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 その日も、その前の日も、もっと前の日も。 
 近頃ずっと、ちひろは温室に篭もったきりだ。 
 温室にいるというだけのことなら、特に珍しくもない、いつものことではある。ただし、直樹や恭子の来訪すらも拒絶して、ひとりきりで温室に閉じ篭もっているその状況までが、いつものこと、で済まされる筈もない。 
 ‥‥‥心配だが、だからといって、ずっとそこに突っ立ってもいられない。 
 諦めたように溜め息を吐いて、入口の前で踵を返した直樹の小さな背中を、温室の奥から、縋るようなちひろの眼差しが見つめている。 
 言えない言葉を呑み込みながら、遠ざかる背中へ伸ばしかけた手を無理に持ち上げて、のろのろと、秋の陽光に手を翳す振りをする。肩のあたりの骨が軋んで、硝子のように脆くひび割れてしまいそうな音をたてる。 
 こんな私、このまま壊れちゃえばいいのに。 
 自嘲気味に胸の中でだけ呟いて、直樹のいなくなった硝子から、ちひろは手元に視線を落とす。 
 そこに、萎れてしまった青いフォステリアのプランタ。 
 今度の株にも種はつかなかった。 
 また失敗。 
 
 
  
 直樹はそのまま、時計塔地下の研究室を訪ねて、奥から恭子が持って来たステンレスのコーヒーマグを危なっかしく片手に持ったまま、半ば放心したように、茉理の寝顔を眺めている。 
 ‥‥‥今のところは、そこで眠っている茉理がどこか具合が悪そうに見える、ということはない。状況がこうなってしまってからはろくに休んでもいないせいなのか、外見的な印象だけで言えば、恭子の顔色の方が茉理よりよほど病的とさえ言えた。 
 だが、充分に眠れる生活に戻ればそのうち治るであろう恭子と違い、そうして見ている誰かにわかってしまわないようにゆっくりと時間をかけながら、茉理の生命は今も、ほんの少しずつ削り取られているという。 
 病魔の名はマルバス。 
 百年後の世界から人間という種そのものを滅ぼしかけた、悪魔の名を冠されたウィルス。 
 そうと判明したところで打てる策などありはしない。 
 策があるならこんな馬鹿げた事態が起きる筈もなかった。滅ぼされかけた百年後の人間たちが、時間を越えて避難してくる、などという事態が。 
「誰とは言えないけど、そうして未来から避難してきた人は他に何人もいるわ。もちろん蓮美台の生徒の中にもね。でも正直、今はそれだけで‥‥‥逃げてきただけで精一杯、ってところよ。情けないけど」 
 凝った眉間を揉みながら、疲れた声で恭子は告げる。 
 最悪の形で巻き込まれてしまった茉理の、義理のとはいえ家族、また今は恋人でもある直樹を相手に、事情を隠したままで済ませるわけにはいかない、ということなのだろう。大抵のことには、恭子は答えてくれる。 
 ワクチンの研究は続けているが、人体で試せる段階に至るまでのものはまだ作れていないこと。 
 このまま、茉理が死ぬまでワクチンができあがらないと仮定した場合‥‥‥茉理の余命は、そうは長くない筈だ、ということ。 
 嘲るような笑みを浮かべて、すやすや眠っている茉理の目蓋のあたりで戯けている、マルバスと名付けられた悪魔の姿が、直樹には視えるような気がしていた。 
「俺、何もできないんですね、こいつに」 
 直樹が睨みつけるマルバスの姿が、同じように恭子に視えているわけではない。‥‥‥だから恭子には、直樹は茉理を睨んでいる、ようにしか見えていない。 
「気休めにしか聞こえないと思うけど、渋垣は、久住に側にいて欲しい筈よ。それは久住じゃなきゃダメなことだから‥‥‥何もできてない、ってことはないのよ。確かに小さなことかも知れないけど、でも決して、意味のないことなんかじゃ」 
 言いながら恭子は辛そうに息を吐く。 
「そういえば、八つ当たりとかしないわね、久住は」 
 それが優しさによるものなのか、それとも諦めによるものなのか、あるいはその他に何か所以があるものなのか。恭子はそれを計りきれずにいた。 
 表立っては何も言わない直樹の態度にまで、追い詰められたような気分になって‥‥‥何か嫌なことを言ってしまいそうな自分の口に、欲しくもない煎餅で蓋をする。 
 直樹はまだ、茉理の寝顔を睨んでいる。 
 
 
  
