oblivion?  


  

「おはよう、なおくん。朝だよ。学校に行こう?」
 そう言いながら、俺を揺り動かす誰かの声が聞こえる。
 それはいつも、とても懐かしい声のように、俺の耳に届く。
「うあ‥‥‥もう朝か」
 僅かに目蓋を上げると、俺を見下ろしているのは長い髪の女の子だ。心配そうにこちらを見つめている。
 俺は未だに寝間着のままで布団の中だが、学園の制服をきっちり着込んだその女の子の方は、もう登校の準備など完璧に整っているのだろう。
 その場に身を起こして、
「おはよう。いつも悪いな、ええと」
 いつもそこで言葉に詰まってしまう。
 誰かの名前を思い出すのに、この頃は少し時間がかかる。それが他の誰かの名前でも。あるいは、自分自身の名前であっても。
「藤枝だっけ」
 ‥‥‥こうなる前はどうだったんだろうと、埒もないことも少しは考える。
 きっと『藤枝』という名字は、今よりもずっとずっと、例えばもう、忘れることなんてきっと一生できないくらい、親しい人の名字だった筈だ、と思う。
 そのことについて藤枝自身は何も言ってはくれない。だけど、いくら家が近所で、しかも同じ学園のクラスメイトだとはいっても、何かそういうことでもなければ、別の家に住んでいる女の子が毎朝わざわざ起こしに寄ってくれる、だなんてシチュエーションには説明がつかないんじゃないか。そんな風にも思う。
「ん。藤枝で合ってるよ。よくできました」
 気にしていない風を装って藤枝は笑い、それから、部屋のカーテンを開けに窓際へ歩いていく。
 カーテンレールをリングが滑っていく音に、一度だけ、しゃくりあげるような音が混じったのを聴いたような気がした。



「それにしても」
 学園に近づくにつれて勾配が急になっていく上り坂を、二人乗りの自転車で上っていく。
「毎日散々世話になっといて何だけど、『世界タービン号』って名前はどうなんだろうな」
「だって、なおくんがつけたんだよ、それ」
 呆れたような藤枝の声はいつも、俺の背中から聞こえてくる。
「いや、それ本当なのか? 俺はそんなセンスの悪い名前つけないような気がしてしょうがないんだが」
「それなら、新しい名前にする?」
「んー‥‥‥あー」
 人の名前を呼ぶことにすら不自由しているのだ。
 自転車の名前なんて、ぱっと思いつく筈もない。
「難しいでしょ? ものに名前をつけるの」
 背中にしがみついたまま藤枝が言う。‥‥‥どうして藤枝には、今は見てもいない筈の俺の表情とか、全部わかってしまうんだろう。
「そうだな。まあ仕方ないから、『世界タービン号』のままで勘弁しておいてやるか」
「それがいいと思うな」
 話している間に『世界タービン号』は校門から駐輪場へと滑り込み、いつもこのあたりで追い越していくことになる、ポニーテールの女の子の背中を今日も見かけた。
 女の子はそこでいつも振り返って、いつも一瞬だけ目が合って、どこか寂しそうに笑って、すぐに、校舎の中へ消えてしまう‥‥‥また名前も思い出せないし、多分あの女の子の方に俺が避けられているせいで、クラスは同じなのに話したこともないけど、でも絶対によく知ってる筈のあの女の子に、俺から、何か伝えなきゃいけないことがあるような。
 そういう感じも、いつもしている。



 今の俺が『記憶喪失』という状態にあることは、例えばそこの先生や、藤枝や、そういう人たちに言われる前からわかっていたことだ。
 当たり前だった。何も、何ひとつ思い出せないということに、いちばん最初に気づくのは俺自身に決まっているんだから。
 思い出さなきゃいけないことがたくさんあるのもわかっている。
 例えば、藤枝と俺はどういう関係だったのか、とか。
 俺の名字は『久住』というらしいのに、『久住』でも『藤枝』でもない『天ヶ崎』って名字が妙に引っ掛かる気がする理由、とか。
 ひとりだけ『久住』の俺がどうして『渋垣』って家に住んでるのか、とか。
 大体なんで、俺は記憶を失くしたのか、とか。
 何度か訊いてみたことはあったが、そういうことは誰も、ほとんど何も教えてくれないままだ。
 教えていいことなら教えてくれる筈だろうから、他の誰かの方には、何も言わないことに何か理由があるのかも知れない。だからそれは、自分で思い出せ、という意味のことなんだろうと今は考えている。
 それにしても、俺は‥‥‥本当は、誰なんだろう?
 そんなことをぼんやりと考えているうちに、聴診器を当てられたり採血されたり、いつも通りの検診はいつものように何事もなく終わっていった。



