保奈美が少し酷い風邪をひいた。
結局は、起きていたことはそれだけだった。慌てて病院に連れて行ったりもしたけど、別に何かその他におかしなところはないらしくて、『ふたりともよく食べてよく眠るように』なんて今時小学生でも言われないようなありがたいお言葉と、何日分かの薬を賜っただけで済んだ。
‥‥‥だから大人しく養生してればいいものを、
「寝込んでる時くらい寝込んでろよ素直に」
「でも」
「いいから。っていうか、なんで風邪引いてるのにこんな冷たい水流して洗い物なんかしてるんだ。あったかくして寝てろって言われたろ」
昨日に続いて今日もまた、学校から家に戻るなり、どうしても何かしていないと気が済まないらしい保奈美を台所から引き剥がして、奥の部屋に追い立てることになった。
「でも、お洗濯もしてるよ?」
そういえば確かに、風呂場で洗濯機がぐるんぐるん言ってる音をつい今しがた聞いたような。
「とっとと寝てしまえ馬鹿保奈美っ」
「なおくん酷い」
「寝・て・な・さ・い」
「‥‥‥はい」
何やら恨めしそうな顔で不承不承頷いて。
それから、向こうの部屋の襖が静かに閉じられた。
保奈美を追い出したシンクに立って、終わりかけの洗い物を済ませ、それから俺は、大学の帰りにスーパーで買ってきた林檎の皮を剥く。
時々つっかえたり、ごそっと厚く剥いてしまう音やぷちっと皮を切ってしまう音を織り交ぜたりしながら、ひょっとしたら向こうで保奈美が寝返りを打った音よりも小さいかも知れないくらいの、さりさりと僅かな音はずっと手元から聞こえている。
そのうちまな板に置かれるものはどう見ても剥かれた皮の厚みが一定でない歪な林檎で、こういう時は流石に、もう少し包丁の使い方練習しておくんだった、とかも思ったりする。そりゃ保奈美相手に俺なんかじゃ勝負にならないってのは自明だけど、保奈美のことは抜きにするとしても、何というか、もう少し。
ふたつに割って、もう一度ふたつに割って、少し多めに芯のところを抉り取って‥‥‥そういえばこれ、こんな風に切ってから皮剥いた方が楽だったのかな、と俺が思い立ったのは、買ったふたつの林檎をふたつとも剥き終わってからのことで。
苦笑いが漏れる。
保奈美が回した洗濯機がぴーぴーと鳴いていた。後は皿に載せて持って行くだけの林檎をまな板に放り出したまま、俺は洗濯機に向かう。
「なおくんって、林檎の皮剥けるんだ」
洗濯物を干してから戻ってみると、台所にまた保奈美が立っていた。
「別に、誰でも剥けるだろ林檎くらい」
「でも最近は、剥いたことない男の子多い、って聞くし」
言いながら、まな板の上から林檎のひとかけを摘み上げて、いろんな角度からチェックを始める。それを保奈美にやられると、何だか提出したレポートを目の前で読まれているような気分になる。
「ん。上手にできてるね」
それが別に誉められるような出来だったわけでもないことも知っているだけに心中は複雑だが、そんな大袈裟な話じゃないってわかってても、そう言われればとにかく安堵の溜め息は零れる。
「お誉めに与り恐縮です‥‥‥だから保奈美、寝てろって向こうで。今それ持って行くからさ」
さっきから保奈美が頻りに足踏みをしているのは、別に貧乏揺すりとかじゃなくて、多分、板敷きの床に素足で立っていると寒いからだろう。なんで出てくるんだ本当にもう。
‥‥‥やっぱり、
「なあ、保奈美」
「ん?」
襖の向こうに半分消えた保奈美が振り返る。
「やっぱり俺‥‥‥いいや。今行くからさ」
「ありがとう。待ってるね」
さっき閉まりかけた襖が今度こそ閉められる。
なあ、保奈美。やっぱり俺じゃ頼りないか?