 それから少し経って。 
 明日に迫ったクリスマスイヴに世間が浮かれている頃。 
「大丈夫。ただの過労よ。渋垣のとは全然違うわ」 
 息せき切って駆け込んできた直樹の心配を先取りしたように、恭子は告げる。 
「過労って‥‥‥高校生なのに過労で倒れて『大丈夫』はないでしょう先生?」 
 言い返された恭子は一瞬、阿呆のように口を開けて、 
「‥‥‥そうね。私、どうかしてるわ。ごめん」 
 自分に呆れたように答え、 
「すいません。俺、言い過ぎました」 
「いいのよ。久住は何もおかしいこと言ってない」 
 気まずい沈黙をごまかすように、傍らのマグから音をたてて温いコーヒーを啜った。 
 同じように目を逸らした直樹が振り返る。 
 夕暮れ時の穏やかな陽光が、白いカーテン越しに、ベッドの上にも差し込んでいる。 
 ちひろは今、そこに寝かされていた。 
「それよりも、過労って‥‥‥あの温室で何してたんですか、ちひろちゃんは?」 
「ん。詳しいことはよくわからないのよ、私にも」 
 事務机の引き出しから分厚いノートを取り出し、適当なページを開いて机に置く。 
 厚みが五割ほども増したようなそのノートは、ただの大学ノートとはとても思えないような大袈裟な音をたてて机を叩いた。 
「これ、倒れてた時も手に持ってたから、何となくそのまま持ってきちゃったんだけど。前から橘がやってたでしょう? そのために園芸部に来たようなことも言ってたし。でも、それにどういう意味があるのかまでは‥‥‥前にちょっと聞いたこともあったとは思うけど」 
 そこに所狭しと並べられている写真のほとんどは、あの青いチューリップを写したものだ。 
 それに加えて、小さいが丁寧な字が‥‥‥書き付けられているというよりは、写真と写真の隙間にぎっしりと詰め込んである、と表現した方が適切かも知れないくらいの、膨大な量の観察記録。 
「こんなに、ですか」 
 こんなものを見せられては、過労で倒れるくらいは当たり前に起こり得る、ような気がしてきてしまう。 
「それで、書かれてる中身のことは読んでもよくわからないんだけど、気になってるのはね。久住、ちょっと何ページか戻ってみてくれる?」 
 ぱらぱらとページを戻す直樹の手が、 
「え? 何だこれ?」 
 突然、止まった。 
「そう。その前とその後で、密度っていうか、書き込まれてる量が全然違ってるでしょ」 
 確かにそうだ。異様なまでの密度はあるページを境に突然形を潜め、いかにも読みやすく書き綴られた普通の観察記録に変わっている。 
「それでその、ちょうど境目の九月二十八日は」 
「いや、違いますよ。二十八日はあの三日後で」 
 言いたいことを察した直樹は否定しようとするが、 
「何でも自分を基準に考えるのはよくないわよ。そのノート書いてるのは久住じゃなくて橘でしょ? ‥‥‥多分、その日で合ってるのよ。だとすればそれは」 
 さらに直樹を遮った恭子の言葉の方が、どうやら、正しそうであった。 
 だとすれば、それは。 
 茉理が倒れたその日ではなく。 
「そうです」 
 机に向かっていた直樹の後ろで、 
「その日は、私が初めて茉理のお見舞いに行った日‥‥‥茉理の病気がマルバスだって、私が知った日です」 
 ベッドの上に半身を起こしたちひろが、いつからか、直樹たちの方をじっと見つめていた。 
 
 
  
 温室の扉が開いて、直樹とちひろが入ってくる。 
 恭子もついて来ると言い張ったが、それは結局、ちひろが断ってしまった。 
 ふたりは無言のまま、温室のいちばん奥に置かれたプランタのところまで歩いていく。 
 その日は、私が初めて茉理のお見舞いに行った日。 
 茉理の病気がマルバスだって、私が知った日です。 
 さっきちひろがそう言ったことを直樹は思い出す。 
 そして、茉理がマルバスに罹ったと知った日を境に一変する、ノートの観察記録。 
 直樹のように何かの事情で聞かされでもしない限り、現代の人間はマルバスが何であるかを知らない。 
 幾つかの事実が声を揃えてちひろの正体を告げる。 
「あの、もう、気づかれちゃってますよね。私も、この世界の人間じゃないって」 
 直樹の頭の中を見透かしたように、くるりと振り返ったちひろがそう言って笑った。 
「ですから、できたら久住先輩にだけ、憶えていて欲しいんです。私がここで、この温室で何をしていたか。どうして私がそうしなきゃいけなかったか。それで‥‥‥その前にひとつ、お願い、聞いてください」 
 寂しそうな笑顔。 
「そこにしゃがんで、目を閉じてください」 
 首を傾げながら、言われた通りに直樹は膝を落とす。 
「こんなこと、仁科先生に言っても、きっとやらせてもらえません」 
 目蓋の闇から、ちひろの声が聞こえる。 
 吐息が頬を掠める。 
「でもこうすれば、茉理はよくなるって思うんです」 
 不意に。 
 長い間触れていなかった、やわらかな、あたたかな何かが、直樹の唇に触れた感じがする。 
 それは小さく震えながら、しかしゆっくりと直樹の唇を抉じ開け、 
「‥‥‥っ!」 
 口腔に押し込まれた、苦くて土臭い、何だかさっぱりわからないものを、直樹は飲み下してしまう。 
 
 
  
「ごめんなさい。もっと前‥‥‥一ヶ月くらい前から、私、本当はこれを持ってました」 
 ゆっくりと唇を離したちひろは、 
「もっと早く、茉理は助かっていたかも知れないのに」 
 たった今、直樹に呑ませた何かを手のひらに載せて、 
「今頃ですけど、でも、やっと決心がついたんです」 
 直樹が知らない、縋るような眼差しを向ける。 
「そのせいで、今までみたいに、みんなと一緒にここにいられなくなっても、それでもいいって」 
 数秒前まで直樹の唇に押し当てられていた唇は、 
「だからお願いです‥‥‥久住先輩、茉理を、茉理を助けて‥‥‥お願い‥‥‥」 
 今でもまだ、震えたままだった。 
 
 
  
