何しろ、よく晴れた日曜の午後のことだ。
客席のほぼ全部が空のままの店内を入口から見渡しながら、この時分の喫茶店なんて確かにこんなものかも知れない、と砂緒は思う。
「いらっしゃいま、ってお姉ちゃん!」
エプロン姿のウェイトレスの挨拶が、途中で急に、驚いたような声に変わるが、
「こら。今はお客さんでしょう、ウェイトレスさん?」
砂緒の方は涼しい顔で、ごく穏やかに、そんなことを指摘してみせる。
「あ、そうでした。‥‥‥えへへっ」
照れたように笑う真名と一緒になって、砂緒もくすりと笑みを零した。
「お客様、お煙草はお吸いになりますか?」
どこか改まった声が、言わずもがなのことを聞く。
「いえ」
今はお客さん、と指摘したのが自分である以上、言わずもがなでも答えねばならない。ほんの少しだけ、言わずもがなの指摘をした自分が恨めしくなった。
「それでしたら、禁煙席の方にご案内いたします。こちらへどうぞ」
くるりとエプロンを翻しながら、ウェイトレスはその場で踵を返し‥‥‥だがそこで、業務の中断を余儀なくされる。
「あら?」
進行方向の右斜め前。
「ええと、川原さんじゃない?」
手元の文庫本から顔を上げた、見た限りでは店内で唯一の先客もまた、目の前に砂緒が立っているのがさも意外であるかのような声をあげた。
「え‥‥‥ああ、希崎さん?」
それがその、唯一の先客の名であった。
「ここ、どうぞ」
恵の、文庫本を持っていない方の手が、向かいの席を指し示す。
「いいの?」
「もちろん」
ウェイトレスが砂緒を誘導しようとしていたのは、本当は、そこよりもっと奥の席なのだが、
「それじゃ」
恵の手に示されるままに、砂緒は結局、恵と同じ席に着いてしまった。
やがて運ばれてきた紅茶に口をつけて、それから、ゆっくりとカップを受け皿に戻して。
「何を読んでいるの?」
砂緒がそう訊ねるまで、ふたりの間に言葉はなかった。
「これはミステリ。この間までは時代小説。ドキュメンタリも読むし、ホラー、エッセイ、恋愛小説、それから」
要するに『手当たり次第』ということらしい。
「川原さんは、本は読まないの?」
「私は、あまり」
どうやら本当に、あまり読んでいないようだ。砂緒の表情から恵はそのことを察する。
「それじゃ川原さんは、休みの日って何をしているの? ちょっと時間がある時とか‥‥‥例えば、こんなお天気の日曜日に、喫茶店なんかで」
言いながら硝子窓の外に目をやる。
まったく、散歩日和とはこのことに違いないのに。
「‥‥‥何も」
恥ずかしいことを話すように目を伏せて、砂緒はぼそっと答えた。
「自分の家にピアノがあれば違うのかも知れないけれど、いつもいつも、暇だからという理由だけで尚の家に押しかけるのは、少し」
「なんだ。もう尚とつきあってるって聞いてたから、そういう風に押しかけてるのかと思ってた」
恵はおかしそうに笑った。
「何よ‥‥‥だって、尚にだって、尚のプライベートというものはあって」
「なくていいのよ。どうせ何もしていなければ寝てるだけなんだから。今だって、そうなんじゃないかしら?」
あくまでも軽く、恵はそう言ってのける。
「よく知ってるのね」
「勝手知ったる何とやら、ってね。羨ましい?」
意地悪そうに恵は笑ってみせ、
「そんなことないわ」
平然と‥‥‥恐らくは努めて平然と、そう答えながら、砂緒は紅茶をもうひとくち。
「そういえば、ピアノの方はどう?」
「え? ええ」
どう、とだけ訊かれても、どう答えればいいのかわからなくて、砂緒は曖昧に頷く。
「全日の方でも今ちょっと有名なのよ、川原さん。怪談になったりだとか」
「‥‥‥怪談?」
「学校の七不思議なんかによくあるじゃない。真夜中、誰もいない音楽室からピアノの音が」