 事務机の横に出された椅子に腰掛けて、妙に見憶えのあるマグカップに注がれたコーヒーが湯気をたてるのを眺めている。
「最近は、調子はどう?」
 放課後の保健室には、俺と、保健の先生しかいない。
 藤枝は後でここへ迎えに来ると言っていた。部活があるそうだ。何の部活なのかも聞いた気はするがよく憶えていない。
「別に、普通ですけど」
 つまらない受け答えだな、と自分でも思った。
「そりゃそうだろうけどさ」
 保健室の先生もつまらなそうな顔をして、ボールペンの端で頭を掻く。
「身体的には特に異常なし、と。‥‥‥週に一回ここで検診、って伝えた通り、きちっと来てくれるのは助かってるけど、もっと遊びに来てもいいのよ、久住?」
「遊びにって、何して遊ぶんですか、保健室なんかで」
「そうねえ‥‥‥」
 意味ありげな笑みを浮かべながら、先生はタートルネックの襟元に指を掛けてみせる。
「藤枝に言えないようなこと、してみる?」
 それがどういうことを指しているのかは大体わかるが、
「それ、藤枝には言えないんですか?」
 どうしてそれを藤枝に言えないのかについては、今は理由を推測することしかできない。
 誰がどう推測したって、この場合の答えなんてひとつだけしかないだろう、とも思うけど。
「ごめん。何でもない。‥‥‥私が言うのもどうかと思うけど、なんか弄り甲斐のない奴になっちゃったわね」
「昔の俺は弄り甲斐があったってことですか」
「今よりはずっとね。実際酷いもんだったわよ、天文部のくせに空なんかちっとも見ないでさ、カフェテリアじゃなきゃここに入り浸ってるばっかりで」
 酷いもんだったわよ‥‥‥と言いながら、満更でもなさそうに先生は笑った。
 その日、それまでの間に俺が見た中では、その時の先生がいちばん嬉しそうにしていた。



「早く思い出せたらいいんだけどな」
 下り坂だ。
 ほとんどブレーキを握りっ放しの『世界タービン号』を引きながら、藤枝と俺は並んで下校する。
「うん‥‥‥でもね、無理に思い出さなくても」
 藤枝はそう言って笑う。
 何となく、無理をしていることがわかってしまう笑顔。
「だけど、大事なことを忘れてるんだろ、俺」
 例えば、藤枝とのこと、とか。
「忘れてるのかな?」
 笑った顔のまま、藤枝は少し首を傾けた。
「え?」
「忘れてるんじゃなくて‥‥‥最初から全部、なおくんとわたしには何もなかったんだとしても、もうわたし、あんまり驚かないかも」
「それは」
「ごめん。今日はちょっと、先に行くね、なおくん」
 それだけ言って、藤枝は小走りに坂を下っていく。
 置いて行かれた俺は、少しずつ小さくなっていく背中を見送りながら、藤枝が流した涙の意味を考える。
 ブレーキの加減を間違えたか、『世界タービン号』のタイヤがきいと音をたてた。
 そういえば、これは自転車で、ここは下り坂だ。
 考えるまでもなく、俺がこれに乗れば追いつける。
 だけど‥‥‥だけど。