「私たちは、時空転移装置を使って、百年後の世界から逃げてきました。仁科先生たちと一緒に」 
 幼い子供のように泣き崩れてしまったちひろが落ち着くまで、しばらく時間が必要だった。 
 ちひろは今は、直樹の腕の中にいる。 
 華奢な両肩。か細く頼りない腕や足。 
 過労で倒れるまで温室に篭り続け、あれだけの観察記録をつけ続けるだけの力が‥‥‥この小さな身体の一体どこに眠っていたというのだろう。 
「マルバスというウィルスのことは、多分もう、仁科先生から聞いてますよね」 
「うん。聞いてる」 
「でも、多分私は、マルバスには罹らないんです」 
「え?」 
 直樹がその意味を咀嚼するのに、少し時間がかかった。 
「私は、自分の世界で妹を亡くしました。同じ家で同じように育って、同じように遊んで。でも、妹が罹ったマルバスに、どうしてか、私は罹りませんでした。妹の看病してて、暴れられたり、引っ掻かれて怪我したり、一回は噛みつかれたり、いろいろありましたけど」 
 現代に持ち込まれたのは乙種。体液から感染するマルバスの筈だ。そういえば確か茉理も、感染者の血液に触れたことで感染したらしかった‥‥‥。 
「茉理と同じなら、私、とっくに死んじゃってた筈です。でも‥‥‥このことはまだ、仁科先生にも話してないんですけど、多分、さっきの」 
「‥‥‥種?」 
 こくりと、ちひろが頷く。 
「私たちの家の側にも、フォステリアナのお花畑があったんです。種がついているところは、その頃にもあまり見たことがなかったんですけど‥‥‥偶然、種がついているのを見かけて、私、食べてみたことがあるんです」 
「あの種を?」 
「はい。その時はまだ、マルバスのことは全然騒がれていなくて、だからそう思って食べたんじゃなくて、ただの罰ゲームとか、本当にそんな感じだったんですけど」 
 口移しで押し込まれた種の味を思い出す。 
 あまりに苦く、土臭い味。 
「それは‥‥‥不味かったね」 
「あ、ご、ごめんなさい」 
 悲しそうな笑顔。 
「いいって。それでちひろちゃんは、あの種を」 
「茉理に食べてもらえたら、種が効くかどうかはわかると思います」 
「でも、本当にそのせいかどうかはわからないよな」 
 辛そうに目を伏せる。 
「その種を実らせたくて、私は未来からフォステリアナの球根を持ってきました。園芸部に入ったのも、最近ずっとここに閉じ篭っていたのも、全部、そのためです‥‥‥私は種のおかげだって信じてますけど、確かに、久住先輩の言う通りです。ひょっとしたら、私が病気に罹らなかったことの原因は別にあって、この種はそのこととは全然関係ないかも知れません。でも」 
 右手の中の、ひとつだけの種を、直樹はぎゅっと握る。 
「あとひとつしかない、か」 
「やっと採れた二粒のうちの片方は、さっき久住先輩が飲んじゃいました。仁科先生に種のことを調べてもらう余裕はありません。今、これがなくなったら、茉理は間に合わないかも知れないんです」 
 とはいえ、もちろん恭子は反対するだろうし、種の方を先に調べようとするだろう。それは当たり前のことだ。人体にどういう作用を及ぼすのかがまったくわかっていないような種を患者に経口摂取させるなど、常識的には考えられない。 
 だが。 
「やってみようよ。効かないのかも知れないけど、これが効く可能性だってあるんだから。それに、これはそのフォステリアナの種だってだけじゃない。茉理のことを心配してくれるちひろちゃんの想いの結晶なんだって、俺にもわかるよ。想いは、伝えなきゃ」 
 力強く頷いて、直樹はちひろの小さな身体をぎゅっと抱きしめた。 
「お願いします‥‥‥本当はこんなこと、ダメだったら私のせいじゃなきゃいけないのに、久住先輩を巻き込みたくはないんです。でも、茉理のいちばん側まで行けるのは今は久住先輩で、だから、こんなことができるのは、今は久住先輩しかいなくて」 
「大丈夫。心配しなくていい」 
 空の左手で、ちひろの頭を撫でた。 
「俺だって、もうマルバスには罹らない」 
「‥‥‥はいっ」 
 ようやく、ほっとしたような顔を見せて、ちひろが微笑む。 
 
 
  
「それで? どうせ何か、私に言えないようなことを相談してたんでしょ?」 
 直樹がひとりで戻ってみると、保健室にひとり残された恭子はすっかりむくれていた。 
「まあ、そうなんですけど」 
「だから久住、これから渋垣に会うの禁止。研究室っていうか時計塔にも立ち入り禁止」 
 冷たく言い放たれて、直樹は慌てた。 
「馬鹿ね。そんな風に久住がうろたえたら、今から渋垣に何かする気だって丸わかりじゃないの」 
 つまらなそうに目を逸らしたまま、直樹のためのコーヒーを淹れたマグを机に置く。だが、立ち上るコーヒーの香気にも、ふたりの間で張り詰められた緊張の糸を解すことはできそうにない。 
「勝算、あるんでしょうね?」 
「はい」 
「本当に、ただの自暴自棄とかじゃないんでしょうね?」 
「はい」 
「でも、それは多分、渋垣だけじゃなく、久住もどんな目に遭うかわからないようなことなんでしょ?」 
「‥‥‥はい」 
 それは嘘だった。 
 アテが外れたら誰がどんな目に遭うのか、直樹には、もちろんわかっていた。茉理の目蓋のあたりで小躍りしていた小さな悪魔が、さっきから何度も何度も、直樹の胸の奥で最悪のシナリオを音読している。 
 哄笑が響きすぎた身体の中から、弾き出されてしまいそうになる意識を‥‥‥繋ぎ止める、怒りの感情。 
 
 
  
 とにかく、そいつが気に喰わなかった。 
 茉理をあんな目に遭わせた。 
 ちひろちゃんは、あんな風に寂しそうな笑いかたをする子じゃなかった。 
 茉理をあんな目に遭わせた。 
 あんな悲しそうな笑いかたをする子じゃなかった。 
 気に喰わない。気に喰わない。気に喰わない。 
 そいつは‥‥‥茉理を、あんな目に遭わせた! 
 
 
  
 どうせこの子たち、こうなっちゃったら言っても聞かないだろうし‥‥‥知らない間におかしなことをされて、何をされたか把握できないよりはマシか。 
 ぶつぶつと呟いて、それから恭子は、 
「いいわ。止めないから何でもやりなさい。ただし、止めないけど、一応私はそこに立ち合わせてもらうわよ。それくらいはいいでしょ?」 
 解くことを諦めたパズルを放り出すように、ぞんざいな許しの言葉を吐き出す。 
「ああ、ところで、連れて帰って来なかったってことは、橘はちゃんと寮に帰してくれたのよね? ‥‥‥まさか温室に置いてきたんじゃないでしょうね?」 
 その通りだった。 
「すいません。あの、俺もそう言ったんですけど、ちひろちゃんも聞いてくれなくて」 
「もう、仕方ないわね。じゃ悪いけど、条件その二」 
 恭子はぴしゃりと言い放つ。 
「今日はもう遅いから、この後のことは全部明日に延期。久住も橘も、まあ私もだけど、今日のところはとにかく帰って、今晩はゆっくり休むこと。特に橘は‥‥‥明日、久住がどれだけ元気でも、橘がまた倒れたりしたらこの話は全部ナシよ。私がそう言った、って伝えれば言うこと聞くと思うけど、顧問の私が許すから、それでも聞かないようだったら、無理矢理拉致ってでも今すぐ寮に帰しなさい。いいわね?」 
「無理矢理ってそんな」 
 恭子の目が据わっていた。目の下にうっすらとできた隈と相俟って、ものすごい迫力を醸し出す。 
「い・い・わ・ね?」 
 混ぜ返そうとした直樹だったが、結局はその迫力に呑まれてしまった。 
「‥‥‥はい」 
 頷くことしかできない。 
 