意外な言われように驚いた顔の砂緒を、恵は楽しそうに眺めている。
「え、でも、いつも扉はきちんと閉めているし、音楽室の壁は防音の筈だから、そんなには‥‥‥大体、その頃は定時制が授業をしているのに、全日の生徒が夜中に残っているというのは」
「ああ、いいのよ。川原さんを咎めているわけじゃないわ」
それはそうでしょう、と砂緒は思う。
定時制が授業を始める頃には全日制の生徒は校外に追い出されている決まりだし、授業前後の音楽室の利用についても、尚が書面で用意してくれた許可証がある。遅くまで練習していれば、ひょっとしたらそうしてお化け扱いされるくらいのことはあるのかも知れないとも思うが、少なくとも砂緒の方には、それは咎められて困るような後ろ暗いことではない。
「もしかして川原さん、怪談は嫌いな子だった?」
「嫌いというか‥‥‥興味がなかった、と思う」
改めて思い出そうとしてみると。
尚と一緒に、尚の家でピアノを弾いていた‥‥‥それ以外のことが、あまりうまく思い出せない。
あれは、ピアノを弾くことが楽しかったのか。
それとも、尚といるのが楽しかったのか。
思い出そうとして、そんなことを思い出そうとしている自分が不意に気恥ずかしくなって、
「わからないわ」
そっぽを向くように、頬杖を突いた顔を少し横に向けて、砂緒はそう呟く。
それで顔が向いた硝子窓の外は相変わらずの好天だ。
まったく、散歩日和とはこのことに違いないのに。
「それで、希崎さんは」
窓の外に目を向けたままで、
「ん?」
「休みになると、この店で本を読んでばかりいるの?」
独り言のような小さな声で、砂緒は訊ねてみる。
「そればかり、というほどではないけど、ここで本を読んでいるのは好きよ。それに喫茶店って、そういう風に過ごすためのお店でしょう?」
「そう、ね」
答えるが、本当はよくわからない。
「呆れた無趣味っぷりね。道理で、あの尚と話が合うわけだわ」
よくわからない、と思ったことを見透かしてでもいるかのように、
「むしろあなたたちは、ピアノを弾いていない時は何をしているの?」
恵はそう言ってにやりと笑う。
「‥‥‥何よ。煩いわね」
その時、笑われた砂緒がむくれてみせたことに、
「お‥‥‥お姉ちゃんが怒ってる‥‥‥」
笑った恵よりも驚いたのは、何故か、たまたまそこを通りかかったウェイトレスであった。
「あら川原さん‥‥‥って、両方とも川原さんね。どうしたものかしら」
少し困ったような顔。
「あ、それでしたら希崎先輩、私のことは名前で呼んでくださっても。『真名』って呼び捨てでいいですから」
「ええ。それはそれで考えないでもなかったけれど」
何か思いついた顔。
「でも妹さんを名前で呼ぶのに、お姉さんだけ『川原さん』は何だかバランスが悪いじゃない?」
意味ありげな流し目。
「ああ、確かにそれもそうですよねえ、砂緒お姉さま?」
流し目の二重奏。
「なっ‥‥‥名前くらい、好きに呼んだらいいじゃない。ふたりして何よもう」
むくれたままの顔を赤くしながら、ぶつぶつと呟く声。
「そう? それじゃ取り敢えず、これからは『砂緒さん』って呼ばせてもらうことにするわね。ああもちろん私のことも、『恵』でも『恵さん』でも好きなように呼んでもらって構わないから」
途端、あっという間に話を持っていってしまう声。
「あ、それじゃ私も、希崎先輩のこと、これから『恵先輩』って呼んじゃっていいですか?」
「さて、それはどうしようかしら」
「ぇー‥‥‥」
「あはは。ごめん嘘。いいわよもちろん」
「わーい! ありがとうございます!」
「それにしても、真名はちゃっかりしているわね。今は別に、真名のことを話していたのではなかった筈なのに」