本当に聞きたかったことは今もまた聞けなかった。
『そんなことないよ、なおくん。頼りにしてます』
仮に今、直接聞けたにしても‥‥‥しょうがないなあなおくんは、みたいな優しい目でこっちを見ながら、保奈美はそんなことを言ってにっこり笑うに違いなかった。
とん。爪先だけで床板を蹴る。
蹴ったと保奈美にわからないように。
本当は少し、何かに苛々している俺のことが、保奈美にわかってしまわないように。
「それじゃ保奈美、まだ調子よくないんだ」
「ああ。‥‥‥いや、本当ただの風邪なんだし、黙って寝てればどうってことないと思うんだけど」
週末の午後ともなれば、授業が終わった教室からは潮が引くように学生の姿が消えていく。
あっという間にふたりだけ取り残された俺と美琴は、何となく、隣り合わせに腰掛けたまま、だらだらと話を続けていた。
「んー、まあ、保奈美だもんね」
まるで美琴の気持ちを代弁でもするかのように、ポニーテールを纏めたリボンがしゅんと萎れる。
「何もしないでいい、って言われるのがいちばん辛そうだよね。保奈美なんかの場合だと」
「別の理由で美琴も辛そうだけどな」
美琴の場合は多分、退屈なのが嫌なだけだろう。
「何か失礼なことを言いませんでしたか直樹さん?」
そういうことは言わなくてもわかるのか、美琴は軽くこっちを睨む仕草。
「いや別に?」
俺は斜め上に視線を逸らして誤魔化す仕草。
時間にすればほんの数秒の沈黙は、
「もうっ」
むくれた美琴が明後日の方を向くことによって唐突に終わる。いつも通りの他愛ないやりとり。
‥‥‥変わってないとこは、本当に、全然変わってないんだけどな。俺は思う。
「そうかな? わたしは、これでも結構、いろいろ変わってると思うんだけどな」
口に出したつもりのない言葉に、何故か、美琴は答えを寄越した。
「例えば、直樹と保奈美がもう結婚決めちゃってたりとか、直樹の実家で一緒に暮らしてたりとか」
「美琴が彼氏募集中なとこは変わってないけどな」
「今何かトテツもなく失礼なことをうっかり言ってしまいませんでしたか直樹さん?」
睨むような上目遣いに、
「いいえ何でもありません」
今度は俺が目を逸らす。
「でも、高校出て、直樹と保奈美が婚約して、それからだってまだ半年しか経ってないんだよね」
高校の時、なんか色々ありすぎたから、かな?
本当はとんでもない未来からやってきた『なんか色々』の元凶のひとりは、懐かしむようにそう呟いて、それから、そっと目を瞑った。
まるで無防備な傍らの唇。
薄く塗られたルージュがつやつやした光を帯びて、何だか、妙に眩しい。
見惚れている自分に気づいた俺は、そういう自分に少し慌てて、ついさっきの俺がそうしたように、日暮れ前の窓の外へと視線を放り出す。
多分まだ目を瞑ったままでいる美琴は、
「‥‥‥ね、直樹」
ひとりごとみたいな小さな声で、
「辛いなら、慰めてあげても、いいよ?」
唐突に、そんなことを呟いた。
その晩。
「ただいまー‥‥‥って」
家に戻ってみると、居間の卓袱台の上にはラップのかかった夕食がひとり分だけ用意されていた。
同じ卓袱台に寝間着姿の保奈美が伏せている。苦しそうにはしていないようだから調子は大分よくなったのだろうが、それでも熱は引ききっていないのか、組まれた腕に載せられた頬はまだ少し赤い。
寝間着の襟のあたりに触れてみる。多分まだ着替えたばかりなのだろう、それを着て寝ていたようには思えない乾いた感触が指に残る。
「いや、嬉しいっていうか、ありがたいんだけどさ」
その保奈美をどうしようかで少し悩んで、結局、いつも保奈美が寝ている布団の側に転がっていた半纏を持ってきた。寝間着の肩からそれを羽織らせて、部屋の明かりをひとつ暗くしてから、保奈美の正面に腰を下ろす。
