の中でだけ、もごもごとそう付け加えているのが、保奈美にはわかった気がして、
「誘われないよ。わたしは、なおくんと」
だから、保奈美はそんな風に答えた。
「それから、『フライパン友の会』だけ」
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