 
  
「悪いな。無理矢理拉致ってでも連れて帰れ、って恭子先生に命令されちゃって」 
「そんな。私の方こそ、こんな‥‥‥すみません先輩」 
 温室から寮までの間、ちひろは直樹におぶさる形になっていた。 
 それでも、幸か不幸か、無理矢理連れ帰るような事態にはなっていない。温室の中でしゃがみこんでいたちひろには、抵抗できるだけの余力がなかったからだ。 
 直樹の背中から、ちひろは時々後ろを振り返る。 
「でも、私も急がないといけないんです。これで種のこと、仁科先生に内緒にできなくなります。でも種は、種の実らせ方は、まだ何となくしかわかっていません。さっき渡したあの種も、先月くらいに偶然、少しだけ採れただけで」 
「うん。でも、それよりも」 
 直樹には、それよりも気になっていることがあった。 
「今までみたいに、みんなと一緒にここにいられなくなるって、そんなことも、さっき言ってたよね」 
 ちひろが押し黙る。 
 直樹の肩を掴む指に、強張るような力が篭る。 
「ちひろちゃん?」 
「‥‥‥だって」 
 しばらく間を空けてから、ぽつぽつと、話し始める。 
「もしも、あの種が本当に効くってわかったら、種をちゃんと作る方法とか、研究しないといけないことがたくさんある筈です。でも、そうしたらきっと、研究は百年後の世界で続けられることになります。病気で苦しんでいるのはあちらの人たちですから、あちらの世界の中で種が作れなければ意味がないんです。そうなったら」 
 そうなったら、私はきっと、未来へ帰ることになります。種を作ったのは私ですから。 
 言いたくなさそうに、ちひろはそう言った。 
「マルバスもフォステリアナも、私たちが未来へ持って帰ってしまえば、本当はいちばんいいと思うんです。持ち出さなければ、何も起こらなかったことですから。もともと、未来の私たちがここへ来なければ、茉理もこんなことにならなくて済んだんですから。でも‥‥‥だけど‥‥‥今はもう私、この学園のこと、みんなのこと、茉理のこと‥‥‥久住先輩のことも」 
 その時、直樹は初めて知った。 
「そうやって私が悩んでるうちに、仁科先生のワクチンが間に合えばいいって、本当は、ずっと思ってました。そうすれば、私は種のことなんて忘れてしまえる。そのまま、私が未来から来たことも忘れて、この世界の人になって、ずっとずっとここにいたい‥‥‥誰とも離れたくない、みんなと一緒にいたい!」 
 直樹の背中に顔を埋めたちひろが、今から、茉理の生命と引き換えにしようとしているもの、の正体を。 
「だけど今、仁科先生のワクチンはまだなくて、私は種を持ってるんです! 茉理が苦しんでるの知ってて、それでも私が種のこと内緒にしてて‥‥‥それでもし茉理が助からなかったら、私、きっと一生、自分のこと赦せない! そんなの絶対、絶対赦せなくて、だからっ!」 
 言ってあげられる言葉が何も見当たらなくて。 
 そこに立ち止まってしまった直樹は、もう一度、ポケットの種をぎゅっと握り締める。 
 
 
  