「要領のよさは次男次女の取り柄ですから」
「それはやっぱり、長男長女の背中を見て育つから?」
「ええもう。姉は不器用さんでしたから、学習の機会にはこと欠きませんでした、はい」
再び、流し目の二重奏。
「真名?」
‥‥‥しゃらり。
ウェイトレスの耳にごく微かな音が届く。
「黙って聞いていれば言いたい放題ね」
どこからいつ取り出したのやら、砂緒の右手がシャープペンシルの替え芯ケースを弄んでいる。
「わーっお姉ちゃんが怒ってるーっ!」
ウェイトレスは脱兎の勢いで店の奥へ引っ込んでいった。そんな仕草でも何だか楽しそうで、砂緒にわからないように恵は少し笑う。
「もう‥‥‥今はお客さん、ってさっき言ったばかりなのに。あの子、本当にあれでアルバイトなんて勤まっているのかしら」
「でも、あの子はこの店の看板娘だって七雄さんが言っていたから、看板娘は勤まっているんじゃないかしら?」
「真名しかいないだけじゃない」
「真名だけいれば充分だからじゃない?」
まったく、ああ言えばこう言うんだから。
小さく溜め息を吐きながら‥‥‥ふと、こんな他愛ないやりとりを、以前のようには不快だと感じていない自分、に砂緒は気づく。
そういえば、自分の溜め息に溺れてしまいそうだったあの頃の自分の背中が、前よりもまた少し、遠く視えているような気がした。
「それで砂緒さん」
突然。
「何かしら?」
「このお店には、どうして来たの?」
恵はそんなことを訊ね、
「え‥‥‥」
替え芯ケースを握ったまま、砂緒はその場で止まってしまった。
「別に、真名に会いに来た、というわけではないでしょう?」
「それは、その、理由のひとつではあったけれど」
何かの言い訳のように、もごもごと呟いた砂緒の声を、
「それは、理由がそれだけではなかった、という意味よね?」
耳聡い恵はもちろん聞き逃さない。
「ここで待っていれば、そのうち尚が起きてきて」
意地悪な言葉が核心に突き刺さる。
「‥‥‥会えるかも、って思った?」
最早頷く他にない砂緒が、それでも頷くことを躊躇う様を、
「ごめんなさい。ちょっと意地悪だったね」
じっと見つめていた恵は、そこで急に相好を崩して、
「本当はね、私もそうだったの、砂緒さん。時間潰しに本を読むことを、私はこのお店で憶えた。昔はそうやって‥‥‥今、砂緒さんが待ってるみたいに、私もずっと、尚のこと待ってたから」
ぱたん。
まだ開いてはいたが、砂緒が来てからはまったく読んでいなかった文庫本を、恵は畳んだ。
「例えばね、尚の家に電話するとか」
空いた左手でスカートのポケットをまさぐり、引っ張り出したキーホルダーの中から、
「これ、尚の家の合鍵。これで入っちゃうとか‥‥‥やりかたなんて、いくらでもあったのにね」
ひとつだけ外した鍵を、恵はテーブルの真ん中に置く。
「砂緒さんは、尚のこと、好き?」
こくり。
「こんな、彼女放ったらかしでお昼過ぎてもまだ寝てるようなつまんない男だけど、一緒にやっていけそう?」
こくり。
「尚は、砂緒さんのこと、好きかな?」
‥‥‥こくり。
砂緒は、はっきりと頷く。
「そっか。ん、わかった」
恵の指先が弾き出した鍵が、砂緒のティーソーサーにかちんと触れた。
「それ、尚のおばさんから預かった鍵なの。でも、これからは‥‥‥砂緒さんと付き合ってるとか、尚は絶対そんなこと話してないと思うから、鍵を渡したことは、私からおばさんに話しておくわ。だから遠慮しないで、それは砂緒さんが持っていて」
「え、でも」
「だって嫌でしょう? 彼氏の部屋の合鍵を別の女が持ってる、なんて」
「‥‥‥それで、いいの?」
砂緒の言葉の意味が、当然、恵にはわかっている。
降りてしまっていいのか。
