Wednesday Moon.[26640829]  


  

「そういえば、夜はブラインド閉めちゃうんですね、この部屋。今日は結構、月が綺麗に見えるんですけど」
 熱いコーヒーを啜りながら、直樹は理事長室を見回す。
「ええ。ちょっと、恐いので」
 玲は真後ろを振り返っている。
 閉じられたままのブラインドを見透かすように。
「恐、い?」
「月や星の光は、悪魔がこちらを見ている瞳の光ではないか、という説も、一部にはあったものですから」
「あの‥‥‥玲さん、本当に未来の人、ですよね?」
 何か信じられないものを見るような目で、直樹は玲の背中を見つめた。
「ああ、それはもちろん」
 向き直った玲は、
「天体が実際には何であるか、なぜ地上のわたくしたちには星は光って見えるのか、そういったことをわたくしたちが知らないから、ということではありませんよ?」
 彼女にしては珍しい、戯けたような仕草を見せる。



 真の恐怖は『名状できない』という事実の裡に宿ります。故に人は、わからないものを理解しようとする行動の手始めとして、その名状できないものに名前をつけようとします‥‥‥それをマルバスと呼び、マルバス種のウィルスであると認識することによって、わたくしたちはまず、『わけのわからない漠然とした恐怖』を『対抗し、いずれは超克し得る敵』の次元にまで落とし込みました。
 ところで、マルバスという名は、その昔神の座より堕し、ソロモン王に使役されたという七十二の悪魔のひとりが持っていたとされる名です。しかし本来それは、少なくともウィルスの名前の由来としては現実的ではありません。何故なら、由来であるマルバスという悪魔には、実在するものとしての特徴、実在するウィルスとの類似を認めることができず、準えられる対象として妥当かどうかが誰にも検証できないからです。



「でも、それはマルバス。‥‥‥誰が最初にそう呼んだのか、今となってはわかりませんけれども」
「それは、ええと、名前がたまたま悪魔だったから、そのもの自体も結局悪魔、ってことですか?」
「ええ。概ねそのようなことです。まあ、大切なのは『理解できている』という認識で、理解の内容が正しいかそうでないかはあまり重要でない、ということも世の中にはあるのでしょう」
 どこか釈然としない表情で、直樹はもう一口、コーヒーを啜る。



「それで、明日から悪魔退治ですか」
「ええ。みんな本当によくやってくれました。もちろん、久住さんも‥‥‥あなたがいてくれて本当によかったと思っています」
 取り敢えず、玲と恭子と結の三名が未来へ戻り、こちらで祐介に投与したのと同じワクチンを現地で試してみるそうだ。臨床例はまだひとつしかないが、その一例では劇的なまでの効果が確認されており、今のところ、見通しはかなり明るいらしい。
「成功すれば、次はワクチンをあちらで製造する作業に掛かります。恐らくそれも、遠からず軌道に乗るでしょう」
「それで最終的には、未来からきた全員が未来へ引き返す。時空転移装置はもちろん使えなくなる」
「ええ。そういうことになります」
「あの‥‥‥お願いがあるんです。俺、俺も、玲さんと」
 直樹は続けて何か言おうとして、
「認められません」
「でも」
「今日も明日も平日です。授業があるじゃないですか」
「玲さん! 俺は本気で」
「お願いですから」
 それを言う間も与えずに、
「これ以上のことを、わたくしに言わせないでください」
 玲は言下に切り捨てた。



「わたくしたちは帰ります。わたくしたちの夜と戦うために。今夜あなたがそうしたように、眺めるものとしての月や星を、百年先の世界にも取り戻すために」
 そのうち直樹は、不自然に重い瞼を必死で抉じ開けようとしている自分に気づく。
「勝手に押しかけておいてこういう言い方は失礼だとわかってはいますが、あくまでもこれはわたくしたちの問題です。この時代に生きている人々の人生を、これ以上、わたくしたちの都合で捻じ曲げるわけにはいきません」
 それは抗い難い圧力をもって、直樹の意識を眠りの淵へ叩き落とそうとする。
「わたくしたちは、この時代に何ももたらしません。マルバスはもちろん、未来に関するあらゆる情報も、そして僅かな間とはいえ、ここに暮らしたわたくしたち自身の存在、わたくしたちが抱いた想いも。何ひとつ、ここに置いては行きません‥‥‥ですから」
 とうとうその場にくずおれた直樹を抱いて、その顔を両手で引き寄せる。
「わたくしが今したことも、わたくしの気持ちのことも」
 身勝手な、長い長いくちづけの後で。
「次に目を覚ました時には」
 寝息を立てる直樹の耳元に玲は囁いて、それから、頬を伝う雫を指で払う。
 雫と一緒に、何かを振り払うように。
 ‥‥‥すべて忘れていてくださいね。
 言葉の続きは、玲自身にさえよく聴き取れなかった。







 校舎と時計塔の真ん中あたりの地面に立って、翌日も直樹は月を見上げた。
 そうしていると何か思い出せることがあるような気がしたからだが、やはり、気のせいか何かだったらしい。



 地上に視線を戻した直樹は、当たり前のように時計塔へと歩きかけて‥‥‥立ち止まる。
 こんな遅くに、誰もいない時計塔にどんな用があってそこへ向かっていたのか、それも思い出せない。
 でも。
 でも何か、とても大切な何かがそこにあった気がした。
 何かのために何かをずっと手伝っていたような、あやふやな感覚だけが、確かに、直樹の中にあった。



 何がしたくてどこへ向かっているのかわからないまま、忍び込んだ時計塔の中を駆け上がると。
 そこに扉か何かがあった筈の場所にはやはり扉も何もなく、小さくて綺麗な字で、ただ一行、くすんだアイボリーの壁に英文の書き置きが残されているだけだった。







May the moon be beautiful for the next century.

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