 三十分にも満たないようなクリスマスパーティだった。 
「ありがと、ふたりとも。たのしかった」 
 ベッドの上に起こしていた身体を横たえて、たったそれだけの言葉を喉から絞り出すように茉理は言った。空気が漏れる音ばかりの、聞きづらい声だった。 
 ちひろは時々、やりきれない想いを苦笑いに隠して、こっそり溜め息を吐いていた。茉理は気づかなかっただろうが、直樹はもちろん知っていた。 
 一緒に騒ぐなんて柄じゃないからと言い張って、恭子は研究室の奥の壁に寄りかかり、手元の資料のプリントアウトとパーティの様子とを交互に眺めていた。恐らくは何かよからぬことを企んでいるであろう直樹の凶行を見届ける目的がなければ、本当はその部屋にいることすらせず、研究の続きに取り組みたかった筈だ。 
 いろいろな思惑を呑み込みながら、あまりにもささやかなパーティが終わる。 
「ごめんね、起きて、いられなくて」 
「いいから」 
 申し訳なさそうにしている茉理の髪を梳きながら、空いた手で、直樹はポケットの種に触れる。 
 早鐘のように鼓動を打ち鳴らし続ける心臓の上で、奇声をあげて踊り狂う小さな悪魔の足音を、直樹は聴いたような気がした。 
 ‥‥‥今ならば、何もしないことができる。 
 この期に及んでも、本当はまだ、そんな思考が直樹の頭の大半を占めている。 
 無理からぬことではある。 
 成功を信じさせる根拠は、今のところ、何ひとつないとさえ言える。 
 失敗すれば患者がひとり増える。 
 その時はきっと、ちひろもここにはいられないだろう。おかしなことをそそのかして治る見込みのない病気の患者を増やした犯人は自分だ、と自分で自分を追い詰めながら、多分どこか、もう二度と会えないような遠いどこかへ行ってしまう。そんな予感がする。 
 茉理はもう助からない。どんなに手を尽くそうとも、ここまで容態が悪化した患者が快復した前例はない。 
 それを認めるだけでいい。 
 そうするだけで、取り敢えず現状は維持される。 
 指先に触れていた種から‥‥‥指先が、離れかけた。 
 その時。 
「来年は、もっと、ちゃんとしたパーティ、やりたいね」 
 切れ切れの言葉を綴って、茉理が無理に笑った。 
「ショートケーキ、とかじゃなくて、ケーキも、ちゃんと、作るんだよ。丸くて、おっきいの」 
 容態がこのままなら自分には来年などない、と知っていながら。 
「クリスマスツリーもね、今年の、手のひらサイズも、かわいいけど、そういうのじゃなくって」 
 よたよたと力なく持ち上げられた手は、直樹の頬に触れようとして、 
「あたしもね、プレゼント、ちゃんと、用意するから。絶対、用意するから」 
 しかし、目指した場所には届かずに、布団の上にふらふらと落ちていった。 
「‥‥‥直樹、直樹、ここに来てから、あたし、もらうばっかりだよ。直樹にも、ちひろにも、あたしからは、何も」 
 瞳にうっすらと涙を滲ませて、自分の無力さに歯噛みする茉理を、直樹は静かに見つめる。 
 今はもう‥‥‥不思議なくらい、落ち着いていた。 
「心配するな」 
 深呼吸をひとつ。 
 もう一度、種に触れる。 
「茉理のいない来年なんて来ない」 
 今度はしっかりと、その種を摘み上げる。 
「そんな来年、俺は欲しくない」 
 髪を梳いていた手で、茉理の目尻から涙を払った。 
「‥‥‥あっ」 
 マルバス乙種は体液から感染する。 
 涙、は? 
「やっ、直樹、そんなこと、しちゃダメだよ」 
 茉理は慌てて、直樹とは反対側に自分の頭を倒した。 
 ちひろが目を伏せる。 
 がたり。部屋の端から物音が聞こえた。 
 今すぐ飛びついて、茉理から直樹を引き剥がしたい気持ちを無理矢理押さえ込むように、恭子は両手で自分の身体をきつく抱きしめている。 
 約束、守ってくれてありがとう、恭子先生。 
 心の中で感謝の言葉を述べて、直樹は、ポケットの種を口に含んだ。 
 あまりに苦く、土臭い味。不味くて吐き出したくなるのを堪えながら、奥歯で潰してやわらかくする。 
「ちょっと苦いけど我慢してくれ、茉理」 
「嫌‥‥‥ダメ‥‥‥病気に、なっちゃう‥‥‥」 
「大丈夫。俺だって、もうマルバスには罹らない」 
 力なく横に振られる顔を直樹の両手が押さえた。 
 あまりのことに目を閉じるのも忘れてしまった茉理の唇を、直樹の唇が塞いだ。唇と舌先で固く閉ざされた茉理の口と心を押し開けて、ちひろが直樹にそうしたように、噛み割られた種を落とし込む。 
 異様な異物感に咳き込みかけた茉理の胸に、直樹の手のひらが触れた。 
 驚いたように、ひくり、と身体を震わせた茉理は、 
「あ‥‥‥あ‥‥‥ん‥‥‥」 
 苦くて土臭い、何だかさっぱりわからないものを、思わず、こくりと飲み下してしまう。 
「これで大丈夫だ」 
「何が、大丈夫よ、馬鹿直樹っ」 
 精一杯の大きな声で、茉理が直樹を叱り飛ばした。 
「茉理のいない来年なんて欲しくない。でもそれは、だから俺が茉理と一緒に死ぬとか、そんなんじゃないぞ?」 
 ほとんどは自分自身に言い聞かせるように、 
「言っただろ。もうマルバスには罹らない」 
 口に出してそう告げて、もう一度、直樹は唇を奪う。 
 何かを諦めるように目蓋を閉じた茉理の目尻から、涙が一粒、流れて落ちた。 
 
 
  
 触れることすら諦めざるを得なかった数ヶ月の空白を一息に埋め合わせるように、それから直樹と茉理は、唇と舌で互いを探りあい、求めあい続けた。 
 ‥‥‥もしかしたら茉理は、いつ果てるとも知れないその長い長いくちづけのために、今までずっと力を蓄えてきたのかも知れなかった。 
 
 
  
 満足したような、後悔しているような、複雑な微笑みを浮かべて、茉理が眠りについたのを見届けてから。 
「気は済んだ?」 
 恭子が直樹に向き直った。 
「はい」 
「そう‥‥‥」 
 ぱぁん! 
 何の前触れもなく、恭子が伸ばした右の平手が直樹の頬を張り飛ばす。 
「あんた馬鹿なんじゃないの本当にっ! そりゃこんなことだろうとは思ってたわよ、予想してないわけじゃなかったけど、でも! こんなの、こんなの渋垣のご両親に何て言って話せばいいのよ! 大体そんな自殺みたいなことして渋垣が喜ぶ筈ないじゃないっ!」 
 恭子は、泣いていた。 
「久住‥‥‥っ! 久住直樹‥‥‥後で検査して‥‥‥陽性反応が出て、そうなったらあなたも隔離します。出張先からまだ帰られてないのは知ってるけど、できる限り早く、渋垣のご両親にその連絡をしておいて。それから、検査結果がすべて陰性に反転するまで‥‥‥完全に快復するまで、この研究室から出てはいけません」 
 途中で嗚咽を噛み殺しながら、努めて事務的に、必要事項を連絡する。 
「それと久住。橘も。検査が済んだら、今のが何だったのか、私が納得いくまで説明してもらうわよ」 
 ちひろが顔を上げた。 
 その表情に、まだ迷いが滲んでいた。 
 
 
  