 結局戻ってきた保健室の前で、ドアをノックしようとする手を止める。
『それで、久住くんの様子は』
 中にいる、保健の先生以外の‥‥‥別の女の人の声が、俺の名前を口にしている。
『あれから、結はまだ、直接は会ってないんだっけ?』
『はい』
 ドアの向こうの小さな声に聞き耳を立てる。
『結はどう? あれ、久住だと思う?』
『ええ、一応は。というか、そう思っていないと、辛くて』
『そっか。‥‥‥まあ結相手にそんなこと隠してもしょうがないから正直に話すけど、あれが誰かとか、本当に久住なのかどうか、とか』
 俺は、本当は誰なのか。
 それを訊ねるつもりで戻ってきたのに、
『保健医としてはね、まだ私にも判断できてないわ』
 先生と顔を合わせもしないうちから‥‥‥まだノックもしないうちから、俺は、いちばん聞きたくない答えに行き当たってしまっている。
『それじゃ、それじゃ天ヶ崎さんと藤枝さんは? 彼女たちは何て』
『何も。‥‥‥ほら、藤枝は自分の彼氏に戻ってきて欲しいし、天ヶ崎は弟に帰ってきて欲しいだろうし。そんな風にね、きっとふたりとも、自分と久住の間にあった大事なことを真っ先に話したい筈じゃない』
 そこまで聞いて、俺は首を傾げた。
 別に、藤枝の彼氏が天ヶ崎の弟であっても、それだけだったら何も問題はないような気がする。例えば二股を掛けているだとか、それはそういう話とは違う筈だ。
 その天ヶ崎が姉弟で好き合っているようだと話は違うのかも知れないが、そういう弟は普通、外に彼女なんか作らないだろう、とも思う。
『でも今、何かそういうことを話したら、きっと自分はそうだって信じちゃうんじゃないかって‥‥‥仮にね、本当はあの子が祐介君だったとしても、久住はこうで、みたいな話を藤枝が聞かせちゃったら、それは祐介君じゃなくなっていっちゃうんじゃないかって、ふたりともそういうことを気にしてるのよ。だから、私から止めてるわけじゃないんだけど、久住には何も言わないままでいるみたい』
 もしかしたら、毎朝一瞬だけ顔を合わせるあのポニーテールの女の子が『天ヶ崎』なのかも知れない。
 そんなことをふと思った。
 それであの子は‥‥‥本当は話したいことがたくさんあるのに、不用意に俺を『祐介君』にしてしまわないために、俺と会うことをずっと避けているのだとしたら。
 そして藤枝も、俺が直樹であった頃のことをほとんど話そうとはしない。
 それも、本当は『久住』ではないかも知れない俺を『久住』にしてしまわないためだとしたら。
 辻褄の合わない、わからないことばかりだが、今の俺に対してふたりがああいう風に接しようとする理由は、何となく、それでわかったような気がする。
『だけど恭子、恭子はずっと、久住くんのこと「久住」って呼んで』
『便宜上、よ』
 遮るように、保健の先生の声が答えた。
『祐介君の学籍なんて、この学園どころか、こっちの世界のどこにもないんだもの。中身が誰かとは関係なく、あの子はこれからもこっちで生きていくんだから、どっちかっていったら久住であることの方が便利でしょっていう、それだけの話。久住だから久住って呼んでるわけじゃないわ』
 もしも俺が『久住』でなく、その『祐介君』であったとしたら。
 俺の学籍は‥‥‥この学園どころか、こっちの世界のどこにもない。
 一体それはどういう意味だろう。
『厳しいことを言うようだけど、そんなところに救いを求めてもダメよ、結』
 わからないこと、知りたいことは山ほどあるが、今、そこに割り込んではいけないような気がして。
『でも』
 なるべく足音を立てないように、俺はその場を離れようとして、



 突然。
 近くで響いた足音に驚いた俺は、僅かな間、その場に立ち竦んだ。
 音のした方へ顔を向けると、長いポニーテールを揺らしながら駆けていく背中が、すぐそこの角を曲がって消えたところだった。
「く、久住くんじゃないですか! そんなところで何を」
「久住? って、何をって、まさか今の話‥‥‥待ちなさい! こら久住っ!」
 結先生と恭子先生が後ろで騒いでいるのが聞こえた。
 だが構わずに‥‥‥あの背中を追って、『俺』は全力で廊下を走る。