「いただきます」
起こさないように小さく呟いて両手を合わせた。
‥‥‥いつまでもこんな姿勢で寝かせておくわけにもいかないのに、これで本当に、保奈美に気を使ったことになっているんだろうか。
そんな難しいことがふと頭をよぎる。
保奈美はまだ、目の前ですうすうと寝息をたてている。
食べ終わって箸を置いて、林檎と包丁を手に取ったあたりで、目の前の保奈美がかくんと身動ぎした。
「ひあっ」
驚いたような呻き声を上げてから、保奈美はのそっと顔を起こす。どこか高いところから落ちた夢でも見たのだろうか。
今まで二の腕に伏せていた頬にパジャマの跡がついていた。それを見て俺が少し笑ったのに気がついたのか、保奈美は頭を振って、長い髪で頬のあたりに影を作った。
「え‥‥‥やだ‥‥‥なおくん、帰ってたんだ」
「ごちそうさま」
「はい、お粗末さまでした、うう」
赤くなった頬の不自然な皺を気にする保奈美から、手元の林檎に注意を戻す。
一応、ここ何日かの練習の成果で最初の頃よりはマシな腕前になったつもりでいるが、このくらいで胸を張っていいのは相手が美琴とかの場合だろう。特に今日は、台所でやるのに比べれば部屋全体がちょっと暗い。
「なおくん、いつも林檎剥いてくれるんだね」
「そうか、たまには梨とか、別のにした方がよかったか」
「ううん、そんなことないよ。林檎好きだし」
まあまあ綺麗に皮が剥けた林檎を上からふたつに割る。かこっと小さな音がして、刃の通らなかった底のあたりが歪に割れる。
「あれ? なおくん、切ってから皮剥いた方が簡単、って前に言ってなかった?」
「ん。簡単だったんだけどさ」
それが挑戦なんだよ。
なんて言ったら、保奈美は笑うだろうか。
‥‥‥ふたつとも芯を刳り貫いて、
「どっちがいい?」
両手に載せた林檎を差し出す。
保奈美はそれをしげしげと眺めて、
「こっちの方」
歪に割れたせいで小さくなった右の欠片を手に取るから、俺の左の手のひらには大きい方の欠片が残る。
ちょうど半分ずつじゃないことが、何故だか無性に悲しかった。
意味のない挑戦なんかしないで、やっぱり切ってから皮を剥くんだった、と今頃になって思った。
ふと気がつくとそんなことを考えている自分が酷く惨めで、なるべく保奈美にわからないように、自分を嘲うかたちに唇の端を歪める。
こういう時、自然に小さな欠片を手に取ってみせる保奈美が、それで俺に何か悪いことをしている、とかいうことではない。別に保奈美が悪いんじゃなくて、それは俺の、俺ひとりだけの勝手なコンプレックスでしかないんだと、頭の中では最初からわかっているのだ。
『本当はね。直樹が今感じてること、話してくれた本当の気持ちとかをね、そのまま保奈美に伝えちゃえばいいんじゃないかな、って思うよ』
半日前の美琴の声が、耳の奥の方でまた響く。
‥‥‥だが、そんなことを保奈美の前で口に出したからといって、それで何がどうなるというのだろう? 何も保奈美のせいでないのだから、尚更、俺がひとりで何とかするしかない筈なのに。
「ねえ、なおくん、どうしたの? 学校で何かあった?」
声を掛けられて我に返った俺は、適当に生返事をしながら左手の林檎を齧る。
何やら心配そうに俺の顔を覗き込む保奈美の頬はまだ片側が不自然に赤いままで、パジャマのかたちの皺もまだ全部は消えていなかった。
洗い物を済ませた俺は、保奈美が布団にくるまったのを確認してから、ひとりでふらっと散歩に出た。
真夜中だ。街はとっくに寝静まっていて、俺自身の他には動くものの気配もない。
何となく人恋しくなってコンビニに立ち寄り、でもそこにあった中途半端な喧噪もすぐに何となく煩わしくなって、立ち寄ったことの言い訳か何かのように、たまたま手に触れた缶コーヒーをろくに確かめもせずに買い、コンビニを離れてふらふらと歩く。