目の前の砂緒に尚を譲り渡して‥‥‥尚が一緒でなくなっても、恵は、それでいいのか。
「道端の木の下でね」
唐突に、
「ゴドーが来るのを、ふたりの浮浪者が待っているの」
恵はそんな話を始めた。
「でも彼らは、それがゴドーという名前の人であることしか知らない。会ったことも見たこともない、どんな人かも知らない人を、その木の下で、適当に暇を潰しながら、ふたりはずっと待っている。そして今日、ゴドーが来なければ、この木の枝にロープをかけて首を吊ろう、と約束している」
「何故?」
当たり前の砂緒の問いに、
「さあ?」
肩を竦めてみせただけの恵。
「夕暮れになると、少年がその木のところへやってきて、ゴドーは今日は来ない、でも明日には必ず来る、と告げる。ふたりはもう一日だけ待つことにする。明日、ゴドーが来なければ、この木の枝にロープをかけて首を吊ろう。‥‥‥また幕が上がり、ふたりは相変わらずゴドーを待っている。夕暮れになってまた少年が現れ、ゴドーは今日は来ない、でも明日には必ず来る、と告げる」
ひとしきり話し終えたところで、恵は紅茶を口に含む。
「それでは、浮浪者は死んでしまったの?」
「ううん。その晩も彼らは言うのよ。明日、ゴドーが来なければ、この木の枝にロープをかけて首を吊ろう、って。それで幕が降りる。この話はそのシーンでおしまいで‥‥‥だからきっと、明後日も、それからもずっと、ふたりはただゴドーを待って」
「そして、それからもずっと、ゴドーは来ない?」
確かめるように呟いた砂緒の言葉に、恵は頷いた。
「それ、何の話?」
「戯曲。『ゴドーを待ちながら』って題の。作者は‥‥‥ええと、忘れちゃったけれど」
「ふうん‥‥‥」
「ゴドーが私の気持ちに気づいて‥‥‥ゴドーの方から私に答えをくれて、それでゴドーが、私をここからどこかへ連れて行ってくれたらいいって、多分、私は思ってた。電話もできて、合鍵まで持ってて、いつでも迎えに行けたのに、それでも私はただ、ここでゴドーが来るのを待ってしまった」
砂緒はきっと、ずっと忘れられないのだろう。
「あの鈍いゴドーがひとりで勝手にそんなことに気づく筈がない、だからそんな日は待っていても来ないって、心のどこかではずっとわかっていたのに」
その時、恵が見せた、鮮やかな笑顔を。
「それで今日、いつもの少年は、いつもより少し早くにやって来て、今までとは違うことを私に告げた。あなたがこの木の下でゴドーを待っていた間に、別のどこかからゴドーを迎えに行った人がいた、と。だからゴドーはここへは来ない‥‥‥少なくとも、ここからどこかへあなたを連れ出すために、ゴドーがここに来ることは最早ない、と。それだけの話」
そうして恵は、舞台を降りた。
ところが。
「それで私は、自分が尚の彼女になる代わりに、尚の彼女である砂緒さんを小姑のようにいびることに、取り敢えず今後の楽しみを見出そうかと」
「な‥‥‥っ」
寸前のいい話は、その語り手であった恵自身によって、いきなり台無しにされてしまうのだった。
「そんなおかしな楽しみなんか見出していないで、恵ちゃんも彼氏を連れて来ればいいじゃないか」
替えの紅茶を丸盆に載せて、奥から出てきた七雄が口を挟む。
「あれ? お替わりなんて注文してませんよ?」
「別に聞くつもりで聞いていたわけじゃないが、恵ちゃんがいつになくいい話をしているなあ、と思ったものだからね。これは僕の奢りだよ‥‥‥まあ、そんなところにオチがつくとわかっていれば、準備しなかったかも知れないけどね」
悪びれもせずに七雄が笑う。
恵と違って、それがちっとも意地悪そうに見えないあたりが、七雄の人柄、という奴なのかも知れない。
