「っと。ごちそうさま」
直樹が席を立つ。
「はい、お粗末さまでした‥‥‥って」
そのまま、そそくさと二階へ上がっていく背中を見やって、そんな風に英理が声を掛けると、
「はああああっ」
今の今まで直樹の傍らに座っていた茉理が、何故だか、そこで大袈裟に息を吐きながら、へなへなと食卓に頽れた。
「どうした茉理? そういえばさっきから随分難しい顔してるが」
「あ、もしかして、おかず美味しくなかった?」
源三と英理が代わる代わる声を掛ける。
「あ、ううん、違うの。そうじゃなくて」
何やら妙に疲れた声で答えながら、茉理は眉間の皺を揉み下ろす。
「そうじゃなくて?」
「ほら。今日、十四日だな、って思って」
「十四日?」
「って何だったかしら」
茉理以外のふたりはそこで顔を見合わせて、そのまま、ちょっと考え込む仕草。
「‥‥‥ああ」
「‥‥‥そうね、三月十四日ね」
合点がいったように、ふたり同時にぽんと膝を叩いた。
「そうかそうか。で、茉理が浮かない顔してるってことは、二月にチョコあげたのにまだお返しが来ないとか、そういうアレか」
「ん」
頷くところを見る限りでは、『そういうアレ』に相違ないようだ。
「あら。直樹くんって、本当は釣った魚に餌をあげないタイプだったのかしら?」
「んー。そんなことはないと思うんだがなー」
「いやいや。別にお父さんたちが深刻になることないんだけど」
とはいえ、今まさに夕食時も過ぎ去ろうとしている。
少なくとも茉理にとっては大事な大事なホワイトデーは、あと何時間も残っていない。
「餌は、さ」
気を揉んでいるのか、両手を組んだり放したりと忙しなく動かしつつ、
「ん?」
「本当に欲しかったら自分で取りに行くの。あの病気してから、あたし、そう思うようになった。だからね、『いいからお返し寄越しなさいよ馬鹿直樹』って‥‥‥明日だったら普通に言える、って思う」
「‥‥‥ぷっ」
思わず英理が吹き出す。
「何よー」
「ごめんなさい。何でもないの‥‥‥うふふっ」
「何なのよもう」
逞しい愛娘であった。
「ん。それでね。だからあたし、明日までは待ってられるな、って思うの」
「取りに行くんじゃなくてか?」
「取りに行くのはいつでもできるの。今でもいいし、明日でもいいし。だけど、あたしはきっと、それより欲張りで」
そのうち、手の動きに加えて、膝から下もふらふら揺らし始めた。
「お返しくれないのかな、もしかして直樹、忘れちゃったりしてたらどうしようかな、でも憶えててくれたら嬉しいなって、もう朝からずっと、あたし、そんなことばっかりぐるぐる考えてる。直樹にバレたらどうしようって、本当は今も気が気じゃなくて」
直樹くん、気づかなかった筈はないと思うけど。
まあ、ポーカーフェイスのつもりだったんなら、もう少し練習した方がいいかもなあ。
目だけで会話を成立させる渋垣夫妻である。
「‥‥‥だから何なのよー」
「ん? いや何でも?」
「っとに」
吐き捨てるように呟いて、ぷいとそっぽを向いたまま、
「でもね。今、そういう風に、あたしは生きてるんだ、って思うの。あのまま死んじゃってたら、こんな馬鹿みたいに、直樹のお返し待ってることもできなかった」
「‥‥‥ん」
「これって、こういう風に苦しいのって、あたしのために直樹がどうっていうことじゃなくて、あたしが、好きなんだな、っていうことだと思うの」
茉理は、そんなことを言った。
「それも大事なあたしの気持ちだ、って思うから‥‥‥だから馬鹿直樹のこと、今日の間は黙って待つの」
「そうか」
明後日を向いたままの茉理の頭に、源三がその大きな手のひらを乗せる。
「暫く見ない間に、いい女になったな、茉理」
「ちょ、お父さんっ」
「いい男はいい女を子供扱いしないものよ。そうでしょう?」
今度は、今にも湯気を吹きそうに真っ赤な茉理の顔の上から、英理の細い手が、源三の手のひらを持ち去る。
「おお、そうだな。悪かった」
「ふふっ‥‥‥さ、茉理も、今晩はもう部屋に戻っていなさい。直樹くんだって、私たちが一緒にいたら渡せるものも渡せないでしょう? 待つなら待つで、チャンスは作ってあげなきゃね」
「‥‥‥ん。ごちそうさま、でした」
最後まで英理や源三の方には顔を戻さずに、茉理は居間から走り去っていった。
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