頼まれもしないのに毎日毎日温室の手入れにやってくる卒業生の背中に向かって、
「橘の方からも聞いてるとは思うけど、あっちの作業は順調よ。成分の研究もそれなりに進んでる。橘自身の作業としてはね、あっちの栽培スタッフに対する通年のレクチャーはもうすぐ終わる予定だから、その後はもう、今までみたいに何度も何度も向こうへ、ってことにはならないと思うわ」
尋ねられてもいないのに‥‥‥半ば言い訳めいたことを恭子は言う。
「そうですか? でも俺は大丈夫ですから、ちひろちゃんにいて欲しい作業があるんだったら、慌てて帰ってこなくても、とは思いますけど」
昨年の今頃、せっかく恋人が未来から戻ってきたと思ったのに、それからの一年も何だかんだで離れ離れの時間の方が長かったその背中は、だが、そう言われても特に動じる風でもない。
「そう‥‥‥あのね、久住も橘もそう言ってくれるのは、私だけじゃなく未来の全員にとってね、本当、助かるし、嬉しいことなの。あなたたちには感謝してる。だけどね、だからって、そういう個人的な好意に私たちがいつまでも甘えてるワケにはいかないわよ。未来のスタッフには、これで引き継いだらもう後はない、くらいの真剣さで作業に当たって欲しい、ってちょっと思ってたところだし‥‥‥橘がね」
どこか困ったような、何かおかしいような、微妙な表情の恭子がふっと息を吐く。
「何かあったんですか?」
「いえ、トラブルとかじゃないわよ? そうじゃなくって‥‥‥あの子の教え方って丁寧でわかりやすくて、こっちにしてみたら申し分ないんだけど、欲をいえばね、ちょっと面倒見がよすぎるのよ。あれだと教わってる方がすぐ油断しちゃうし、油断してても橘の方で何とかしてくれちゃうし」
「ああ」
ありえることだ、と直樹は思う。
「教える人なんてちょっといい加減なくらいでちょうどいいと思うのよね」
「恭子先生はもうちょっといい加減じゃなくてもいいと思うんですが」
「何よ、可っ愛くないわねー」
「それはもう、恭子先生の教え子ですから」
「‥‥‥っとにもう。ああ言えばこう言うんだから」
ずっとしゃがんだまま、プランタ相手に何やらごそごそ作業をしていた直樹が、ようやく立ち上がり、ぶすくれた顔の恭子に向き直る。
泥だらけの軍手の甲で額の汗を拭うと、額に土の模様が流れた。
そんな姿が‥‥‥随分と様になったものだ。
感心したように、恭子はひとつ頷く。
「それで話を戻すけど、確か橘の誕生日ってもうすぐでしょ? 今度はそれまでに戻って来れるように、手続きを進めてるわ」
そう言われて、
「うわ。参ったなそりゃ」
「え、何で? 嬉しくないの?」
「いや、嬉しいですよ? そうじゃなくて」
甲の部分よりも酷く汚れた軍手の指先で、困ったように直樹は頬を掻く。
「‥‥‥まだ帰ってこないのかと思って、何も準備してませんでした」
「ああ。なるほど」
ああ言えばこう言う直樹だが、存外、可愛い奴でもあるのであった。
恭子はくすりと笑みを零す。
「んー、あんまり高いと予算のこととかいろいろあるけど‥‥‥そうね、まあペアリングくらいでよかったら、私たちの方で用意してもいいわよ?」
「いやそんな。そういうのは自分で稼いでなんぼだと思いますし」
本当に恐縮したような顔で、直樹は遠慮してみせるが、
「だからさ。稼いだじゃない、久住」
恭子は引き下がらなかった。
「は?」
「橘があっちで苦しんでる間、大学受験の大事な一年を丸ごと棒に振ってまで、ここの温室で実験続けてくれたでしょ。結局、コンスタントに種がつくのはこっちの方が随分早くて、それでどれだけ橘や私が救われたか‥‥‥あの子を」
あの子を救世主にしたのは誰だと思ってるのよ?