「いつになく‥‥‥って、それじゃ普段はどんな話をしているんですか?」
「いや、ほとんど何も。普通の世間話を少しと、後は大体、ひとりで本を読んでいるね」
「何よ。私のピアノと読書を置き換えただけじゃない、それじゃ」
恵の顔を眺めやって、憮然と砂緒が言う。
「そうよ? だから、実は私も呆れた無趣味っぷりで、あの尚と話が合うわけなのよ」
眼鏡の位置を直しながら、飄々と恵が返す。
「‥‥‥ふふっ」
「‥‥‥あははっ」
そうして笑っているふたりの片方がなんと砂緒であったことに、
「お、お姉ちゃんが‥‥‥今度は笑ってる‥‥‥」
その場の誰よりも驚いたのは、何故かやっぱり、たまたまそこを通りかかったウェイトレスであった。
「さて」
替えの紅茶を飲み干して、
「待っているばかりではいけない、と小姑さんにお小言を言われてしまったので、気弱な私はこれからゴドーのご機嫌伺いに乗り込んでみようと思うんですが、小姑さんも一緒にいかが?」
席を立った砂緒は、手に入れたばかりの鍵をひらひらと振ってみせる。
「え? でも、ふたりきりの方がいいでしょう?」
「ふたりきりには、いつでもなれるもの」
これだ‥‥‥心の中で恵は膝を打つ。
結局、このひとことを口にする度胸、もしくは覚悟。
それを持ち得なかったばかりに、恵は、砂緒に敗れた。
そういうことなのだろう、と今はわかる。
「‥‥‥それなら、今日はお言葉に甘えようかしら」
ならば、後は小姑として、せいぜい成り行きを楽しむことにしよう。
「それなら、取り敢えずスーパーに寄って、夕食の材料でも見繕‥‥‥ってそういえば、砂緒さんは、お料理は?」
何気なく訊ねた恵に、
「はい、それが実はもう壊滅的で」
思わず口を噤んでしまった砂緒の代わりに、何故か、答える声があって。
「ば‥‥‥こら、真名っ!」
再び、脱兎の勢いで、ウェイトレスは店の奥へと引っ込んでいく。
「あらあら。それはまた手のかかる嫁だこと」
「そうは言うけど、恵ちゃんが昔、尚君に作ってあげた料理も酷かったって」
「そんなのもう時効ですっ!」
一瞬前までの砂緒よりも真っ赤になった顔で、恵は、割り込んできた七雄の言葉を遮る。
そんな風に取り乱す恵を、砂緒は初めて見た。
「ちょっと、何笑ってるのよ砂緒さん‥‥‥言っておきますけど、今はちゃんとしてるんですからね?」
「はいはい。それでは、今日はお手並みを拝見させていただきますわ、恵さん」
まったく、ああ言えばこう言うんだから。
‥‥‥別の誰かがさっき思ったようなことを、その時、恵は思った。
店から出ても、まだ日は沈みきってはいなかった。
ギリギリで散歩日和に滑り込んだふたりは、そこから、肩を並べて歩きだす。
「そういえば」
思い出したように砂緒が言った。
「今日は尚、家にいるのかしら」
「わからないけれど‥‥‥いなかったら、尚の家の台所を借りて、私たちだけで食べたっていいじゃない。そのうち尚も帰ってくるでしょう」
こともなげに恵は答えた。
合鍵を持つことに慣れている者の考え方とは、そうしたものであるらしい。勝手知ったる何とやら、か。
「それにまあ、尚のことだから、十中八九、着いたら部屋で寝てるだけ、でしょうしね」
「そうね」
その点については、そんなことではないかと砂緒も思っていた。
それが本当かどうか、事前に確かめる手段はある。
例えば、尚の家に電話を掛けてみればよい。
だが‥‥‥そうすることはせずに、ふたりはただ、ゆっくりと歩を進めていく。
いればいたで。
いなければ、いないなりに。
その足で歩いていれば、いずれ、何かがわかるだろう。
今はそれでよかった。
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