「それで、種、と‥‥‥ええ。大体のところはわかったわ」 
 事情を聞き終えた恭子は、直樹の検査結果を挟んだクリップボードをボールペンでぱちんと弾いた。 
「効用も副作用も全然わかっていないものの投与なんて確かに認められないから、私に判断させないために何も言わない、って方法もそりゃアリでしょうけど、それならそれでもっと賢いやり方があったんじゃないの? なんでわざわざ口移しなのよ? その前も、体液から感染するって知ってるくせに素手で涙に触ったりするし」 
 深い、深い溜め息。 
「もう当然わかってると思うけど結果を伝えます。久住直樹、判定は陽性。マルバス乙種の感染が確認されたわ。事がこうなった以上、橘の言う種の効果に‥‥‥奇蹟に期待して、後はもう、様子を見る他ないわ」 
 宣告された直樹よりも、ちひろの方が愕然としていた。 
 ‥‥‥罹らない、のではなかったのか? 
「だから橘、取り敢えずひとつかふたつでいいから、できるだけ早く、もう一回その種を用意して。ああでも、だからって身体壊しちゃダメよ?」 
「はい。頑張りますっ」 
 また倒れるまで温室に篭もってそうな勢いね。 
 場違いな苦笑が漏れる。 
「それから、咲いてるフォステリアナの鉢が渋垣のところにあるけど、あれ使わせてもらっていい? 恐らくそれ自体に抗マルバス作用はないと思うけど、成分とか、一応いろいろ調べておきたいの」 
「あ、それなら、温室にまだ咲いてる花が何本かありますから、代わりにそれを持ってきます‥‥‥あの」 
「ん?」 
 恐る恐るちひろは訊ねた。 
「花の方には抗マルバス作用はないって、どうしてわかるんですか?」 
「それも橘が教えてくれたんでしょ」 
 どこか苛立たしげに、ボールペンで頭を掻く仕草。 
「青いフォステリアナは地元の特産品で、その花畑を妹さんと一緒に走り回って育った、って確か言ってたわよね? もしも花そのものに抗マルバス作用があったとしたら、橘が罹らなかった乙種に妹さんはどうして感染したのか、橘、ちゃんと説明できる?」 
 もっともな理屈であった。 
「あ‥‥‥は、はい。そうですね」 
「でもまあ、そう悲観したもんでもないわよ。改めて調べさせてもらったけど、やっぱり橘は陰性だしね」 
 さっき直樹がそうしたように‥‥‥ほとんどは自分に言い聞かせるように、恭子はそう言った。 
「花は違うってわかってるのに、種にだけそんな効果がある、なんてことが本当に起きるのかどうか。正直、半信半疑、よりは不信の方がまだ大きいくらいよ。でも、橘の言いたいこともわかる。経口摂取した種の他に、身体的、環境的に顕著な相違がないって部分がもしも本当だとしたら、逆転の可能性は確かにゼロじゃないわ」 
 
 
  
 ところが。 
 そんな淡い期待を嘲笑うように、発症した直樹の容態は少しずつ、当たり前に悪化していった。 
 既にすべての検査項目で陽性反応が出ている茉理の容態も、快方に向かう兆しはなかった。 
 居たたまれない気持ちを押し殺しながら‥‥‥あるいはそこから目を逸らすように、あれからまた、ちひろは種を得るための研究に没頭している。 
「根を詰めすぎるとかえって効率よくない、って何度も言ってるじゃない」 
 温室へ様子を見に来た恭子がたしなめるように言う。 
「でも‥‥‥」 
 見るからに、ちひろは憔悴していた。 
 目の下にうっすらとできた隈が、何だか、いつかの自分を見るようだ、と恭子は思う。 
 この子のせいだなんて、親御さんには言えないか。 
 ‥‥‥それは、出張中だった茉理の両親がようやく一時帰国して、学園にやってくる日の前日。 
 誰にも告げずに、恭子はある決意をした。 
「情けない話だけど、ウィルス側からワクチンを作る方向も行き詰まってるし、今は少しでも可能性のあることは何でも試してみたいところなんだけど‥‥‥それで、橘」 
「はい?」 
「急な話だけど、一旦未来へ戻らない? 種を採る研究のついでに、向こうでフォステリアナを栽培する作業の指導をして欲しいの。ほら、向こうとこっちでは環境がまったく同じというわけではないし、もしかしたら向こうの方が、種が採れる可能性が高いのかも知れないし。確かめるには、やってみるしかないでしょ?」 
「え、でも‥‥‥あの、わっ、にっ仁科先生っ?」 
 渋るちひろを半ば強引に時空転移装置に押し込むようにして、恭子はちひろを未来へ戻す。 
 ちひろのことや、直樹がやったことについて、起きた通りに話すわけにもいかない‥‥‥では、明日学園を訪れる茉理の両親に、どんな風に経緯を話そうか。 
 動かない頭をそれでも動かして、恭子は考え始める。 
 
 
  
 そして、奇しくも、その翌日。 
「最初に、こちらが今朝のお嬢‥‥‥え? 何、これ?」 
 来訪した茉理の両親に今朝の検査結果を示そうとして、その両親が見ている前で、恭子は頓狂な声をあげた。 
「あの、何か?」 
 訝しげに英理が訊ねる。 
「いえ‥‥‥あの、ちょ、ちょっと待ってください」 
 明らかに取り乱した様子で、手渡す筈のレポートをじっと見つめる。その次に見せる順番にしていた直樹のレポートを慌てて取り出し、あたふたと見比べた後で‥‥‥糸が切れた操り人形のように、束の間、恭子は深く項垂れた。 
 確かに今日は朝から気が重くて、いろいろと注意も散漫だったし、毎朝チェックする検査結果にも、いつもよりもいい加減にしか目を通していなかった、と思う。 
 でも。 
 でも、これは。 
「仁科先生?」 
 見かねた理事長が続きを促す。 
「はい‥‥‥失礼しました。その、今日はこういうご報告のためにお越しいただいたわけではなかったのですが」 
 改めて、源三と英理にレポートを手渡す。 
「まずお嬢さんの方ですけれども、今朝の検査では、項目の約半数で結果が陰性に反転しています。昨日の結果までは確かにすべて陽性の状態が続いておりましたもので、私自身、今まで見過ごしてしまっていました。こちらの、久住直樹さんについても同様ですけれども、既にほとんどが陰性に転じているのは、感染以降の経過時間が短く、また投薬が早かったため、と考えられます」 
 どうやら、奇蹟も病魔と同じように、誰にもわからないように静かに忍び寄るものであったらしい。 
「このデータは、ウィルスが死滅を始めていることを示し‥‥‥つまり、おふたりとも快方に‥‥‥今現在、急速に快復しつつあると、お考えいただいて、よい‥‥‥思‥‥‥っ‥‥‥」 
 図らずも涙ぐんでしまったせいでだんだん不明瞭になる恭子の声は、その涙と嗚咽で情報を補完することによって、渋垣夫妻と理事長に概ね正確な現状を報告することに成功していた。 
 