適当に羽織ってきたブルゾンのポケットに放り込んだ缶が何やら妙に冷たくて辟易する。季節は秋から冬、このあたりに吹く風もこの頃は結構冷たい。しかも真夜中だ。あったかいコーヒーにしておくんだったとも思うが、後悔してももう遅い。
「‥‥‥寒いな」
舌打ちの代わりに呟いてみる。
『ねえ、なおくん、どうしたの? 学校で何かあった?』
ひとりの夜をどこまで歩いても、さっき耳に届いた保奈美の声は置き去りにできそうにない。
保奈美のことを好きでいる。
嘘でも誤魔化しでもない、それは本当の俺の気持ちだ。
そして、保奈美が今は俺のよい婚約者で、ほんの近い将来に俺のよいお嫁さんになって、それからずっと俺のよい奥さんであることにも疑いはない。
なのに‥‥‥いや、多分そんな保奈美だから、俺は今、挫けてしまいそうだった。
ダメになるのは好きじゃないからだって思ってた。
好きだからダメになってしまうだなんて、そんなのはドラマとか歌の歌詞とか、誰かが書いた絵空事の中だけの話だって思ってた。
こんな風に、ひとは擦れ違っていくのか。
そんな風に‥‥‥誰かが書いた絵空事みたいに、俺と保奈美も、好きだから擦れ違ってしまう、のか。
気がついてみると、何のあてもなくさまよっていた俺は、街から少し離れた丘の上から、さっきまで自分がいた街の明かりを見下ろしていた。
外から見ると街はまだ明るくて、中にいた時の静まりかえった印象とは随分違っている。
あの中には保奈美がいる。
美琴も、弘司も、茉理も。
俺の大事なものは、今はみんな、あの中で眠っている。
「こんなに大事なのにな」
近頃俺は、溜め息ばかり吐いている気がする。
そういえばポケットの中で、携帯電話がさっきからじりじりと震えていた。
折り畳まれた端末の背にある小さなディスプレイに『天ヶ崎美琴』の名前が表示されている。
のろのろと端末を開き、耳に当てる。
『直樹? ねえ、今どこにいる?』
「どこって、ちょっと散歩してるだけだよ。どうした?」
『さっき保奈美から電話があって』
「寝てたんじゃなかったのかよ」
『そんなことより! ‥‥‥そんなことより、どこにいるの直樹? 保奈美の側にいてあげなきゃ。保奈美、心配してたよ?』
「自分で俺んとこに掛けりゃいいのに」
『何度か掛けたって言ってた! 直樹が気づかなかったんでしょ? 時々そうじゃない、直樹って』
「あ」
そういえば、着信音はいつも鳴らさない設定にしてあった。そのせいで電話が掛かってきたことに気づかなかったのも、美琴が言う通り、今までに何度かあったことだ。しかも、どこをどう歩いてこの丘に着いたのかも憶えていないような有様で、震えるだけの携帯電話などに意識が向かないのは当たり前だったかも知れない。
「ごめん。すぐ連絡入れる」
『うん、そうして。‥‥‥ねえ直樹、こんな時なんだけど、ひとつだけ聞いていいかな?』
携帯の向こうで、深く深く、息を吐く音。
「ん?」
『さっきね、直樹がいないって保奈美が言うから、直樹がそうやって悩んでること、保奈美のせいで苦しんでるって保奈美に言っちゃった』
「‥‥‥何だよそれ」
『だから保奈美にはもう言った。わたしこれから直樹に告白するって、だから直樹は保奈美のとこにはもう帰らないかも、って保奈美に言った!』
泣いているせいか、幾分か不鮮明な声。
『ねえお願い、今だけでいいから、その後すぐにわたしのことなんか嫌いになっていいから、今だけ、ひとつだけ、ちゃんと聞いて直樹。もしも』
もしも、わたしが今、直樹のこと好きって言ったら、そしたら直樹、保奈美のとこに帰るの止めて、今すぐわたしの部屋に来てくれる?