 ばん、と音をたてて、屋上の扉が開く。
 音の大きさに驚いたように、向こうの美琴が振り返る。
 柵の外で靡く、髪と、スカートの裾。
「どうしてそんなところにいるんだ。危ないだろ」
 その口元が何かを言いかけて、だがまた、何も言わずに引き結ばれた。
 そうして再び、美琴は外を向く。
「待て、早まるな美琴!」
 慌てて声を掛ける。
 ‥‥‥誰だったっけ、とかそういうことを頭で考えなくても、本当に呼びたい名前は自然に口を突いて出る、と気づいた。
 これが『経験』という奴なのかも知れない。
 『身体が憶えている』ということなのかも知れない。
 驚いたような顔をして、もう一度、美琴は振り返った。
「『美琴』って呼んでくれるんだね、わたしのこと。名前どころか、自分の名字も忘れちゃってた、って保奈美からは聞いてたのに」
 そして‥‥‥そんな小さなきっかけから、『俺』は今、すべてのことを思い出し始める自分を感じていた。
「今、保健室の前に立ってた、直樹の背中を見てたよ。‥‥‥あんなに仲よかったのに、すごく遠くて、声とか掛けられなくて、苦しくて、辛くて。ずっと、今までずっと、わたし、そんなのばっかりで」
 今にもそこから飛び降りてしまいそうな美琴に向かって、走りながら、必死に手を伸ばす。
「だから、もういいんだ。直樹が直樹でも、祐介でも、誰でもなくても。わたし‥‥‥疲れちゃったよ」
「待つんだ。俺は」
 足を進めるごとに、
「だって、直樹だったら、私の祐介は帰ってこないでしょ? でも、祐介が祐介だったら、保奈美の直樹は帰ってこなくて」
 美琴に近づくごとに、
「直樹でも祐介でもないなら、本当にもう、両方いなくなっちゃうし」
 頭の中から抜け落ちていた様々な欠片が、ひとりの人間の記憶として急速に組み上げられ、体を成していく。
「わたし、こんなところに来て、何をしてるんだか」
 自分を嘲笑うように唇を歪めて、美琴もまた、そこから一歩を踏み出そうとする。
 外へ。
 足場のない方へ。
「違う、誰もいなくなんかなってない! 美琴が‥‥‥美琴も、保奈美も! 俺もだ!」
 間一髪。
「こんなに待たせて悪かった。だけどもう、俺たちが何か諦める必要なんてない」
 飛び降りかけた美琴を後ろから抱きすくめて、柵の向こうの床に引き降ろした。
「だって、直樹は、祐介じゃなくて」
 直樹の記憶。
 祐介の記憶。
 ひとつに戻ったふたり分の記憶が、『俺』という誰かの正体を教えている。
「確かに俺はひとりずつの直樹と祐介じゃない。でも、この俺は両方だ。姉貴の祐介と保奈美のなおくんは、今はもう、ひとりずつじゃない、ってことしか違わないんだ」



 久住直樹も天ヶ崎祐介も、五年前の事故でふたりに分かれてしまった『俺』だった。
 発生と同時に百年先の世界へ飛ばされた祐介と、もともとこの世界の住人であった直樹。生きる世界が百年違えば接点などはない筈で、だからそのまま別々のひとりずつとして生きていけたかも知れなかったふたりは、しかしこの学園で偶然出会ってしまい、それを契機に互いの意識が干渉するようになった。
 双方の精神が緩慢に崩壊していく、という最悪の事態を避けるため、五年前の事故で直樹と祐介を分けてしまった時空転移装置によって、再び、ひとりの『俺』に統合する。
 取り敢えず肉体的には、その試みは一応の成功を見た。
 だが、その肉体に、以前の久住直樹は戻らなかった。
 天ヶ崎祐介も帰っては来なかった。
 統合後、この肉体の中にいたのは、直樹と祐介がそれぞれに持っていた筈の記憶をすべて失い、自分が誰であるかすらもわからなくなった『俺』。それが、さっきまでここにいた、統合以来何ヶ月かの『俺』だ。
 そして今の『俺』は、統合されたふたり分の記憶をすべて持っている『俺』。
 最初からこの状態で戻ってこれれば、こんな問題なんて何も起きなかったのに、とも思わないではないけど‥‥‥全部忘れた空っぽの『俺』のままでずっと生きていく可能性だってあったんだろうから、ちゃんと思い出せただけでも運がいい、くらいに考えておくべきなのかも知れない。