 
  
 ちひろが未来へ送還されてから数ヶ月が経っている。 
 茉理と直樹の容態は折に触れて伝えられていた。今ではふたりとも自宅に戻っていて、進級試験や補習の真っ只中。結局、全部授業に出ていたのは一学期だけだったことになる茉理は、直樹に輪をかけて大変なスケジュールに悲鳴をあげてはいるが、それでもどうにか、四月からは二年生として、同級生と一緒の学年で普通の学園生活に復帰できそうだ、という。 
 百年後の世界では、同じ数ヶ月の間に、青いフォステリアナに種をつけるためのシステムが急速に構築されつつある。それに纏わるいろんなことが判明している今、改めて振り返ってみると、百年前からちひろが持ち帰ったあの観察記録は、持ち帰った時点で既に、必要な方法論のほとんどを網羅していたのだった。 
 そうして、僅かずつだが高確率で定期的に採取できるようになった種を使って、種自体の研究も進んでいる。 
「ち‥‥‥遅効性、ですか」 
「そう。あれはね、種の成分が直接マルバスを死滅させてるんじゃなくて、マルバスに対して効果的な抵抗力を人体の方に持たせるように、間接的に作用するものだったのよ。だから浸透が済むまでは、感染も、症状の進行も抑えられない。‥‥‥これって、辻褄合ってるでしょ?」 
 ちひろが種を食べたのはマルバスが人類の脅威になるよりも前のことだった。感染者に引っ掻かれても噛みつかれても感染しなかったのは、流行り始めた時には体内に抗体ができあがっていたから、なのだろう。 
 一方、直樹が種を摂取したのは感染の前日。茉理に至っては、発症後、かなりのレベルまで容態が悪化してからだ。即効性のない薬だから、飲んですぐには効果がわからなかっただけだと考えれば、確かに恭子が説明する通り、辻褄はすべて合っていると言える。 
「人体実験が先でした、なんて、研究者としては杜撰もいいところだけどね」 
 苦笑混じりに恭子は付け加えて、手元のマグから熱いコーヒーをゆっくり啜る。 
「そういえば、そろそろあっちは新学期か」 
「はい‥‥‥」 
 過去の話になると、ちひろの表情はいつも少し曇る。 
「‥‥‥いや、その、悪かったと思ってるわ。無理矢理こっちに戻しちゃったことは」 
 何故、あのタイミングで急にちひろを送還してしまったのかについて、恭子は何も説明してはいなかった。 
 あの通り種は効いたし、今にして思えばその効果もこれ以上ないほどの絶妙なタイミングで現れた。しかし、結果論はあくまでも結果論だ。 
 生真面目なちひろのことだ。快復の見通しが立たないあの状況の中で茉理の両親にもし会えば、自分のしたことについて黙っていられはしなかっただろう。 
 すべての責任を恭子がひとりで引き受けるためには、ちひろはそこにいない方が都合がよかったのだ。 
「いえ。それはもう、いいんですけど」 
 ちひろは顔を上げて、寂しそうな目で遠くの空を見る。 
「それでね。本当のところが聞きたいんだけど、橘‥‥‥やっぱり、心残りとか、ある?」 
 黙ったまま、ちひろはじっと、遠くの空を見ている。 
 ‥‥‥ない筈ないわよね。 
 恭子はひとりごちる。 
「橘。もしよかったら、なんだけど」 
 ちょうど切り出したところで、恭子の胸で携帯電話の着信音が鳴った。 
「もしもし? はい。仁科‥‥‥はぁ? ちょ、ちょっと何よそれ‥‥‥えええ! もう着いちゃう?」 
 何やら、いきなり事態が切迫しているらしい。 
「ん。連れて行くわ。ちょうど今一緒にお茶してた‥‥‥いっつもお茶ばっかりしてる? 失礼な‥‥‥ああもう、わかった。とにかくすぐ行くから」 
 『ちょうど今、一緒にお茶してた』のあたりで、ちひろが遠くの空から目を戻した。 
 今、恭子と一緒にいるのはちひろだけだ。つまり『連れて行くわ』というのは、ちひろを連れて行くわ、という意味なのだろう。 
 乱暴に端末を畳んだ恭子と、向き直ったちひろの視線がぶつかった。無言で見つめ合うふたり。 
「ちょっと、一緒に来て。続きはそこで話すわ」 
「え? ‥‥‥え?」 
 突如立ち上がった恭子はちひろの手を掴み、有無を言わせない勢いで、半ば引き摺るように歩いていく。 
 
 
  
