「ただいまー」
夕刻。
保奈美はそう言って、久住家の玄関を開ける。
「おう、おかえり保奈美。ってそうだ、保奈美宛てに何か荷物が届いてたぞ? ほらそこに」
「え? わたしに?」
出迎えた直樹は、下駄箱の上に置かれた長方形の段ボール箱を指差した。
「だってそれ、書いてあるだろ宛名」
「宛名‥‥‥って、なおくん、これ」
久住保奈美様。
宅配便の伝票には確かにそう書いてあった。
「受け取っちゃった俺も俺だけど、届くもんなんだな、そんな宛名でも。送り主の欄もちゃんと埋まってないし」
「‥‥‥そうだね。なんか、ちょっと変な感じかも」
大学生になった直樹と保奈美は、無人だった直樹の実家で暮らしていた。
既に婚約はしているふたりだが、まだ結婚はしていない。だから、事実の上では同じことかも知れないとしても、ともかくも正式には保奈美は『藤枝保奈美』であって、『久住保奈美』は未だ存在しない。
実際には、それでも届いてしまったのだが。
「でもこれ、伝票には『調理用具』って書いてあるね」
「ああ、さっき見た。何だろうな調理用具って。鍋とかか?」
話しながら居間まで戻ってきたふたりは、問題の箱を卓袱台の上に置いた。
「お鍋だったらこんなに浅くないと思うな。んー、このくらいだと、中はフライパンくらいじゃないかって思うんだけど」
何か想像しながら、左手の手首をくいくいと動かしてみる仕草。
もしかしたら保奈美にはもう、中身がどれくらいの大きさと重さのフライパンなのか、察しがついているのかも知れない。流石は元・料理部のエースである。
「さて。それじゃなおくん、開けてみよっか」
「大丈夫かな」
「何が?」
「何だほら、開けたら爆弾でしたとか、開けたら毒ガスがとか」
「そんな変な襲われ方する心当たりなんてないよ、わたし。なおくんは何かあるの?」
「いや、ないけど」
「それなら大丈夫だよ。それでは」
包装紙を丁寧に剥がし、露わになった段ボール箱の蓋を開く。
「おおっ」
果たして、中身は確かに、黒光りする新品のフライパンではあった。
「あれ? これって」
やや大袈裟な赤いグリップのついた取っ手に、取り敢えず左手を伸ばしてみる。
握ってみて、持ち上げてみて、
「あ、やっぱり」
おもむろに右手に持ち替え、何か得心がいったように頷く。
「ん? どうしたんだ?」
「んー。右手はおたまとか菜箸を使うことが多いから、フライパンを右手で振ることってあんまりないんだよ。でもこれ、右手で握るように作ってあるっていうか。わたしには、ちょっと使いづらいかも」
握った指によく馴染む形に、緩く溝の切られた赤いグリップだ。‥‥‥ただし、右手で握った場合に限っては、だが。
再度左に持ち替えてみるが、左手で持つと溝の形が指にまったく沿わないため、単にごつごつして握りづらいだけだ。
「左利き専用とか?」
「ん。そんな感じかな」
「へー‥‥‥」
「普通はそういう風には作らないんだよ。グリップ付ける場合でも、どっちの手で持つ、って決まっちゃわないように、ただ丸い木にしたりとかね」
保奈美ほど料理に詳しいわけではない直樹だが、そんな直樹でも、どちらかの手でしか握れないフライパンは不便だろう、と思う。
「でも、それじゃその赤いのはなんでわざわざついてるんだ?」
「んー。それがよくわからないんだけど」
「説明書とか入ってないのか?」
卓袱台から取り上げた箱を直樹が引っ繰り返す。
ぱかんぱかんと何度か底を叩くと、小さな紙が一枚、はらりと床に落ちた。
お誕生日おめでとうございます。
普通のフライパンはもうお持ちでしょうから、殴打用に調整したフライパンをお贈りします。なかなか起きない彼氏の目覚まし、不埒な客の撃退、不届きな男子寮生のマジ殴りなど、様々な用途にお役立てください。
「差出人は‥‥‥フライパン友の会? 羽根井優希、レイチェル・ハーベスト、シスター天地、の連名か。保奈美、この中に知り合いはいるか?」
「え、いないけど。殴打用って何‥‥‥ああ、これってそういうことか」
もう一度頷いて、保奈美は右手でフライパンを握り直し、ぶんぶんと軽く振ってみた。
「うん、やっぱり。こうやって持つと、振り回してもブレないように、ちゃんと形が考られてるみたい」
「それで殴打用?」
「そうみたい。つまり‥‥‥これでなおくんを殴れ、っていうことなのかな?」
「えええええ」
もう一度、保奈美はフライパンをぶんと振るって、
「せっかくだから使わせてもらおうかな。覚悟してね、なおくん」
何やら妙に楽しそうに、保奈美は笑った。
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