言いかけて、恭子は言葉の続きを呑み込んだ。
言ったとしても、直樹から戻ってくる答えがわかりきっているように思えたからだ。
『それは、ちひろちゃんが頑張ったからですよ』
打算も駆け引きもそこにはない。
直樹は多分、ただ単に、本当にそう思っている。
‥‥‥だから、恭子たちは苦しいのだ。
「ねえ久住。何か見返りが欲しくてやってるわけじゃないっていう、久住の言いたいことはちゃんとわかってるつもりよ。だけど、未来の人間がいくらあなたを褒めたって、この時代の現実は何も変わらないわ。青いフォステリアナの存在を公にもできない以上、あなたが頑張ってくれたことをこの時代に認めさせることもできない。でも、だからってね、そのためだけに一年も寄り道みたいなことまでさせておいて、そんな久住に私たちからは何の恩返しもできないっていうの、私たちだって結構キツいのよ、正直」
現在の温室で種のつけ方を方法論にまで昇華し、未来で種を手に入れようとしていたちひろたちに最初の轍を用意した。
ちひろや未来人にとっての真の救世主は、ちひろを未来へ送り出して以後、大事な三年生の一年間を実験に捧げ、その僅かな期間で驚くべき実績を上げてみせた直樹だったのだ。
だが、未来人がいくら彼を称えようが彼に得るものはなく、現代人は称えられるべき彼の功績の存在に気づくことができない。
いっそ、直樹が少し強欲なくらいであってくれた方が、未来人としては気が楽だ。それならば、ともかくも直樹の恩に報いることはできるだろう。そういう種類の人間でなかった直樹のことを‥‥‥元教え子で今は卒業生だとか、未来の秘密に近しい現代人だとかいうことでなく、ひとりの人間として、恭子はとても好ましく思う。
そして、故にこそ始末に負えないことも世の中にはあるし、
「でも、それならちひろちゃんはもう帰ってくるんですよね? それなら俺、その他なんて別に」
それでも、未来人の精神的平穏にしか寄与しない類の提案があっさり謝絶されてしまう関係、というものも世の中にはある。
「本当、そういうところは全然変わんないわね、久住」
肩の荷はまるで降りないが、そう言ってもらえた方が罪悪感はなくていい。
まるで直樹の成果を貢物で買い上げようとでもするかのような、自分のおかしな言い草に対する罪悪感は。
「だから恭子先生も、そんなに気に病まないでください。俺はもう、いちばん欲しいものはちゃんともらいましたから」
そんな内心を見透かしたようなことを直樹は言い、
「ええ、そうね。わかったわ」
ばつが悪そうに目を逸らしながら、恭子は少し笑う。
不意に。
「そうだ。やっぱり久住、ひとつプレゼントあげるわ。とっておきよ?」
何か思いついた顔の恭子が顔を上げた。
「え、だから」
「いいから黙って聞きなさい。橘が帰ってきたら、それから久住、ちゃんと名前で呼んであげたらどう? それがプレゼントってことでいいじゃない。別に元手も準備も要らないし」
それは‥‥‥実に不思議な提案であった。
「いや、だけど俺、ちひろちゃんのことは今だって名前で」
直樹は思わず首を傾げるが、
「それよ。前から思ってたんだけど、あなた、いつまで名前に『ちゃん』なんて付けとくつもりなの? それに橘も。『久住先輩』ってさ、そりゃ年の差はどうやったって縮まらないんだから、いつまでだって先輩は先輩なんでしょうけど、でも久住、今は橘と同じ学園の生徒ってワケでもないじゃない、もう。だから橘にもさ、いい加減名前で呼ばせてあげたら? 取り敢えず久住がそう言い始めれば、その後のきっかけくらいにはなるわよ」
よく考えてみれば、確かに恭子の言う通りなのかも知れなかった。
「‥‥‥なるほど。考えつきませんでした」
「鋭いのか鈍いのか時々わかんないわよね久住って」
振り返った恭子は、これ見よがしに肩を竦めてみせて、
「さ、久住。今日はもう上がって、顔と手洗ってきなさい。コーヒー淹れてあげる」
振り向きもせずに温室を後にする。
「ええと」
残された直樹は、もうじき帰ってくる恋人の姿を思い浮かべ、
「おかえり、ちひろ」
練習か何かのように、誰もいない空間に向かって、ごく小さな声で呟いてみた。
『あ‥‥‥ただいま、直樹さん』
想像上の恋人はそんな風に答えて、嬉しそうに‥‥‥とても嬉しそうに、直樹に笑いかけてくれた。
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