一緒にずっと、わたしと暮らしてくれる?
『酷いこと言ってるってわかってる、だけど本当は、帰らないで欲しい。そう言ったら、直樹はどうする?』
どうする?
‥‥‥考えるまでもない、と思う自分がそこにいた。
「美琴が俺のこと、そういう風に好きでいてくれたのは嬉しいよ。だけど」
『ん』
さっきまでの、惨めで鬱屈した自分のどこにこんな自分が隠れていたのか、俺自身にもよくわからない。
「今、確かに俺は迷ってるし、そのせいで立ち止まったりもしてる。だけどそれは、保奈美に釣り合ってない自分がもどかしいだけで‥‥‥保奈美が大切だってことだけは、俺の中で何も変わってないんだ」
『‥‥‥ん』
「ごめん美琴。俺は」
俺は保奈美のところへ帰る。
美琴の部屋には行けないよ。
『ん。それがいいと思うよ。そしたら直樹、早く保奈美のところへ帰ってあげて』
声と一緒に、大きくしゃくりあげる音。
「多分‥‥‥俺が美琴になんて答えるか、わかってて訊いてたんだな、美琴」
『もちろんだよ。でも、わたしには今しかなかった』
今言わなければ、わたしはこの気持ちをずっと秘密にしたままでいなきゃいけなかった。
直樹が側にいてくれないことよりも、いつかその秘密にわたしが押し潰されて、直樹と保奈美と、三人一緒に笑っていられなくなる日が来たら、きっとわたし、その方が辛いから。
「それで、告白、か」
『でも気づいてる? それって、直樹も同じだよ?』
どこからだろう。心なしか、美琴の声が、笑っている時の声に変わった、ように聞こえていた。
『直樹が保奈美を選んだようにね、保奈美だって直樹を選んだの。今は直樹が保奈美に届かなくて苦しんでるかも知れない、でもそんな風に自分を想ってくれる直樹のこと、そんな理由で保奈美が嫌いになったりする筈ないよ。そうでしょ? 苦しいことを秘密にしてても、それはきっと、いつか破裂しちゃうだけだよ。本当の気持ち、保奈美に話して。その気持ちを秘密にしないで』
「‥‥‥わかった」
『わかったなら、ほら急いで直樹!』
美琴の声に後押しされるように、俺は駆け出す。
「保奈美!」
駆け込んだ家はどこも暗いままだった。
「‥‥‥保奈美?」
「なおくん、ここ」
居間から声が聞こえる。泣き疲れたような弱い声。
「暗いな。電気点けるぞ」
「ダメ! 点けちゃダメ!」
保奈美にしては珍しい、頭ごなしの拒絶。
「目が覚めたら、なおくんはいなくなっちゃって連絡つかないし、美琴も携帯であんなこと言うし、これでなおくんが帰って来なかったらどうしようって、わたし、今までずっと泣いてた‥‥‥きっとわたし、今は酷い顔してるから‥‥‥あんまり、見て欲しく、ない」
「そうか」
窓から差し込む薄明かりと保奈美の声を頼りに、俺は保奈美の近くに腰を下ろす。
「電話くれたの、美琴の電話に出てから気づいた。ごめん。俺ぼーっとしてて、着信したのに気づかなかった」
「何してたの?」
「散歩っていうか、何となくふらふらしてた。美琴から電話が来た時はあの丘にいたよ」
「あの、丘? ってもしかして」
俺の両親が消えた丘。俺がふたりになった丘。そして‥‥‥俺が帰ってきた丘。
「それで保奈美、さっきの、美琴のことなんだけど」
「ごめん、ちょっと待って」
つい今し方もどこかで聞いたことがあったような、深く深く、息を吐く音。
「‥‥‥うん。いいよ。話して」
「告白、された」
もしも、わたしが今、直樹のこと好きって言ったら、そしたら直樹、保奈美のとこに帰るの止めて、今すぐわたしの部屋に来てくれる?