 ちひろや恭子の研究室は、元は大きな総合病院として使われていた建物の中に設えられている。 
 ちひろは今、その中庭に連れ出された。 
「あの、どうしたんですか、仁科先生?」 
「んっとに結ってば、何だってそんなこと‥‥‥」 
 訊ねてもぶつぶつと繰り言を述べるばかりで、さっきの続き、とやらを話し始める気配もまだない。 
「ほら、来るわよ!」 
 藪から棒に恭子が空を指差す。 
 そこに‥‥‥いつからか、眩しい光があって。 
 その光が羽ばたくように広げた一対の翼の残滓が、何もない青空に、瞬いて、消えた。 
 すとん。その真ん中から影が降り立つ。 
 両側に長く伸ばした二房の髪が、翼が残した風に靡く。 
「あれ‥‥‥? あれ? でも、そんな」 
 信じられないものを見たように、ちひろは目蓋を擦る。 
「ちひろの、ちひろの‥‥‥っ」 
 そうするうちにも、影はつかつかと歩み寄ってきて。 
 顔を合わせるなり、 
「ちひろの、馬鹿あああああああああああああああっ!」 
 ものすごい勢いで怒鳴りつける声。 
「わっ‥‥‥あの、えっ?」 
「ちひろがあたしに生命をくれたんだって、あんなに直樹を問い詰めなきゃ教えてももらえないってそれ一体どういうコトよ! 渡すだけ渡してバイバイなんて、そんな勝手に消えちゃわないでよ! あたしお礼も言えなかったじゃない! 連れ戻すのが大変じゃない! いい加減にしてよ本当にもう!」 
 自分勝手に散々言い募っておいて、 
「それと、ありがとう、ちひろ。あたし生きてるよ。ちひろにもらった種のおかげで、こうやって、ちゃんと元気になったよ。そのこと、ずっと伝えたかった。ありがとうってちひろに‥‥‥ずっと‥‥‥」 
 慌てるちひろを、力強く抱きしめる腕。 
「茉理‥‥‥よかった、本当に治ったんだね‥‥‥元気になったんだね‥‥‥よかった‥‥‥」 
 
 
  
「あー、感動の再会中に申しわけないんだけど、橘」 
 わざとらしく顰めつらしい顔を作って、抱き合って泣いているちひろの肩を恭子が叩く。 
「今のうちに言っておくことがふたつあるわ。まずあなた、こっちの世界ではお役御免」 
「‥‥‥はい?」 
 言われた意味がわからなくて、ちひろは首を捻る。 
 茉理はくすくす笑っている。 
「だって、もうマニュアルまでできてるじゃない。ここまで持って来てくれたんだから御の字よ。お疲れさま。人類代表してお礼言いたいくらい、橘は本当によく頑張ってくれたわ‥‥‥だからもう、これから種を作る仕事にまで、橘自身が懸かりきりにならなくても大丈夫なの。それで、もうひとつの方だけど」 
「はい」 
「今更こんなことでお礼もお詫びもないけど、あなたは、これから生きていく世界を選べるわ」 
 まだわかっていない様子で、ちひろが瞬きをする。 
「百年前との行き来がすぐに途絶えるわけじゃなくても、でもいずれは、時空転移装置は使えなくなる。そのことは知っていて欲しいけど、それでも百年前の世界で生きていたいと思うなら、渋垣と一緒に、橘はあっちへ行くことを選んでもいい」 
 そこまで言って、恭子は急に相好を崩した。 
「帰っていいのよ、橘。あなたのことを呼んでる世界へ」 
 ‥‥‥想いが。 
 大好きな人たちとの、楽しかった学園の日々や。 
 一方的な初めてのくちづけと一緒に、淡いままで終わらせてしまった初めての気持ちのことや。 
 もう届かないと何度も何度も自分に言い聞かせ、胸の奥底にそっとしまい込もうとしていたセピア色の想いの欠片たちが、見る間に、鮮やかな色彩を取り戻していく。 
「い‥‥‥いいん、ですか?」 
「よくなかったらわざわざ迎えになんか来ないって!」 
 ちひろ自身よりも嬉しそうに笑いながら、茉理がばんばんと肩を叩いた。 
「それは、こっちで話しとくって言ってるのに無理矢理来ちゃっただけでしょ! あっちに戻ったら結センセが涙目でじーっと睨んでくれるから覚悟しなさい渋垣?」 
「あ‥‥‥うううごめんなさいいい」 
 気まずい想像が頭を過ぎったらしい茉理を余所に。 
「それで橘、どうする?」 
 改めてそう問われて、ちひろは一瞬、躊躇うような表情を見せた。 
 腕を組んで、恭子は静かに答えを待つ。 
 茉理が固唾を呑む気配。 
 数秒の沈黙。 
「はい‥‥‥行きます。みんなのところへ」 
 やがてちひろはそう答え、傍らの茉理の手を握った。 
 
 
  
 慌ただしく送還されてきた時と同様、ちひろの荷造りはひどく簡単だった。 
 衣服の類や日用品などの細々としたもの。 
 未来を救ったノートのコピー。 
 それと。 
「なあに、球根だけ? ‥‥‥幾つ入ってるのか知らないけど、それだけでいいの?」 
「いいんです。前に行く時もこれだけでしたし、今度もこれだけにして、もう一回、初めからやってみたくて」 
「そう? ‥‥‥ま、橘がそれでいいならいいか。まだ要るようでも、後でも何とかなるしね」 
 小さく纏められた荷物を眺めやって恭子が呟く。 
「ああ、それと橘、向こうの話だけど。玲、じゃないや、理事長に話はついてるわ。ちょうど新学期でもあるし、始業から、蓮美台の二年生で復帰。渋垣と同じね」 
「え‥‥‥でも、茉理や久住先輩は、進級するのにすごい苦労したって‥‥‥私、久住先輩と同じで、三学期は授業受けてないです、けど?」 
「そんなの、いつ苦労するかってだけの問題でしょ? 渋垣たちと違って、橘には春休みもなかったんだし」 
 ぽんぽん、と肩を叩く。 
「あっちの世界じゃ誰も褒めてくれないかも知れないけど、橘、あなたは人にはできない大変な仕事をちゃんとやり遂げたのよ。これからちょっと、授業に追いつくために苦労するくらい、今までのに比べたら全然どうってことないでしょ? 自信持って、胸張って帰りなさい」 
「‥‥‥はい。ありがとうございます」 
 恭子にぺこりと頭を下げて、踵を返したちひろは、向こうでぶんぶん手を振る茉理のもとへ向かう。 
 頑張りなさい、橘。 
 今度こそ、あなた自身をしあわせにするために。 
 ‥‥‥口にしなかった言葉がまるで聞こえていたかのように、今度は向こうのちひろが恭子に手を振った。 
 
 
  
 やがて、ふたりの輪郭が眩しい光に溶け出していく。 
 その光が羽ばたくように広げた二対の翼の残滓が、何もない青空に、瞬いて、消えた。 
 
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