 後ろから回したままの俺の両腕に、美琴の手のひらがそっと触れた。
「ねえ。時々、直樹のこと、祐介って呼んでいい?」
「もちろんだ。どこも間違ってないしな。ああそれなら、俺も姉貴って呼んだ方がいいか?」
「でも、直樹なんだよね?」
「元々はこっちの直樹が先だったんだから、そこは仕方ないんだけど」
 背中が柵に寄り掛かる。
「でもそれじゃ、わたしだけ変な呼び方するようになっちゃうね」
「あー、まあ最初のうちは変かも知れないけど、そのうち自然と、なるようになっていくだろ」
「‥‥‥ねえ、そういう時間、あるんだよね? そんな風に自然と、なるようになっちゃうくらい長い間‥‥‥わたしたち、みんな一緒でいいんだよね?」
「と俺の姉貴が心配してるんですが、その辺は如何ですか先生方?」
 背中の後ろに話を振ってみた。
「そんなのダメ、って言ってやりたくてしょうがないんだけど、そういうのってどうかしらね、結センセ?」
 すぐに、恭子先生の声。
「少なくとも、そういう軽口が叩ける程度には、大丈夫なようですよ?」
 続いて結先生の声。
「ま、いいわ。取り敢えず、お祝いにとっておきのコーヒー豆出してあげるから、ふたりともそんな危ないところにじっとしてないで、保健室へいらっしゃい」
 ‥‥‥その日、それまでの間に俺が聞いた中では、
「あーあ。弄り甲斐しか取り柄がないのが、とうとう戻ってきちゃったかあ」
 その時の恭子先生の声が、いちばん楽しそうだった。



 それから。
 連絡が入った途端、制服に着替えるのも忘れているくらいの勢いで保健室へすっ飛んできた保奈美の分も、恭子先生にコーヒーを淹れてもらって。
 いろんなことを話して。
 三人揃って保健室を後にはしたけど、俺は何となく、素直に家へ帰ろう、って気分になれずにいて。
 俺だけなのかと思ったら、それはどうやら保奈美も美琴もそうだったらしくて‥‥‥だから今、俺たちは三人並んで、公園のベンチから夜空を見ている。
「さっきのコーヒー、ちょっとしょっぱかったかも」
 月を見上げたまま、保奈美はそんなことを言った。
「しょっぱい? 何だそれ?」
「もう、鈍いんだから祐介は。帰ってこないでいた間、わたしや保奈美がどれくらい泣いたと思ってるの?」
「‥‥‥わかった。ごめん」
 美琴は笑いながら肩を竦めて、それから、
「こんな鈍い弟ですけど、これからもどうかよろしくお願いします、藤枝さん」
 俺を挟んで反対側の保奈美に向き直り、妙に畏まった仕草で、深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします、お義姉さま」
 それに倣ってか、保奈美も律義に頭を下げた。
 ところで、その真ん中にいて、しかもふたりが頭を下げている相手ではない俺は‥‥‥誰に頭を下げればいいんだろう。そんな埒もないことを少し考える。
「‥‥‥ふふっ」
「あははっ」
 どちらが先に笑いだしたのかはわからなかったが、両脇のふたりはおかしそうに笑っていて。
 俺だけが事態について行けていないのも何となく歯痒いけど、それはそれでいいか、とも思う。
 そうして、ひとしきり話し終えると、また、静寂。



 話したいこと。
 聞きたいこと。
 そういうことは幾らだってある筈なのに、ぽつぽつと、少し話しては休み、少し話しては休み‥‥‥話すことと同じくらい、話さない無言の時間を楽しむように、俺たちはそんなことをずっと繰り返した。
 俺の記憶は戻っても、それで時間が巻き戻せるわけじゃない。実際、こうして全部思い出せても、何カ月か前とまったく同じ三人には戻れなかった。
 だけど、これからの三人の関係を、俺たちはまた、これから作っていける。それが言葉。
 だから、今すぐにみんながすべてをわかり合えていなくても、俺たちはきっと大丈夫。それが沈黙。
 その意味をそれぞれに噛み締めながら、ただ、俺たちはそこにいて。
 ‥‥‥俺たちの世界に、もうじき、新しい朝が来る。

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