一緒にずっと、わたしと暮らしてくれる?
「それで」
「俺は保奈美のところへ帰る、って答えた」
「それで本当にいいの、なおくん? わたしたち、婚約はしてるけど、まだ結婚はしてないよ? わたしと一緒にいるのが‥‥‥あ」
言い募る保奈美の手を握った。
「聞いてる。だから続けて」
「わたしと、わたしと一緒に生きていくのが嫌だったら、今だったらまだ‥‥‥わたしたちは、引き、返せる」
保奈美の声はとても小さくて、後ろの方はあまり聞き取れなかった。
「美琴は最初から、俺が美琴を選ばないって知ってたよ。美琴は俺のこと好きだけど、それを秘密にしていたせいで俺たち三人が一緒に笑えなくなったら辛いから、って言ってた。そういう気持ち、俺にも少しわかる気がする。俺も保奈美に、今まで秘密にしてたことがあるから」
俺の手がぎゅっと握り返される。
「保奈美と一緒にいると、どうしても保奈美に負けてるような気がしてた。保奈美が何か悪いとかいうことじゃなく、保奈美に釣り合ってないような気がして、そういう自分がもどかしいだけで。それを辛いって言うんだったら、確かに今まで、ちょっと辛かったかも知れない」
「そんな、そんなこと」
「保奈美はそう言ってくれると思ってたよ。そんなことで保奈美が嘘なんかつかないってのも、わかってるつもりだった。だけどもともと俺の勝手なコンプレックスで、保奈美の方に疑われる理由があることじゃないから‥‥‥それで保奈美が俺に何を言っても、俺が素直に受け取れるかどうかはわからなかった」
保奈美の手が震えた。
「でも、さっき美琴が言ったんだ。本当の気持ちを保奈美に話して、その気持ちを秘密にしないで、って」
自分の気持ちだけのことだから、自分だけで何とかしなきゃと思ってた。こんなつまらないことで保奈美を悲しませたくはなかった。でも。
「気づいたんだよ。なんでそんなことにいちいち悩んだり、コンプレックスがどうだのなんてつまんないことをひとりでぐるぐる考えてたかっていえば、それは」
強張ったその手を、今度は俺が握り返した。
「結局、何事もなかったみたいに、保奈美と一緒にいたかったからなんだ、って」
「‥‥‥それで、なおくん、わたし、なおくんと一緒にいてもいいの? 美琴じゃなくてもいいの?」
「保奈美さえ、嫌じゃなければ」
「うん‥‥‥っ」
凭れ掛かってくる保奈美の重みが嬉しかった。
それをずっと支えていられる自分になろうと思った。
考えてみたら、今まで俺はそうやって、何かになろうとしていただろうか? 保奈美はあんなに頑張って、俺の側にいようとしてくれていたのに。
今までだって、ひとりで苛つく以外に、するべきこともできることもあった筈なんじゃないか。例えば‥‥‥そう、林檎の皮を剥くような、そんな小さなことでも。
「ところで」
空いている方の手を伸ばして、蛍光灯の紐を引っ張る。
突然の光に驚いた保奈美がぎゅっと目を瞑る。
赤くなった目蓋。
涙が流れた痕と、その涙を乱暴に拭った痕。
「確かに酷い」
正直、美人が台無し、な勢いであった。
「あっ! もう、なおくんの意地悪っ!」
慌てて顔を伏せた保奈美を抱き寄せる。
「酷いけど、保奈美だ」
「当たり前ですっ」
「俺だけ情けないのも悔しいからな‥‥‥頑張ってくれてて嬉しいけど、いつもいつも俺にばっかり都合よくなくていい。格好悪いとこも見せてくれよ、保奈美」
「‥‥‥なおくんの馬鹿っ」
呟いて、保奈美は俺の胸に顔を埋めた。
空いている手を伸ばして、俺はもう一度、蛍光灯の紐を引っ張る。
「あおいーそらーながーれるーけしーきをー」
鼻歌交じりの余裕っぷりで、向かいの保奈美が林檎の皮を剥いている。
流石は保奈美と言わざるを得ない鮮やかな手際だ。この何日かで結構練習したつもりだったのに、同じ速さ、同じ綺麗さ、片方だけにも追いつけない。
「いーまーはーじまーるー‥‥‥はいできました、っと」
「げっ」
上から下まで綺麗に裸になった林檎が卓袱台に置かれた。一緒にやっている俺の手元の林檎は、まだ三分の一くらい皮が残っている。
「包丁の右手じゃなくて、実は林檎の左手がポイントなのです。林檎に合わせて刃の角度を変えるんじゃなく、固定した刃に合わせて、林檎の角度で調整するの」
「そ、そうだったのかっ」
今始めて明かされる、林檎の皮剥きの極意。
‥‥‥いや、それくらいのことも知らないで保奈美に挑む方もどうかしている、という話ではあるのだが。
「うーん、蓮美台料理部の元エースは伊達じゃないな」
「もう随分前の話じゃない、そんなの」
保奈美が通う大学は蓮美台にはなかった。
実はそれは、俺や美琴、それから弘司が通っている大学とも違った。要は大体、高校の時の学力相応、といった感じになっている。
「そういえば、保奈美の学校って料理部とかないのか?」
「探さなかったから、よくわからないかな。今のわたしにはそんなに必要じゃないし」
「そうなのか?」
「実家で暮らしてるとお母さんがお料理するでしょ。わたしも手伝うけど、わたしが全部やってたわけじゃないし。そういう意味では‥‥‥なおくんがいてくれるから、今は結構、満たされちゃってる感じかな」
「そんなもんなのか」
「そんなものです」
さっき卓袱台に置いた林檎を再び手に取る。
慣れた手つきで上から刃を通して、真ん中で半分に。
林檎はかこっと小さな音をたてて、
「‥‥‥あれ?」
何故だか、妙に歪に割れた。そこまでは綺麗に二等分なのに、下から三分の一くらいだけ体積が全然違う。
「お? どうした元エース?」
「失敗しちゃいました」
えへへ、と保奈美が笑う。
「あれ。ねえなおくん、美琴が来る時間って、もうそろそろだったよね?」
掛け時計に目をやって、保奈美が呟く。
「ああ、そういえばもうすぐだな」
聞けば最近、何故か美琴も林檎の皮を剥く練習をしているらしいというから、まったく世の中、何が流行るかわかったものではないのだった。
山ほど林檎持って保奈美と勝負しに来ると言っていたが、まあ、やっぱり勝負にはならないだろう。
「そうすると皮が剥けてる林檎がいっぱいできるから、そしたらアップルパイを焼こうと思って。そろそろ生地を作るから、なおくん、手伝ってくれる?」
「ああ、わかった」
俺と保奈美は連れ立って台所へ向かい、途端に玄関先で呼び鈴が鳴って、ふたりして苦笑いを漏らす。
「行ってくるよ」
「お願い、なおくん」
そのまま台所に入る保奈美と分かれて、俺は玄関へ。
俺と保奈美の共通の親友が、扉の向こうで待っている。
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